第8話 二日目

          二日目


 翌日、はるは薄い光で目が覚めた。障子の先は庭になっているようで、そこから朝の光が注いでいる。

 

 暗い朝だった。雨足は強く風も激しいのか、木々の揺れる音が聞こえる。

 寝床の上で体を丸めたまま、不安になった。今日からどんな日々が始まるのだろう。

 気を許してはならないことだけは確かだった。忠興は言うまでもなく、侍女たちにも、自分が偽物であると悟られてはならない。

 

 と、物音がした。

 障子の棧だ。

 目を向けると、人影がある。


 はるは跳ね起きて、布団の下に隠しておいた巾着を掴んだ。昨晩、はるは、この巾着だけは肌身離さず身に付けていた。野盗に襲われて、唯一残った物だろうと、誰もはるから取り上げなかった。おかげで巾着の中の八吉の鏨は、そのままだ。

 身構えたまま障子に映った影を睨んでいると、声がした。


「はる殿」

 かすかな声だったが、はっきりと聞こえた。青之進の声だ。

 はるは障子に飛びつき、開けた。目の前に、庭にうずくまって濡れている青之進がいた。

 泣きたいような懐かしさがこみ上げ、はるは庭へ飛び出しかけた。

 忠興によって、正式にはるの警護役をまかされた青之進は、はるに与えられた部屋から近い間に詰めている。詰所からはるの間までは庭でつながっており、庭越しにはるに会いに来られるようだった。

「そのまま」

 青之進は厳しい表情で言い、辺りをうかがってから、近づいてきた。そして、口の前に人差し指を当てる。しゃべりそうになったはるは、ぐっと息を飲み込んだ。


「国見城の噂が聞こえてきました」

 はるは頷く。

「てる姫さまは、行方知れずのままのようです」

 ということは、いまだどこかに隠されているのだろう。

「お城のほうでも、偽物のてる姫と利賀様の祝言が執り行われたことはまだ伝わっていないようです」

 だが、今日中には、知らせが行くだろう。朝のうちに、利賀様の書状を持った者が、国見城に向かうはずだ。書状には、賊から姫が助かったこと、祝言を済ませたことが記されるだろう。

 怖くなった。はるは思わず、両手で口元を覆い、首を振った。

 青之進も同じ推測をしたようだ。


「早ければ、今日の午の刻(午前十一時)までには、お城が知るところとなりましょう。だが、問題はそれだけではありません。高堂様の手の者が、柴田様を殺めた者を探しているようです」

「うっ」

 思わず呻き声が漏れてしまった。

 後ろを振り返る。

 だいじょうぶだ。誰もいない。雨音も助けてくれている。


「柴田様を殺めた者を見つけ出し切るのが目的でしょう。だが、それだけではありません。てる姫の偽物がいてはまずいのです」

 はるを斬りに追っ手が来るということだ。

「危険です。じゅうぶん注意してください」

 そんな。

 はるは思い切り首を横に振った。

 無理だ。

 追っ手を追い払うなんてことはできない。柴田様に襲われたあのときは、ただただ無我夢中だったのだ。二度目、おなじことなどできるものか。

 あのときは、天が味方してくれただけ。


「そばでお守りできるよう、なんとか手を打ってみます」

 そう言った青之進の顔は歪んだ。追っ手からはるを守るのは難しいと考えているのだろう。

「そろそろ人が起き出す頃です」

 青之進はそう言って、立ち上がった。

 暗い朝だったが、若干明るさが増したように思われる。もう、卯の刻(午前六時)になるだろうか。

 青之進は激しい雨の中を、庭の植木の中へ走り去った。


 雨に濡れるのも構わず、はるは青之進が去った庭の茂みを見つめていた。後ろの襖が開き、侍女が入ってきたのも気づかなかった。

「中へ入りましょう。お体に障ります」

 昨晩と同じ侍女が傍らで跪いたが、はるは動けなかった。雨の庭を、ただ呆然と見つめている。頭の中は、追っ手がやって来たとき、どう対処すればよいかでいっぱいだった。

 そんなはるに、侍女は今日も哀れんだ目を向けた。賊に襲われた姫は、気持ちの糸が切れているのだろう。そう思っているに違いない。

 それは、はるにとっては好都合だった。姫としての作法を知らないはるにとって、何をしても気がふれたせいにできる。

 

 支度を終え、朝餉になった。

 人の世話を受けながら、口に食べ物を運ぶのは奇妙だった。まず、膳の前に座って食べるというのが、落ち着かない。家では、赤米の雑炊を炉端に立ったまま掻き込んだものだ。それが普通で、おかしいと思った覚えはない。

 

 黙ったまま、はるは汁物を飲み、干し菜を口に入れた。普段口にしているものよりも、塩が効いておいしい。思わず、おいしいと口に出しそうになって、慌てて唾を飲み込む。

 侍女はお茶を持ってきて、茶碗の中に入れてくれた。昨夜から同じ侍女だ。名前を訊きたいが、それもできない。

 そのとき、廊下で人の歩く足音がして、侍女が立ち上がった。

「え、杉殿が?」

 襖の向こうで話す侍女の声が漏れる。

 

