第5話

 青之進を横たえた岩のまわりには、渦を巻いて水が流れ、赤い血が筋となっていた。


「青之進殿!」

 

 駆け寄ってみると、青之進は熱い息を吐きながら呻いている。

 このままでは死んでしまう。

 はるは青之進の背中に腕を回した。

「青之進殿、しっかりしてください」

 薄目を開けて、青之進が、はるを見上げた。

「はる……殿」

「さあ、わたくしに捕まって」

 肩を差し出したが、青之進は腕を上げなかった。その力はもうないのかもしれない。


「追っ手は」

「死にました」

「死んだというのか、三人とも」

 青之進の瞳に、わずかな生気が蘇った。

「どういうことだ」

「倒しました」

 青之進の瞳が、不思議そうにはるを見た。

「倒したとはーーどういうことだ」

「ですから、わたしが倒しました」

「そなたが?」

「はい」

「まことか。どうやって」

「これで」

 懐から鏨を取り出し、青之進の顔の前へかざしてみせた。

「これは、鏨ではないか。石工が使う」

「はい。これが助けてくれました」

「なんと。だが――信じられない。どうやって……、そなたは御供衆の侍女であろう?」

 これ以上、はるは説明できなかった。したくないわけではない。できないのだ。

 自分が実際どうやって侍たちを殺めたのか、よくわからない。話を続ける代わりに青之進の前にしゃがみこんだ。そして青之進の両腕を引っ張り、自分の背中へ引き寄せた。


「えいっ」

 掛け声をかけて、はるは青之進をおぶった。

 おそらく、青之進の背丈は、五尺はあるだろう。痩せた風貌であるから、重さは十六貫ほどか。だが、腰から下が水浸しのせいで、いっそう重く感じる。 

「よせ」

 背中で、青之進が呟いた。

「置いてゆけ」

 はるは答えなかった。かわりに、もう一度しゃがみこんで、しっかりと背中に青之進を担ぐ。


 こうして背負ったものだ。

 おかあと山へ入り、薪にする雑木を切って里へ運んだ。いつだっておかあは、背負子にはるの倍は木を詰んだ。後ろからついていくと、おかあの体が、土の上に沈んでしまうんじゃないかと不安になったものだ。だが、おかあは同じ歩幅で、黙々と進んだ。雨の日も日照りの日も、運んだ。あれを思えば、男の一人くらいなんでもない。


