第9話 五日目まで


 はるは夢をみた。

 村の夢だった。八吉といっしょに兎を追って野を駆けていた。

 兎は草の中で見え隠れし、とうとう見つけた巣穴に駆け寄ると、すぐ後ろから八吉がやって来た。八吉ははるの背中に覆いかぶさって巣穴を覗きんだ。首元に八吉の息がかかり、はるの全身は喜びで熱くなった。

 

 振り向きたい。

 けれど、振り向いたら、八吉と頬がぶつかってしまう。

 そう思ったとき、目が覚めた。

 いつものはるの寝床だった。締め切られた板戸の隙間から、薄い光が差し込んでいる。

 

 朝が来たのだ。

 と、襖を隔てた廊下で、さちの声がした。


「お目覚めでございますか」

 夜着から体を出して、はるは返事をした。

 襖を開けて顔を出したさちは、手水を入れた桶を持っていた。横顔が硬く、そのわりには、どこか虚ろな目をしている。

 昨夜、忠興の寝所へ上がったことを気にしているのだ。

 もしかすると、さちも、はる同様男を知らないのかもしれない。それで、ほんとうは昨夜のことを聞きたくて仕方ないのだ。といって、まさか、姫の床入りの様子を尋ねるわけにはいかない。あの目は、そんなさちの気持ちを現している。


「ご気分はいかかでございましょう」

 そう言ったさちは、はると目が合うなり、さっと頬を赤らめた。


 さちったら。


 はるは知らぬふりをして、手水を使い、さっぱりとした顔をさちに向けた。そのはるの表情を見て、さちは悟ったように、頷いた。もう、いつものさちに戻っている。 


「今朝はお顔の色がよろしゅうございます」

 さちは嬉しそうに言った。姫の床入れが無事に済んだと思ったのだろう。

 おそらくさちは、はるが寝所で朝を迎えなかったと知って、気に病んでいたのではないか。普通、床入りのあと、姫はそのまま殿の寝所で朝を迎えるはずだから。

 そんなしきたりだろうと、はるが想像しているだけだ。姫というものが、初めて殿の寝所へ上がり、その後どこで眠るのかなど、村で暮らしたはるにわかろうはずがない。

 もし口が利けたなら、はるはさちに言っただろう。


「まだ、わたくしも知りません」

 男と女のことだ。

 そう言ったら、さちはびっくりして、心配するだろう。床入りはうまくいかなかったのか。姫付きの侍女なら、姫の床入りの成功を喜ぶはずだから。

 はるは昨夜、身代わりであると忠興に知られ、城のために生かされると聞いた。その後、床入りとなると身構えたが、忠興は意外にもはるを下がらせたのだ。

「おぬしは姫のふりをすればよい」

 そう言って、はるを寄せ付けなかった。

 なぜだろうと、はるは思う。下働きの侍女だからか、それとも、寝首をかかれるのを案じたのか。

 忠興は理由を言わなかったから、ほんとうのところはわからない。いつまでのことなのかもわからない。

 ただ、ほっとしたことだけは確かだ。

 忠興は、噂にたがわず、恐ろしい男のように見えた。天井の梁からぶら下がった鷲も恐ろしかったし、その下で、ずいぶんと年の離れた男とまぐわうというのも恐ろしかった。

 はるは、指を折って数えた。

 あと、八日もすれば、大きな戦が始まる。姫のふりをするのはそれまでだ。

 戦が終わったら、村に帰り……。


 八吉の顔が浮かんで、はるは首筋を熱くした。

 褥の上に八吉がいるところが浮かんだからだ。その褥の上に、昨夜見た、ふっくらとした夜着があるのがおかしい。

「姫さま、おしあわせですね」

 さちに言われて、はるは曖昧な笑顔を返した。

 村に帰れるとは限らないのだ。

 

 

 朝餉のあとに向かう忠興へのお目通りは、今朝はないと聞かされた。忠興のところへ、慈経という名の僧侶が来ているためだという。

「諸国をめぐっていらしたお坊さまですけれど、薬師(くすし)さまでもあります」

 