 杉殿というのは、誰だろう。

 侍女は緊張した面持ちで戻ってきた。

「杉殿がここへ参ります」

 それは誰だと訊けないから、首を傾げてみせる。

「亡くなられた藤子姫さまお付きの侍女だった方です」

 そんな女が何の用だろう。

 そう思ったとき、襖が大きく開いて、痩せた初老の女が姿を見せた。

 廊下にしゃがみ、頭を垂れているのは、痩せた初老の女だった。

 鶴のような白い顔。高い鼻と頬骨。その下には薄い唇が引き締められている。どこかとらえどころのない、不気味な雰囲気を持っている。


「杉でございます。ご挨拶に参りました」

 どう応えてよいのかわからない。仕方がないので、殊更、ぼんやりした表情を作った。はるの世話をしてくれている侍女が、助け舟を出してくれた。

「てる姫さまは、まだ、お体が」

 杉殿が頷き、それから、はるに顔を向ける。

「慣れない城でのこと。何かご不便がございましたら、この杉に何なりとお申し付けくださいませ」

 細い目が、ゆっくりとはるを眺めた。頭の先から足の先まで、まるで本物の姫なのか確かめでもするように、じっとはるを見ていく。

「おや、姫さま」

 杉殿の目が見開かれた。

「お顔がずいぶん陽に焼けておられる」

 はるは思わず両手で顔を包んだ。

「お城の奥におられる姫さまにしては、まるで実った麦の穂のような頬の色」

 本物のてる姫さまの、透けるような白い肌が思い起こされる。かっと、はるの首筋が紅く染まった。


「無礼ですよ、杉殿」

 傍らの侍女が声を荒らげた。

「てる姫さまは、賊に襲われて山野をさまよっていらしたのです。その間に、陽にさらされることもあったでしょう」

 ほほと、杉殿は笑った。

「そうでござりましょうとも」

 そして、口の端をわざとらしく上げて、微笑んだ。

「健やかな姫さまで、この杉も頼もしゅう思います。お見事なお体。ごじょうぶそうな肩でおわします。その上、その手」

 杉殿の視線が、はるの手で止まった。

「なんと引き締まった指をなさっておることか。そのお手ならば」

「杉殿」

 侍女がはるの前で出た。

「無礼にも程があります」

 杉殿はひるまなかった。

「ご無礼がありましたら、どうぞお許しください。この杉は、ただ、そのお手があれば、稚児(ややこ)を抱くのに申し分ないと、そう思っただけでございます」

 

 その目は、何もかも見透かしてしまいそうだ。

 

 用心しなくては。

 敵は、高堂様方の追っ手ばかりではないかもしれない。


「では、さち殿、しっかりお勤めするよう」

 侍女の名は、さちというらしい。さちは緊張した面持ちではいと返事をし、杉殿を見送った。その様子は、せい殿と自分のようで、はるはさちが好きになった。口が利ければ、よい友達になれたかもしれない。

 杉が下がると、さちは独り言を呟いた。

「杉殿の出る幕は、もうありません」

 さちの横顔はすましている。

「杉殿は、藤子姫さまがお小さいときからずっとお世話をしてきた侍女で、藤子姫さまがご存命のときは、そりゃあ大層な力をお持ちだったそうです。でも、藤子姫さまが亡くなられた今、もう、誰も杉殿の言うことなんか聞きやしません」

 城主忠興に、藤子姫という正妻がいたと、青之進から聞いている。だが、詳しいことまでは知らない。

 不思議そうな目をさちに向けると、さちが続けた。


「藤子姫さまは、十二でこのお城に輿入れなさったそうです。十二といえば、姫さま方の中には、大人のような方もいらっしゃるようですけど、藤子姫さまはほんの子どものような方だったそうで」

 てる姫同様、城と城の勢力争いの道具として、はるか年上の忠興に嫁がされたのだろう。

「だからというわけでもないんでしょうけれど、藤子姫は、この城にいらして二年足らずで病死なさったそうです。藤子姫の病は」

 さちははるの耳元に顔を近づけてくると、声をひそめた。

「噂によると、気の病だったそうで」

 驚いた顔をさちに向けた。

 さちは神妙な顔つきで頷く。

「物の怪が憑いたと噂が流れたそうでございますよ。なんでも、鶴がのりうつったとかで、両手を羽根のように動かして、庭を歩いていらしたとか」

 鶴と聞いて、はるはぞっとした。先ほど挨拶に現れた杉殿の、鶴のような顔が思い出されたのだ。


「怖い、怖い」

 さちは大げさに眉をしかめて、繰り返した。

「そんな藤子姫を、杉殿はそりゃあこまめにお世話をなさったそうです。普通なら、お付きの者は、姫さまが亡くなれば、元の城へ戻されるところを、藤子姫への献身を忠興さまが感謝なさって、そのままこのお城に留まることになったそうです」 