 沢を離れ、熊笹が広がった斜面に出た。獣道だろう。笹の間に、わずかな細い筋がある。根に足元を取られないよう注意深く進む。

 小屋を探した。せい殿に姫の小袖に着替えさせられたような隠し烟か、そうでなくとも、木こりがかけた小屋があるかもしれない。

 どれほど歩いただろう。日が陰り始めていた。山の夜は早い。ぐずぐずしていると、山は漆黒の闇に包まれる。

 見つかるだろうか。

 はるは不安になった。ここは近くには里がない山なのかもしれない。里が遠すぎては、誰も小屋などかけないだろう。

 いや、あきらめるものか。見つけなくてはならない。

 小屋を見つけて背中の男の傷の手当てをしなければ、男は死んでしまうだろう。

 ふうふうと、熱い息が首筋にかかっていた。その熱さだけが、今のはるの頼りだ。


 空が赤く染まり始めた。風が強くなっている。

 背後で、穏な草を分ける音がした。猪かもしれない。

 このまま、山の中で朽ち果てるしかないのだろうか。

 行く手の先は、真っ暗な闇となっている。日が沈むにしたがって、森の闇は濃くなる。

 ここで倒れてしまえば、柴田様に倒されたと同じだ。

 そう思った。捨石。そう青之進殿は言った。ここで倒れてしまえば、ほんとうの捨石になってしまう。

 竹林になった。ごつごつとした根が地面から盛り上がり、歩きにくいが、いくらか明るかった。葉の密生した木々よりは、光を通してくれる。

 そのとき、犬の吠え声が森に響いた。続いて、破裂音が薄闇を裂く。

「鉄砲だ」

 背中で、青之進が喘いだ。

 はるは咄嗟にしゃがみこんだ。

「追っ手でしょうか」

 柴田様の手の者なら、鉄砲も使うかもしれない。城には戦に備えて数十丁の鉄砲があるはずだ。

 ふたたび破裂音が響いた。音は徐々に近くなる。

 どうしたらいいか。

 適当な隠れ場所を見つけなくてはいけない。

 はるは目を凝らしてまわりを見たが、いい頃合の場所は見つからなかった。日の光があるのが、災いする。

 犬の吠え声が近くなった。犬に何やら呼びかける人の声もする。

青之進を抱き寄せて、頭から小袖を被った。

 足音が近づいてくる。

 撃たれる。そう覚悟をしたとき、勢いよく、被っていた小袖が取り払われた。

「あ」

小袖を咥えていったのは、白い犬だった。毛並みが乱れた汚い犬だ。小袖の端を噛み、くるくると回る。

「おやめ!」

 はるが叫んだとき、犬の来たほうから、背の低い老爺がやって来た。手に提げた鉄砲からは煙が出ている。鉄砲を撃ったのは、この老爺のようだ。


「なんじゃあ」

 老爺は言うと、立ち止まって、目を見開いた。それから、

「猿丸、来い」

と、低く呼びかけた。猿丸と呼ばれた犬は、すぐさま小袖を放し、老爺のもとへ駆けていく。

 はるは小袖を手繰り寄せ、それから、老爺を見据えた。痩せこけて、背丈ははるよりも低い。年の頃は七十ぐらいか。汚れた手ぬぐいで頬かむりし、袖のない丈の短い着物を着ている。いや、着ているというよりは、体にボロ布を巻き付けているといったほうがいいかもしれない。皺だらけの顔は日に焼けて黒く、ただ、目だけがギラギラとしている。

 

 どうやら、柴田様の手の者ではなさそうだ。

 

「怪しい者ではありません。追っ手から逃れて怪我をしました。休める小屋を探しています」

 精一杯訴えたが、老爺の表情はわからなかった。頬かむりから覗いた鋭い目が、はるの傍らで喘いでいる青之進を見つめている。

「邑久の城の者か」

 はるははっきりと首を横に振った。柴田様方の者がいる城は、もう、敵だ。

「城から追われました」

 すると老爺の目が光り、はるをじっと見据えた。

「来い」

 老爺からは、獣の臭いがした。近づいてみると、袖口にも脚絆にもまばらに血がついている。マタギかもしれない。なんじゃあと言ったときの、言葉の抑揚もこの近辺の者とは違った。マタギは遠い山からもやって来ると聞いた憶えがある。老爺もどこかよその国から来たのかもしれなかった。

 老爺は黙ったままずんずんと進んでいった。道などない森の中を迷いなく進む。老爺にだけ見えている道があるかのようだった。

 


 すっかり日は暮れて、老爺の後ろ姿すらおぼろげになった。

 と思うと、木々の間から月が見えた。大きく明るい月だ。

 ふくろうが啼き始め、足元では地虫たちが単調な音を立てている。

 闇が深まり、森のさらに奥へ分け入ったのがわかった。もう、ふくろうの声も聞こえない。聞こえるのは、目の前を歩く老爺の静かな足音と、犬の息遣いと、そしていつのまにか眠ってしまった背中の青之進の寝息だけだった。


 月の光が地面を照らした。やわらかな光に、地面から骨のように隆起した木の根が見える。森と森の狭間に来たようだった。

 老爺が立ち止まった。

「あれは、木地師が捨てていった小屋だ」

 老爺が指差したほうへ顔を向けると、朽ちかけた小屋が見えた。

「木地師の?」

 木地師なら、村で見かけた憶えがあった。木地師は一年に数度、村へやって来る。笊や椀を作って村で売っていたのだ。彼らは良い木を求めて旅をするという。

「雨露はしのげるだろう」

 老爺はそう言うと、囲炉裏に火を起こし、薪をくべてくれた。

もうもうと煙が上がる。

老爺は、はるの背中の青之進を見た。

「熱があるのぉ」

 そういえば、背中がすいぶんと熱かった。夢中で老爺の後を追ってきたために、気づかなかった。

 青之進の肩と腋を結んだはるの帯上げは、真っ赤に染まっている。もう血は止まったようだが、代わりに熱が出始めたのだ。

よくない兆候だと、はるは不安になった。はるの下には、ほうとうなら二人の妹がいた。そのどちらも、言葉がしゃべれるようになった頃死んでしまった。二人共、高熱が出たと思うと、翌朝には冷たくなっていたのだ。


 老爺にうながされるまま、はるは青之進をおぶったまま、小屋に向かった。

 小屋に着いてみると、遠目で見たよりもさらにひどい有様だった。どうにか屋根と呼べる板はあるものの、ところどころから月の光が差し込んでいる。壁は薄い板だけだった。それもところどころが朽ちかけている。地面は、土が踏み固められてはいるものの、蔓が根を張り、好き放題に伸びている。

 それでも、四方に囲いがあるのは有難かった。火の近くにいれば、朝を迎えることができるだろう。


 礼を言おうとして後ろを振り返ると、老爺の姿がなかった。小屋を教えてやったのだから用は済んだと、自分の寝場所へ帰っていったのだろうか。

 草の少ない場所に、板を見つけて敷き、はるは青之進を横たえた。小屋の中は漆黒の闇ではなかった。屋根に空いた穴から漏れる月の光のおかげで、物の識別ができる。

 青之進は薄目を開け、小屋の中を見回した。

「ここは」

「木地師の捨てていった小屋です」

ふうと、青之進は息を吐き、それから目を閉じた。口を利く気力はないようだ。

 途方に暮れて青之進の寝顔を見つめていると、眠気が襲ってきた。そのまま青之進の傍らにうずくまってしまった。

 

 はるは夢を見た。

 黒い影がはるを襲おうと追いかけてくる。泣きながら逃げていた。それなのに、いくら走っても遠くへは行けない。黒い影はどんどん大きくなり、はるを飲み込もうとする。

 