 さちによると、忠興はときどき慈経を呼んで、諸国の話を聞いたり、そのついでに体を看させ、薬を煎じてもらったりしているという。

 昨夜の今朝で、忠興と顔を合わせるのが嫌だったはるには、慈経の訪問は有難かった。代わりに、はるには別の用があるという。

「昨夜、国見城から、姫さま付きの侍女と、お守り役のお侍さまがお着きになりましたゆえ、お目通りを願っておられます」

 はるの顔が思わず歪んだ。ちょうど、さちが下を向いていたからよかったものの、見られていれば、何事だと不審に思われただろう。

 忠興は言っていた。てる姫さまの馴染みの侍女とお守り役は、賊に襲われて行方知れずだと。とすると、昨夜この城に到着したのは、高堂様方の追っ手に違いない。

知らず知らず、はるは鏨を挟んだ帯のところに、両手を置いていた。

「何か、ご不自由ですか」

さちが訊く。

 はるは首を振った。

 ああ、口が利けないのがもどかしい。

 利ければ、すぐに青之進を呼んできてもらうのに。


「お目通りが済みましたら、昼方(昼ころ)は書を書くことになっております」 

 姫というのは、毎日何かしらやらされるものらしい。

 

 さちは一旦部屋を出ると、すぐに膳に何やら載せて戻ってきた。見ると、膳の上には、硯や筆が乗せられている。紙もあった。ごわごわした紙が数枚、糸で丸められている。

 強ばったはるの顔に気づいたさちが、笑った。

「てる姫さまは、縫いごとだけでなく書もお嫌いですか」

 嫌いも好きもない。

「この器には」

 さちが歌うように続けた。膳の上には、土器(かわらけ)の湯呑のようなものもある。

「墨をすって溶かしてあります。筆は何本か用意しましたが、さて、てる姫さまのお好みはわかりませんでしたので」

 膳の上の道具を目にしてひるんだが、それどころではなかった。国見城から来たという姫のお付二人から、なんとか逃れる方法を考えなくては。

「お目通りはここでなさるそうでございます」

 この部屋は、忠興のところからも、城に詰めている侍たちの場所からも遠い。侍女たちが働く奥とも隔たっている。

 だが、はるになす術はなかった。

 青之進さえいれば。

 昨夜、忠興と交わした密約を、はるは青之進に伝えなくてはと思う。伝えれば、青之進が忠興の命によって、はるを守るために人手を借りることもできる。そうすれば、追っ手二人を追い払うのはたやすいだろうに。


 さちが出て行くと、廊下は静かになった。

 

 しんと不気味に静まりかえっているように思えた。それは、はるが追っ手の存在を感じるからそう思えるのか、それとも、追っ手たちが何か謀って、人払いをしたのか。


 青之進はどうしたのだろう。

 庭に目をやっても、青之進の姿は見つからなかった。庭から浪人者がやって来たとき、青之進はちょうど呼ばれて表にいた。今度(このたび)も、何かの用で別の場所へ行かされているのだろうか。

 

 ことりと、庭で物の落ちる音がした。

 木の実だった。庭には大きな欅もある。と、また落ちた。木の実は転がり、それを追って、小さな獣が庭を駆けていく。

 栗鼠か。

 はるは腰を浮かせて、障子へ近づいた。ほっとした。小さな栗鼠の姿は愛くるしく、今の緊張をほぐしてくれる。

 栗鼠をもっと眺めるために、はるは障子をそっと開けた。冷たい風が一陣、吹き込んできた。

 

 その拍子だ。後ろの廊下で足音がした。さちの足音ではないと、すぐにわかった。さちは跳ねるように歩く。

 さっと襖が開き、はるは咄嗟に床の上を転がった。

 飛んできたものが、障子を破って庭へ落ちた。小さな矢だ。転がっていなかったら、矢に当たって死んでいただろう。

 振り返ると、目を剥いた侍がいた。お守り役と偽ってやって来た高堂様方の追っ手だ。

 侍は腰のものを抜き、はるに近づいてきた。


「矢で死んでいれば、酷い目に遭わずに死ねたものを」

 侍の後ろには、侍女役の女がいた。見張りのためか、廊下の先を伺いながらたたずんでいる。

「悪く思うな。おとなしく成仏せい」

 侍の刀が、はるに向けて振り下ろされた。はるは避けて、床の上を転がった。

「む」

 侍が呻き、刀を戻す。

 はるは体勢を低くし、素早く帯の間から鏨を取り出すと、侍に体を向けた。

 侍から、すさまじい殺気を感じた。この追っ手も、本気ではるを殺そうとしている。

 陽の光に侍の刀がきらめいて、ふたたび振り下ろされた。侍は素早い腕さばきで、  

 すぐさま刀がふたたび振り下ろされる。はるは転がり、振り下ろされ、また転がった。

 はあはあと肩で息をしながら、はるは侍を睨んだ。


「勘忍せい」

 侍の表情に余裕ができた。うっすらと微笑みを浮かべ、刀が振り下ろされる。その瞬間、はるは膳の上の硯を掴み、刃を受けた。音を立てて硯が割れ、刃がはるの肩に迫った瞬間、鏨で払う。刀の刃が押しのけられて返り、侍も体勢を崩す。