 おそらく、さちは、口が利けないはるだからこそ、こんな話を聞かせたのだろう。  

 口が利けないのだから、はるからこの話が漏れる恐れはない。

 はるは努めてぼんやりした顔をして、茶碗に残った茶を飲んだ。そんなはるを見て、さちはおしゃべりの気が済んだようだった。

 はるは、杉殿の細い目を思い返していた。

 用心しなくては。

 はるは自分に言い聞かせた。



 朝餉が済むと、忠興へのお目通りが許される。

 はるはさちに連れられて、忠興の間へ上がった。

 忠興は、文机に向い、何やら書きものをしていた。その横顔は、凛として、厳しい。

 はるは顔を伏せ、冷たい板敷の床に手をついた。


「ご苦労」

 忠興の声が響いた。

「顔をあげい」

 恐る恐る顔を上げると、忠興はまっすぐはるを見つめてきた。

 そのまま、無言で見つめ続ける。

 知っている。

 はるは確信した。

 忠興は、目の前にいるのが偽物の姫だと見抜いている。


 だが、忠興は抑揚のない声で続けた。

「国見城から書状が参った。この度の祝言が無事終わった知らせを送った返信じゃ」

 ということは。

 はるは努めて動揺が顔に現れないよう、平静を装う。

「そなたの輿が襲われたこと、国見城ではこの書状で知った」

 忠興の表情は変わらない。

「賊に襲われ、ようも無事だったと、邑久殿は喜んでおられる。その上、滞りなく祝言が執り行われたこと、めでたきこととしたためられてあった」

 はるは顔を伏せた。胸の中では、様々な疑問が湧き上がる。

 高堂派は、どうしただろう。そして、本物のてる姫は。


「近々」

 そう言って、忠興はぱたりと手元の書物を閉じた。

「国見城から、そなた付きの者が参るそうだ。侍女とお守り役の侍が一人」

 二人が来れば、偽物と知れてしまう。国見城に上がっていたとき、たくさんの侍女たちと顔を合わせた。はるの顔を見れば、すぐさま偽物だとわかるだろう。そして騒ぎ立てるだろう。

 終わりだ。

 そう思ったとき、忠興が続けた。

「ただ、残念なことに、そなたの馴染み深い侍女とお守り役ではないそうじゃ」

 えっと、はるは顔を上げる。

「二人共、賊に襲われたようじゃな。それで、新しい者が来るらしい」

 ほっとしたと同時に、はるの体に戦慄が走った。

 二人は、高堂様が放った追っ手なのではないか。二人は、はるを殺しに来るのではないか。


 唇に震えが来た。

 きっとそうだ。

 近々、追っ手が現れる。

  青之進に報告しなくては。戦が始まるまで待ってはいられない。国見城からの追っ手が来る前に、この城から逃げるべきだ。

「ゆっくり養生せよ」

 忠興の声に、はるは下がった。

 青之進にすぐに知らせなければ。

 さちを連れて廊下を戻りながら、はるの視線は、青之進を探し続けた。



 青之進を見つけられないまま、はるは昼方(昼頃)を迎えた。

 はるは北の間にある一室に連れていかれた。館の塀が障子の向こうに見える。

 

 塀との間には狭い庭があり、山茶花の木が植わっているのが見えた。この季節にしてはあたたかい日差しが、開いた障子の隙間から注いでいる。

 床の間に青い花が活けられている静かなひと間だった。小さな文机が置かれ、何やら細々とした裁縫道具が並んでいる。

「さあさ、姫さま、こちらへ」

 さちに促されて、床の間側へ座らされる。

「まだこの城にお慣れになっていませんから、今日はこんなことでもと思いご用意しました」

 文机の上のものを見ると、色鮮やかな糸の玉があり、手触りのよさそうな布の端切れが積まれている。

 これは何をするものですか。訊きたいのを堪え、不思議そうな目つきをつくり、さちを見る。

「この布を縫い合わせて、何かお作りになったらいかがかと」

 はるは、呆然と目の前の布の束を見た。

 姫とは、こんなことをして時を過ごさねばならないのか。

「これは、侍女たちが作ったものです。なかなかの腕前でございましょう」

 さちはそう言いながら、出来上がった何やら丸い物をはるの前へ置いた。お手玉のようだった。枯れ草色のお手玉で、子どもが遊ぶにしては地味な色合いだが、出来栄えはよさそうだ。

 

 良さそうだとしか思えないのは、はるには、これの出来不出来などわからなかったからだ。糸ははみ出ていないし、布は歪んでいないからそう思っただけだ。

 はるは、裁縫仕事などろくにできない。興味はなかったし、そんなことをするぐらいなら、薪を割ったり水汲みをしたほうがよかった。

 呆然と布を見つめるばかりのはるを、さちは哀れんだ。

「姫さま、こんなこともお忘れになって……」

 勘違いが有難かった。どうやらさちは、人を疑うことを知らない女のようだ。

 はるは、ますますさちが好きになった。


「構いません、お教えします」

 さちが針山から針を抜き取り、赤い糸を通す。

 それをはるに手渡す。はるは針を持ったまま、ぼんやりとさちを見つめた。

「この布に、こうして」

 さちは自分用にも針に糸を通し、布に糸を刺してみせた。

「こうして縫っていきます。先まで来たら丸めて」

 さちがそこまで言ったとき、庭の山茶花の木の向こうに、人影が見えた。

 さちは気づかないのか、針に油を付けるために、鬢の間で針をこすったりしている。

 人影は徐々にこちらへ近づいてきた。

 男だ。

 はるはさちの手元に顔を向けながら、目だけで人影を追った。


 青之進ではない。もっと、背丈がある。

 