 はっと目を覚ますと、小屋の入口に黒い影があり、はるは、

「わああぁぁ」

と、叫び声を上げた。土の上を這いずって、後退する。

「ほれ」

 影から何かが投げられた。土の上にぽとんと落ちたのは、巾着にだった。

「熱冷ましの薬じゃ」

 影はさきほどの老爺だった。

「熱冷まし……」

 巾着を開けた。途端に薬草の臭いが立ち上がる。嗅いだ憶えのある臭いだった。

「これは、芍薬の」

 芍薬には、消炎、鎮痛の効果がある。はるは村で怪我をしたとき、おかあが飲ませてくれた覚えがある。

 巾着の中には、薬のほかに干飯も入っていた。数日なら、これで飢えがしのげるだろう。

 老爺は踵を返した。はるはその背中を呼び止めた。

「あの、お礼は」

 薬は貴重なものだ。

「邑久方は、我にとっても敵じゃ」

「え」

 いったい、この老爺は何者なのだろう。邑久が敵だとすれば、この辺り一帯を掌握しようとしている丹野方の者だろうか。

 忍びかもしれない。

 闇に消えていく老爺の姿をみつめながら、はるは思った。

 忍びは木こりや物売り、そしてマタギにも姿を変えて仕事をすると聞いたことがある。


「ううう」

 青之進のうめき声に、はるは顔を戻した。

 熱い息がかかり、青之進は何か呟いた。聞き取れなかった。もう、青之進は、この世から去ろうとしているのかもしれない。

「待っててください」

 青之進の腰から竹筒を掴むと、残ったわずかな水を口に含み、はるは青之進に口移しで薬を与えた。むせながらも、青之進は素直に薬を飲み込み、頼りなげな微笑ではるに応えた。

 おそらく、もう、だめだ。

 はるは思った。よほど運に恵まれない限り、この侍の命は尽きる。

 青之進が息絶えたら、自分も死のうと、はるは思った。柴田様に襲われたときは、生き抜いてやるという強い思いでいっぱいだったが、それも薄れてしまった。

 自刃するのだ。そして、この朽ちた山小屋で骸となる。

 村の者は、こんな山の中までやって来ない。自分の骸は、誰にも見つからず、おとうやおかあに見つかることなく土に還るだろう。そのほうがいい。おとうやおかあを悲しませたくない。

 目を閉じていると、すでに自分が死んでいるかに思えた。静かだった。板に空いた穴から見える月は、素知らぬ顔で光り輝いている。

と、傍らの青之進のうめき声が激しくなった。


「どうなされました」

 はるは顔を寄せて、驚いた。青之進が震えているのだ。

「さ、寒い」

 震えは尋常ではなかった。音をさせるほど、手足を震わせている。

「寒い、寒い」

 青之進は、繰り返す。

 はるは青之進を抱き寄せた。

「お薬が効いているのでしょう」

 といっても、ほんとうのところはわからない。肩口に負った傷から、毒が全身へ回っているのかもしれない。これは断末魔の訴えかもしれない。

 震える青之進を、はるはいっそう強く抱き寄せた。それでも、青之進の震えは止まらず、寒いと訴え続ける。

 はるは、着ていた襦袢の襟を掴んだ。思い切りをつけて、さっと肩から着物を落とす。


 月の光に、ふっくらとした乳房が浮かび上がった。桃のようだった。夏に採れたばかりの、瑞々しい桃。

 はるの体は、女にしては筋肉質で引き締まっている。野良仕事と八吉との剣術の真似事のおかげだ。

 それでも、乳房のふくらみは、まぎれもなく女だった。上を向いた薄紅色の乳首は、着物を脱いだ途端、恥ずかしげに硬くなる。

 震える青之進の体に肌をつけ、はるはしっかりと抱きしめた。体を暖めるには人肌がいちばん良いと、これもおかあから教わった。

 青之進が目を閉じているおかげで、はるは羞恥心を感じなかった。ただ懸命に、ぴったりと青之進の肌に自分の肌を吸い付ける。浅黒い青之進の肌は、やわらかな薄桃色の肌に包まれていく。

 

 そうするうち、はるは自分の体が熱くなってくのを感じた。

 自分は、まだ男を知らない。

 知らないまま死んでいくのだ。そう思うと、自分がひどく哀れに思えた。

 

 八吉。

 

 閉じた瞼の向こうで、別れたときの八吉を思い浮かべた。

 八吉に見せたかったと、思う。この十分に張った乳房や、鳩尾から腹にかけてのなめらかな膨らみを、八吉の手で触れてもらいたかった。

 ふいに、はるの頬に、涙が流れた。その雫が、青之進の額へ落ちた。

「――は、る殿」

 薄目を開けた青之進が、はるを見上げる。そして、はるの露わになった肌を認めると、震えながらしがみついてきた。青之進の顔が、はるの乳房を潰すように押し付けられる。

 両手で、はるは青之進の頭を抱き抱えた。きっとこのまま冷たくなるだろう男を、少しでも温めるために。



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