「うぬ」

侍の顔に、驚愕と怒りが浮き上がった。

「おのれ、おなごと思うて甘くみ―-」

 最後まで言わぬうちに、はるは膳の上の土器を掴み、侍に向けて投げた。

 どこかで見た屏風図のように、墨が弧を描いて飛び散った。

「うううっ」

 侍の顔が真っ黒になった。

「容赦せぬ、容赦せぬぞ」

 黒く塗られた侍の顔は、鬼そのものだ。

 はるは膳が置かれた文机を思い切り蹴り飛ばした。音を立てて筆が転がる。その筆に足を取られた侍が、叫びながら仰向けに倒れた。倒れた侍は、刀を取り落とす。

 はっと、侍の顔に恐れが浮かんだが、はるは鏨を侍の心ノ臓めがけて振り下ろした。


「ぎゃああ」

 侍が叫んだと同時に、はるの鏨は侍の肩に突き刺さっていた。

 外した。そう思ったと同時に、背後に気配を感じて、振り返った。

「いいいっ」

 叫びながら、廊下で見張りをしていた侍女が、短刀を手に向かってくる。

 はるは鏨で、迫ってきた侍女の向かった。短刀はあっけなく振り払われ、床に落ちた。

「三ツ木さま」

 侍女が叫び、肩を抱くと、二人は転がるように庭へ出た。侍から吹き出る血が、床に帯のように跡を作る。

 二人は体を寄せ合いながら、庭の植木のほうへ走り去っていく。


 二人のあとを、さっきの栗鼠か、また駆けていくのが見えた。陽だまりのような庭に血の跡が長く伸び、その血の筋をまたぐように栗鼠が賭ける。

 はるは呆然としゃがみこみ、栗鼠が落としていった木の実を見つめた。


 それからはっと我に返ると、さちが運んでくれた書をしたためる紙を掴み、鏨の血を拭った。筆というもので書けばどうなるのかはるにはわからなかったが、滲みが少なく、鏨の血を拭うには格好の紙だった。



「ひゃあああ」

 

 戻ってきたさちが 襖を開けた途端、叫び声を上げた。

 

 さちはその場で気を失ってしまい、叫び声を聞いた侍女たちも喚きながら、はるの元へやって来た。

 

 今度ばかりは、知らぬふりはできなかった。部屋の中の惨劇はの跡は、覆い隠せるものではなかったのだ。

「姫さま、お怪我は」

 侍女の一人がはるに駆け寄って、手を取ってくれた。はるは努めてぼんやりとした顔を作り、虚ろな目で侍女を見返した。

「ああ、姫さま、なんということ」

 侍女は嘆いてくれたが、それよりさちを介抱して欲しかった。さちは廊下で倒れたままだ。

 城の中は騒然となった。

 駆けつけた城詰めの侍が、

「賊だ、賊だ」

と叫び、早鐘が鳴らされた。続けざまに何人もの侍たちがやって来て、庭を散策した。

「どこにも見当たらん」

「逃げたか」

 てる姫はしゃべれない。そう思っているせいで、誰もはるに賊の行方を訊こうとはしなかった。

 さちが来るまで、四半時は経っている。とうにあの追っ手たちは逃げただろう。

 

 はるは逃げた二人について考えを巡らせていた。

 二人は死ななかった。侍は肩に傷を負ったが一命は取り留めるだろうし、侍女にいたっては、無傷だ。

 

 ということは、高堂様の元へ戻り、斬り合いの様子を知らせるだろう。

 はるが反撃したと、今度こそ、高堂様方にもはっきりわかってしまうだろう。

 となると、次は。

 はるは震え、吐き気を覚えた。

 

 次に来る追っ手は、もっと手強いかもしれない。

「てる姫さま」

 聞き覚えのある声で呼ばれて、はるははっと顔を上げた。

 あっと声を上げそうになって、息を飲み込む。

 青之進だった。青之進が悲痛な表情ではるを覗き込んでいる。

 その目を見るなり、はるは泣き出してしまった。ほんとうの自分に戻った途端、恐怖が蘇ってきたのだ。


「姫さま、こちらへ」

 侍女に手を引かれて、はるは別の間へ連れられた。

 はるが血しぶきや墨で汚れた小袖を召し替える間、青之進は部屋の外で控えていた。どうやら、忠興の許しがあったようだ。

 床に入るのを許され、はるは体を横たえた。すぐに瞼が重くなった。自分で思っていたよりもずっと疲れていたようだ。

 目を開けると、陽はすっかり落ちたようで、部屋の中は真っ暗だった。

 厠へ行こうと、はるは起き上がった。その物音を聞きつけたのだろう。

「てる姫さま、お目覚めですか」

と、青之進の声がした。

 はいと、返事をするわけにもいかず、はるは黙って床の上をいざり、そっと廊下側の襖を開けた。


「お体は如何か」

 押し殺した声の青之進だったが、心底心配しているのが伝わってきた。はるが襲われたのは、ただの賊ではない。はるを殺しに来た刺客であると、この城の中でわかっているのは青之進と忠興だけだ。