 はるは身構えた。

「さちや、さちや」

 廊下の先で声がして、さちは立ち上がった。

「お待ちくださいませ」

 はるに背を向けて、さちが襖を開けたとき、庭の人影は、障子のすぐそばまで来ていた。

 何やら急用なのか、さちは呼ばれて廊下を小走りになった。途端に、人影が障子を大きく開けた。

 姿を見せたのは、頭巾を被った侍だった。

「うっ」

 はるは呻き声とともに、床の間のほうへ後ずさった。

「偽物、堪忍せい」

 低く言い放ち、侍が腰の物を抜き取って、はるに刃先を向ける。

 じりじりと迫ってくる。はるは身動きできないまま、激しい呼吸を繰り返した。

 

 終わりだ。殺られる。

 

 侍が刀を振り上げた。その瞬間、はるは侍のほうへ床を転がった。侍の刀が、はるを捕えきれず床の畳に突き刺さる。

「うぬ」

 侍が悔しげな呻き声を上げ、刀を引き抜こうとした刹那、はるはしゃがみこんだまま侍の背後に回った。はるの手には、さちに持たされた針があった。その針を、侍の右の足首の健めがけて指す。

 

 音もなく針は刺さった。代わりに、

「うぐっ」

と、侍から呻き声が漏れた。侍が振り返った。その目には、不思議そうな光があった。自分に何が起きたのかわからないのだろう。

 はるは、素早く帯の間の鏨を取り出し、そのまま、庭へ駆け下りる。

 侍も、庭へ下りてきた。ただ、表情に、初めのような鋭さはない。足の健に刺さった針のせいで、うまく体勢が整えられないようだ。

 山茶花の後ろに回り、はるはしゃがみこんだ。

 侍の刀が、はるの頭上を払った。山茶花の葉が、乱れ落ちる。

「ごめん」

 侍が小さく呟いた。高堂様が寄越した追っ手は、野盗くずれなどではなく、れっきとした侍らしい。

 振りかかった刀を避けながら、はるはそう確信した。

「うっ」

「はっ」

 はるは身を翻して、刃先を避けた。

「こやつ」

 灯篭があった。はるの背丈ほどの高さに、石が積み上げられている。はるはその裏手へ逃げ込み、身を沈めた。

 

 侍が回り込んできたとき、はるは灯篭の石を力の限り押した。侍の鳩尾あたりに、石がぶつかった。侍の上半身が、前のめりになる。

 その瞬間、はるの鏨は、侍の脳天に突き刺されていた。


「ぐううぇ」

 侍の断末魔の呻きは、蛙の声に似ていると、はるはそんなことを思った。思いながら、その場にへたり込んだ。

 あああ、あぁぁ。

 はるは両手で口を塞ぎ、自分の声を押し殺した。

 

 人が死んだ。

 

 また一人、殺めてしまった。


「姫さま」

 慌ただしい足音がして振り返ると、庭木を押しのけるようにして青之進が現れた。

「こ、これは」

 絶命している侍に、青之進が息を飲んだのがわかった。


「侍女の、侍女のさちがいなくなった隙に、襲われました」

「なんと」

「どうしてよいかわからず、ただ夢中で」

「不覚でした。国見城から使いが来たと、表へ呼ばれていました。その隙に、刺客を寄越すとは」

「やはり、高堂様が寄越した追っ手……」

「そうとしか考えられません」

 そう言ってから、青之進は目を見開いたまま息絶えた侍の頭巾を剥し、検分した。

「知らない者です。おそらくこのためだけに雇われた者だと」

「わたくしもそう思います。れっきとしたお侍さまでございましたが」


「それにしても」

 青之進は骸を見やりながら、首を傾げた。

「そなたは……強い」

 そのとき、北の間の障子の向こうで、

「姫さま、てる姫さま」

と呼ぶ、さちの声がした。

 はるははっと起き上がり、侍から鏨を抜き取ると、着物の乱れを直した。青之進も踵を返す。

「知らぬ存ぜぬで通しなさい。拙者も見なかったことにします」

 さちが庭へ下りてきたのは、青之進が去り、はるが山茶花の木の前へ出たときだった。


「まあ」

 はるを見て、さちが驚いた声を上げた。

「泥だらけではありませんか」

 はるは、呆けたように俯いて、自分の姿を見た。袖も裾も泥だらけだ。有難いことに、侍からの返り血はなかった。ただ、灯篭の石を押したとき、尖った細かい石の表面で指先を切っていた。

「どうなされたのです、指先に血が」

 さちは顔を近づけて、はるの手を取った。


 さちに知れてしまう。侍を倒したとわかってしまう。

 そして、てる姫の偽物であると知られてしまう。

 

 ところがさちは、くくくとくすぐったいように笑った。

「針で刺してしまったのですね」

 それからさちは、はるの髪から、山茶花の葉を取り去った。

「てる姫さまは、お針ごとがお嫌いなんですね」

 はるは驚いて、さちを見た。

 さちは無邪気に笑っている。



 塀に近い場所で、ひそんでいた曲者が殺されたと、さちから知らされたのは、夕餉のときだった。

 膳の上の香の物をはるにすすめながら、さちは恐ろしそうに顔を歪めた。


「庭の作男が見つけて大騒ぎになっておりました」

 作男が見つけたのは、はるが倒してからすぐだったようだが、さちは曲者とはるを結びつけなかった。見回り役の者がこの部屋にやって来たときも、嘘をついた自覚もなく、

「姫さまとわたくしはここで何も見聞きしておりません」

と、告げた。


「盗っ人の類でしょうけれど、浪人者だとかで、お侍さまたちは気の毒がっておりました。暮らしに困っていたのでしょうね」

 暮らしに困っていた浪人者だというのは、あながち間違ってはいないかもしれない。追っ手に雇われるのは、そんな侍だろう。

「月代の真ん中に、刃物で刺された跡があったそうでございますよ」

 さちはそう続けて、ぶるっと肩を震わせた。

 はるも、顔を歪めた。わざとではなかった。ほんとうに、思い出すと自ずと恐怖で顔が歪んでしまう。倒したのは、れっきとしたお侍さまだった。剣の使い手だったはず。


「ただ」

 さちは首を傾げる。

「どなたさまが賊をやっつけたのか、わからないそうでございます。誰も名乗りを上げないそうで」

 そしてさちは、はるの顔を覗き込んだ。

「不思議でございますね」

 思わず目を逸らしたが、さちに他意はないようだった。


 それからさちは、膳の上のものについて、あれこれとしゃべった。今日の芋は硬いだの、汁物に入った牛蒡は好きになれないだの。

 さちの言葉が素通りしていった。

 追っ手が殺られたと知って、高堂様方は、また新たな追っ手を送ってくるだろう。  

 国見城でのてる姫お付の二人が来るまでにも、別の追っ手を寄越してくるかもしれない。

 

 たまたまだ。

 

 はるは唇を噛み締めた。

 なぜ、自分があの侍を倒せたのか、わからない。

 柴田様を倒したとき同様、ただ無我夢中だっただけだ。


「ごめんなさい、姫さま」

 さちが悲しげな声を上げたので、はるは我に返った。


「お食事がすすみませんね、怖いお話をしてしまって」

 はるは思わず、首を横に振った。さちは何も悪くない。


 ただ、食べ物は喉に通りそうになかった。青之進は大きな戦まであと十日あまりと言ったが、それまでに何人追っ手が差し向けられるのだろう。

 夕餉が終わり、床が敷かれる。

 はるの容態を気遣って、さちが手早く床を敷くのだが、今夜は様子が違った。行灯の火を入れに来たさちは、床を敷かず、ぐずぐずとしている。

妙に硬い表情をしていた。


 どうしたのだろう。

 訊きたくても、しゃべることができない。

 仕方なくぼんやりとしていると、さちに声をかけられた。


「てる姫さま、これからお清めをしていただきます」

 さちは両手で真っ白な寝衣(しんい)を抱えている。

 俯いたまま、はるはさちに従った。


 とうとう忠興の寝所へ上がらなくてはならないのだ。覚悟していたこととはいえ、恐ろしさに身が震える。

 水垢離のあと、笹竹で塩水を振りかけられて、はるは召し替えを済ませた。

 廊下をさちに従って歩いた。暗い廊下を、さちが持った手燭手の灯りが映し出す。持たされた香袋が、闇に甘い香りを漂わせる。

 と、廊下の先に、人の影が立った。

「きゃああ」

 突然さちが叫んで、手燭を落としそうになった。闇の中に、手燭の光が大きく揺れる。

「杉殿ではありませんか」

 さちが恐る恐る手燭の明かりをかざすと、浮き上がったのは、先妻付きの侍女、杉殿だった。どこを見ているのか虚ろな表情でたたずんでいる。

 姫が来たとわかっているのかいないのか、杉殿はかしずこうともしない。その態度に、さちが機嫌を損ねたのはあきらかだった。


「そこで何をなさっているのです」

さちは強い口調で言った。

「わたくしは待っておったのです」

「待っておったとは、どなたを」

 さちが尋ねると、杉殿はぎろりとこちらに目を向けた。

「決まっておるでしょうが。今宵はお床入り……」

「てる姫さまを待っていらしたと」

「そうです、姫さまを……」

 杉殿は廊下の闇を見つめた。

と、はるに顔を向けてきた。ふいに、杉殿の顔が歪む。

「このお方は、姫ではございません」

「えっ」

 さちが驚いた。そのさちに、杉殿が畳み掛ける。

「おまえは間違えておるのでしょう」

「杉殿」

 さちが怒った。

「無礼ですよ。てる姫さまに向かって」

 すると、杉殿は、まじまじとはるを見つめて、

「おまえは何者じゃ」

と、言ってみせた。


 やはり、杉殿は見抜いたのだろうか。はるはさちの後ろに隠れた。祝言の翌朝、杉殿がはるのところへ挨拶に来たとき、杉殿はわかったのではないだろうか。それで、こんなところで待ち伏せをして、はるのお床入りを止めにきたに違いない。