「だいじょうぶです」

「またしても不覚でした。まさか、刺客の二人が、堂々と国見城からの許しを得た者として現れるとは」

 青之進は悔しげに呟く。

「二人が現れたとき、妙に辺りが静かでした。侍女たちはどうしていたのでしょう」

「それが……」

 青之進が言うには、ちょうどその頃、奥にめずらしい見世物を見せる童獅子が来た。侍女たちは群がって童の興じる演技に喜び、一時は騒然とした騒ぎだったという。侍たちは侍たちで、艮(うしとら)にある不開門(あかずのもん)で小火があり、その消火と曲者の探索に追われていたという。

 青之進は、小火が出たとき、すぐに駆けつけた。高堂様方の追っ手の仕業だと思ったからだ。結局、火はすぐに消し止められたが、下手人はわからず、ほっとした頃、さちがてる姫の間の異変に気づいたのだという。

「どちらも、追っ手が仕組んだ騒ぎと思います」

 青之進は苦々しい口調で、ささやく。

「手の込んだことをしてきたものです。まあ、そうでもしないと、城の中にいる姫を襲うというのは難しいでしょうから」

 はるもそう思った。

 青之進が、はるの顔をまじまじと見つめる。

「ほんとうに、怪我はありませんか」

「ちょっとしたかすり傷だけです」

「つくづく」

 青之進は、呆れたように目を丸くした。

「そなたは強い。またしても鏨だけで侍を倒してしまった。思うに、そなたは徐々に強くなっているのではありませんか。そなたの様子を見る限り、一度目のときより動揺が少ない」

 実ははるも感じていた。

 怖かった。とてつもなく恐ろしかった。だが、一度目のときより、冷静に体が動いた。相手の殺気に怯えても、圧倒されるばかりではなくなったと思う。心が静かであれば、相手の動きがよく見える。そう思うようになった。


「運が良かったのです」

 真実、そう思っていた。

「それに、倒したわけではありません。手傷は負わせましたが、逃がしてしまいました」

「今回の刺客によって、高堂様方は知ってしまいましたね」

 はるの反撃能力をという意味だろう。

「侍二人が殺られたとわかり、次はどんな刺客が来るか……」

 はるは両手で、顔を覆った。

「恐ろしい。てる姫のふりをするのをやめたい。でもやめるわけにはいかなくなりました」

 はるは忠興と交わした密約を話した。てる姫の身代わりとなり、城主を謀(たばか)ったことを許される代わりに、てる姫の身代わりを続け、この城のために働くと約束させられた。

「やはり、身代わりは知れていましたか」

「はい。知りながら、わたくしと祝言を上げたのです」

「殿は高堂様方の裏をかこうとしておられる」

「わたくしもそう思います」

「殿は、どんな方法でそなたを使おうとしているのか」

「わかりません。でも、忠興さまは何度も、おぬしは何者だとお尋ねになりました」

 ふっと青之進が笑った。

「殿は信じられないんでしょう。そなたが一人で刺客を倒したというのが」

「ただ、わたくしは夢中で」

「だとしても、普通なら考えられないことです。侍女のそなたが、反撃するなど。拙者もどこか狐につままれたような心地がしている。忍びか、はたまた妖魔か。初めはそんなふうに思いました」

「そんな」 


 そのとき、廊下の先に、手燭の明かりが見えた。

 はるは素早く夜着の中に戻り、青之進も姿勢を正す。

「姫さまはまだお休みですか」

 さちだった。気を失って倒れていたが、回復したようだ。

「おそらく、まだ」

 青之進が答えたとき、はるは、

「ううう」

と、声を上げた。口は訊けないが、呻き声なら発してもだいじょうぶだろう。

「あ、姫さま」

 さちが廊下でひざまずくのがわかった。

「ご無礼仕ります」

 さちが襖を開け、心配そうな顔を見せた。手燭に光の中で見るさちの顔は、すっかりいつもの元気さを取り戻している。

 よかった。

 はるはそう思いながら、起き上がった。


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