 早く寝所へ行ってしまわなければ。

 口でさちをうながすことはできない。はるはさちの袖を強く引っ張った。

 さちが振り返って、大げさなほど驚いてみせた。

「まあ、怯えてらっしゃる」

 そしてさちは杉殿の向き直ると、威厳を込めた声で言った。

「いくら杉殿でも、てる姫さまに無礼な振る舞いは許されません」

「おまえは何者じゃ」

 杉殿はまくし立てながら、はるに向かってきた。白い顔が歪んで、目を剥いている。

 さちはぐいとはるの手を引っ張ると、杉殿を押しのけて廊下を進もうとした。杉殿は、はるに取りすがろうとする。

「行ってなりませぬ。殿の寝所へ行かせるものか」

 強い力で、杉殿ははるの体を押し留める。


「誰か、誰か」

 さちの叫び声に、廊下を走る足音が聞こえ始めた。

 さちの声を聞きつけた別の侍女が、やって来た。


「どうなされました」

 やって来た年配の侍女は、すぐに杉殿の様子に気づき、杉殿の腕を取った。

「杉殿、もう休むんですよ」

まるで子どもが駄々をこねるように、杉殿は抵抗したが、侍女に連れられて廊下を去っていった。

 廊下はふたたび水を打ったように静かになった。


「お気を悪くなされたでしょう」

 さちははるが偽物だとは、露ほども疑っていないようだ。

「さあ、参りましょう」

 手燭を持ち直し、さちは先に立った。



 忠興の寝所がある東の間への渡り廊下に来たところで、年かさの侍女が現れた。さちは黙ったまま下がり、年かさの侍女に手を引かれる。

 寝所の手前には、薄暗いひと間があった。そこに入るよううながされる。


「ご無礼仕りまする」

 侍女はそう言ってから、はるの体をあらためた。小刀など、物騒なものを携帯していないか確かめたのだ。


 はるは堂々と侍女の前に体を開いた。鏨は持っていない。寝所へ上がる達しは突然だったから、隠し持つ間がなかった。

 侍女が下がり、はるは一人、寝所に入った。


 城主の寝所は、はるが寝起きしている間よりもわずかに大きいだけの、飾り気のない部屋だった。板敷の床の、床の間の前に、褥(しとね)が敷かれている。夜着の膨らみだけが、城主の寝所らしい贅沢さを思わせる。はるは、膨らんだ夜着を見るのは初めてだ。

 と、顔を上げたはるは、あっと声を上げそうになった。


 天井から、何やら黒いものがぶら下がっている。鷲だった。捕まえた鷲を足首でくくり、天井の梁からぶら下げているのだ。一羽、二羽と数えていくと、五羽あった。薄暗い中、鷲の骸たちは、行灯の光の中でゆらゆらと揺れている。

 なぜ、獲った獲物をぶら下げておくのか。理由はわからないが、忠興らしいと思えた。残酷非道と噂される忠興の寝所に、鷲の骸はふさわしい。はるの背中に、きりりと緊張が走る。


 敷かれた褥に、忠興はいなかった。床の間を背に、こちらに体を向けて座っている。行灯の光に、忠興の姿が白く浮かび上がっていた。今夜のために、忠興も白い寝衣をまとっている。

 はるは床に頭を伏せて、忠興の指示を待つ。

「近う、寄れ」

 忠興が低く言った。

 はるは前へ進んだ。と、忠興から声がかかる。


「そこまでだ」

 まだ褥には遠い。

 はるは訝しく思い、顔を上げた。


「あまり近寄られて、脳天を一突きされてはかなわんからな」

 えっと、はるは目を瞠る。

「今日の八つ半過ぎ、庭で曲者が見つかったわ。城に盗みに入った浪人者のようらしいが、脳天を刺されて息絶えておったようじゃ。浪人者を殺めただ者はわかっておらん。いや、城の者らは、城に忍び込んだ浪人者には仲間がいて仲違いをし、死んだ浪人者を殺した男は逃げただろうと推測しておるが」

 忠興が目を細め、はるを見た。


「おぬしじゃな」

 はるは俯いたまま、微動だにできない。

「浪人者の脳天には、先の尖ったもので突き刺した痕があった。鏨であろう」 

 はるの心ノ臓が早鐘を打ち始めた。

「死んだ浪人者がどこの誰かは、おいおい調べがつく。だが、それよりも突き止めねばならぬのは、誰があの浪人者を倒したか、だ」

 そして忠興は、呻くように続けた。


「おぬし、何者じゃ」

 

 ただ震えながら、顔を伏せているはるに、忠興は続けた。


「おぬしがてる姫の偽物だとは、とうにわかっておる」

 忠興の声が低く響く。

「猪頭の谷で、てる姫の輿が身代わりを乗せた輿とすり替えられたこと、泳がせておいた見張りの者から伝えられておる」

 泳がせておいた見張りの者?

 あのとき、はるの乗った輿に代わったてる姫の行列を見ていた者がいたというのか。なぜ、そんなことを。押野城では、てる姫の行列に異変が起きるとわかっていたのだろうか。

 はるの目は、訝しげに瞬いた。

「なぜ、てる姫の行列を見張ったのか、不思議そうな顔つきじゃな」

 言い当てられて、はるは唇を噛む。

「国見城が一枚岩でないことぐらい、とうに知れておるわ。てる姫の輿入れによって、我が城と国見城が手を結ぶことを、おもしろう思うておらん輩がおると、その輩どもが何事か企んでおると知れておったわ。その企みが、本物を丹野方へ嫁がせようとしておるとは、おぬしが襲われた翌日まで不明であったが」

 忠興はふっと息を吐いた。

「丹野方へ本物のてる姫を輿入れさせ、手を繋ごうとしているとわかってから、おぬしの扱いを決めた。丹野方へ奪われたてる姫を取り戻すのを止め、おぬしを使おうと策を変えた」

 見据えられて、はるは忠興と見つめ合った。忠興の大きな切れ長の目は、はるを圧する。

「それに、あのまま野で野垂れ死にさせるには」

 忠興の目が光った。

「おぬし、惜しい腕前を持っておる」

 鼻先に剣を突きつけられたかのような緊張が、はるに走った。忠興は知っているのだ。はるが追っ手たちを倒したことを。


「おぬし、何者じゃ」

 忠興はふたたびはるに訊いた。

「忍びであろう……。それならば、誰に雇われておる」

 はるは激しく首を振った。

「警護役の者の素性は知れておる。大柴青之進といったな。あの者の動きに不審な点はなかったと、見張りの六次(ろくじ)から聞いておる。言え。あのあま野垂れ死ぬところを、六次に助けさせた。それも、おぬしを使おうと思ってのこと。もう、おぬしには、行き場がない。おぬしを雇った者の名前を明かせ」


 六次.はるは山で助けてくれたマタギの老爺を思い出した。小屋まで案内をしてくれ、青之進のために芍薬の薬まで調達してくれた。

 老爺との出会いは、絶望の中にいたはるにとって、人の温かみを知った一筋の光だったが、違ったのだ。老爺は、忠興が放った見張りの者だったのだ。

「言わぬか」

 忠興が膝を叩き、怒声を上げた。

 行灯の火が揺れ、目を剥いた忠興の顔は般若のように恐ろしい。整った顔立ち故に凄みが増す。

 それでも、はるは肩を震わせたまま、唇を噛み締めた。


 しゃべるものか。


 青之進に言われている。何があっても口を利くなと。


「そうか」

 忠興は息を吐くと、傍らから刀を掴んだ。

「成敗してくれるわ。青之進共々、ひっそりと身代わりとして死ね」

 青之進さままで。

 はるははっと顔を上げた。

 忠興が笑みを浮かべる。

「青之進もおぬしも、初めから捨石。ここまで生き永らえたこと、有り難く思えよ」


 捨石。


 はるの心の底で、火打石が小さな火花を上げた。


 命を守り、血しぶきを浴びた姿で、青之進が呟いたとき、あのときもはるの心の底で、火打石の火花が散った。


「忍びではございません」

 はるは吐き出した。

「やはり、おぬし、しゃべれるのだな」

 忠興は鋭い目を向けてくる。はるは床に頭をつけた。

「申し訳ございません。しゃべれば、本物のてる姫ではないとすぐに知れてしまうと思いました」

 うむと頷き、忠興は先を促す。

 はるは姿勢を正した。


「本当の名前ははると申します。生まれは、国見城東にある小瀬という村でございます。そこでふた親は畑を耕して暮らしております。お城へ上がったのは」

 はるはこれまでの経緯(いきさつ)を、話した。下の弟が畑を手伝うようになって、城に奉公に出たこと。下働きとして働くうち、差配役の柴田様から、てる姫の輿入れの御供衆に加わるようお達しがあったこと。

 そして、輿入れの日。道中の途中、猪頭の九十九折にさしかかったとき、侍女頭に山小屋へ連れられると、柴田様がいた。そこで初めて、輿入れの行列が襲撃されることを聞き、そのために、自分が身代わりになると知った。だが、襲ってくる賊は見せかけで、心配には及ばぬと聞かされた。ところが、身代わりになり輿に乗っていると、やって来た賊は本物で命を狙われた。

 

 ここまでの話を、はるは熱に浮かされたようにしゃべった。話しながら、悔しさに涙が頬を伝い、何度も言葉に詰まったが、忠興は急かすことなく耳を傾けていた。

 はるの話が終わると、忠興は遠くを見る目になった。

「柴田」

 忠興は呟く。

「家老の高堂の懐刀であったな」

 懐刀。青之進もそう言った。忠興は国見城の家臣を調べ上げているようだ。

「やはり、高堂の謀であったか」

 呟いた忠興は、そのまま目を閉じた。

 はるは震えながら、行灯の揺れる火に照らされる忠興を見つめた。もう、忠興ははるを斬るつもりはないだろうか。ついさっき忠興の手にあった刀は、今、脇に置かれている。


 どうしたら、逃げられるだろう。

 そう思った自分が、おかしかった。

 この後に及んで、自分はまだ諦めていない。生きようとしている。その証拠に、はるはまわりを見渡した。忠興に刃先を向けられたとき、反撃できるものは何かないか。


 何もなかった。

 褥の上には、膨らんだ夜着と高枕が二つ。その向こうには、忠興を挟んで床の間があるが、何やら書かれた掛け軸と青い花が活けられた花器があるのみ。

 忠興が目を開き、はるはわずかに後ずさった。


「何を考えておる」

 はるは目を逸らそうとしたが、体が痺れたようになって動けなかった。蛇に睨まれた蛙だ。

「大それたことを考えるなよ」

 そう。忠興に刃先を向けられたときに反撃しようとは、大それたことだ。だが、はるはもう自棄になっていた。どうせ死ぬのだ。死ぬなら力いっぱい動いてやろう。

 と、忠興の表情が和らぎ、はるは虚をつかれた。

「高堂どもが、身代わりのおぬしを斬るのは、初めから決まっておった。ところが、企みは頓挫した。反撃をくらい、賊もさぞ驚いたことだろう」

 忠興は、さもおかしそうに声を立てて笑った。

「こんな小娘にしてやられたのじゃ。六次が驚いておったわ。おぬし、鏨で戦ったそうじゃな」

 はるは頷く。

「侍相手に鏨で歯向かうとは、聞いたことがないわ。なぜ鏨など持っておったのだ」

「それは」

  はるは言いよどんだ。

  八吉の名前を出してはならないと、咄嗟に思う。

「城に上がる前、石を削って狸などの形を掘るのが好きでございました。畑仕事の合間に、手慰みで、石を削っておりました」

  訝しげに忠興の目が光る。信じているのかどうか。

「鏨は村での暮らしの形見にと持って参りました」


「剣術をどこで覚えたのだ」

「習った覚えはありません」

「嘘を申すな。侍相手にあれだけの働き。六次があの女子はただ者ではないと」

「ほんとうでございます」

 はるは激しく頭を振った。

「誰に教わったわけでもございません。村で遊び仲間らと剣術の真似事をしていただけでございます。ただ、村で剣術の真似事をする際は、川の中や木の上と様々なところで遊んでおりました。反撃できたとき、そのような遊びが役に立ったのかもしれません。賊や柴田様を倒したときは、ただただ無我夢中で」

 ふんと、忠興は鼻を鳴らした。


「獣じゃな。獣には生まれついた闘争本能がある」

 そうなのかもしれない。

 はるはまるで他人ごとのように、忠興の言葉を聞いた。戦っているときの自分と、普段の自分は別人のように思える。

 城へ上がる前はそうではなかった。城に上がり、窮屈な思いをするたび、体の奥から、何か自分でも抑えられない火のようなものが溢れてくるときがあった。そんなとき、はるは村の仲間らを相手に、暗くなるまで飛び回ったものだ。

 木の枝に片手でぶら下がったまま、先を尖らせた棒を地面に突き刺してみたり、その的を、徐々に小さくしていったり。川の中州へ、飛び石を少ない数で渡るのも、何度挑んだかわからない。何度水浸しになったかわからない。

 それでも、手応えがあった。ほんのわずかな手応えだったが、昨日より今日が上達したと思えた。そう。ほんのわずか。足のつま先を飛び石の上に置いたとき、昨日より今日がほんの一寸先へ行けただけ。それが嬉しかった。

「はる、といったな」

 はるは頷く。

「おぬしのその腕、この城で活かしてもらおう」

「そ、それはどういう」

「近いうちに、丹野方との戦になる。そのとき、おぬしのその腕が必要になるときが来るやもしれぬ」

 丹野方との戦。

 十日ほど。その間だけ姫になりすませば、大きな戦が始まる。そのとき、我らにも機会がやって来る。

 青之進はそう言った。

 あのとき、青之進とはるは、大きな戦が始まったら忠興側として戦い、高堂様への復讐を果たすつもりだった。その企みに、忠興が加担してくれるというのか。


「わたくしを生かしてくださるのですか」

「おぬしには、使い道がある」

 薄く笑った忠興の目は、冷たく光っている。

「国見城では、てる姫の輿入れ道中が襲われたのち、この城へ逃げてきたてる姫を本物だと思うておる。あのぼんくらと名高い城主邑久が、家老の楠根どもに言いくるめられておるのじゃ」

 忠興の口元が歪んだ。

「この城にてる姫を迎えたこと、信濃や甲斐、遠江にも使いをやろう。村々には、餅を配ろう。この報が行き渡れば行き渡るほど、丹野方に匿われた本物のてる姫は出てこれなくなる。本物のてる姫を匿う高堂方は、今頃、歯ぎしりをしておることじゃろうて」

 てる姫が二人いてはおかしい。といって、高堂様方は、てる姫を奪い、丹野方に連れ去ったと、邑久城主や楠根様方に知られるわけにはいかないだろう。それを世に知らしめたいのは、大きな戦が迫ったときであるはずだ。それまでにこちらが本物だと世に知らしめれば、高堂派は丹野方に本物を送り込めなくなる。手を結ぶこともできなくなる。

 なんとなく、はるにも、忠興の思惑がわかってきた。

「祝言は終えた。おぬしはてる姫としてこの城で暮らしてもらおう」

「はい」

 頭を床につけたまま、はるは返事をしたが、それがどういう意味であるのか、すぐに気づいてはっと顔を上げた。

 首筋が熱い。

 目の前にある褥から、はるは目を逸らした。



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