第4話 襲撃 2

 馬はこちらに向かって、街道を駆けてくる。

「あれは」

 侍が顔を上げた。

 はるも顔を上げた。

「あ」

 馬上の侍は、柴田様だった。供を引き連れている。数は二人。

「生きておるぞ!」

 そう叫ぶ声がした。

 ふいに、激しくはるの体は震えだした。柴田様は、はるがほんとうに骸となったか確かめに来たに違いない。

「おい」

 傍らの侍がはるの腕を掴んだ。

「殺られる。逃げるぞ」

 頷き返し、はるは走り出した。


 街道を走れば、馬にすぐ追いつかれる。侍は林の中に逃げ込んだ。斜面を転がるように走り、闇雲に前に進む。

 馬も追いかけてきた。

 と、渇いた鋭い音がし、はるの耳元を何かがかすめた。

 弓だ。

 怖気が走った。柴田様は弓ではるを討とうとしているのだ。

 矢が雨のように降ってきた。そこかしこに矢が落ちる。鋭い音を立てて、木の幹に刺さる。

 木々の間を懸命に走る。ぎりぎりのところで、矢を避ける。


「わあぁ」

 ふいに、地面が傾斜した。

 侍もろともはるは滑り落ちだ。勢いは止まらない。木の幹にぶつかり、低木の茂みをなぎ倒し、転がっていく。

 落ちたのは、沢だった。水は足首ほど。

「あうっ」

 沢の岩に当たったのだろう。侍が呻いた。見ると、右の膝下の肌が避け、血が噴き出している。ひどい痛みのようだ。侍は起き上がれない。

「構わん、逃げろ」

 侍が叫んだ。

 後ろを振り返ると、柴田様と共の二人が沢へ下りてきたのが見えた。馬を下りて、水の中に入ろうとしている。

「こっちへ」

 はるは侍の手を引いた。

 沢の上流に、大きな岩が転がっているのが見えた。大人の背丈ほどもある、山のような形の岩だ。

 せめて、あの場所へ隠れることができれば。

 

 侍を引きずりながら、はるは岩を目指した。黒装束から救ってくれた侍を置いて、自分一人で逃げることなど、はるにはできない。

 どうにか岩の後ろへ体を収めたとき、追っ手が沢へ入った水音がした。

 追っ手は近づいてくる。

「どこへ逃げた」

 柴田様の声だった。

 はるは侍を岩陰に横たえ、自分も身を屈めた。岩陰は深みになっているようで、腰まで水に浸かった。夏だというのに、刺すように冷たい水だ。

「こっちだ」

 供の一人が進む脚で水しぶきを上げながら、上流へ上ってくるのがわかった。

「拙者はあちらを探す」

 もう一人は下流へ向かったようだ。

 水を掻く音が増えた。柴田様も上流に向かってくるようだ。

 岩のまわりの水が赤く染まって、はるは侍を省みた。侍は、膝のほかにも怪我をしているようだ。見ると、肩からおびただしく血が流れている。

 はるは胸元の帯上げをほどき、侍の肩と脇の間に滑り込ませた。そうして肩口で強く結んだ。真っ白い帯揚げだが、みるみるうちに赤く染まる。それでも、少しは血の流れを抑えられるだろう。

「かたじけない」

 侍は呟き、はるのされるがままになったが、その声に力はなかった。

「拙者のことは置いて逃げなさい」

「そうはまいりません」

「もう、拙者はだめです。今、逃げれば、そなただけでも助かるかもしれない」

「弱気になってはいけません。最後まであきらめてはなりません」

 自分でもどこからこんな気力が湧いてくるのかわからなかった。ただ、飲み込めない悔しさが自分を突き動かしているのは確かだ。

 追っ手は近づいてくる。このままでは、すぐに見つかってしまうだろう。

 それならどうすべきか。

 

 はるは沢を見渡した。二間(けん)ほどの幅の狭い沢だ。歪な形をした岩が、水の中からいたるところに顔を出し、急流を弱めている。

沢のまわりは、丈の高い草で覆われている。そして、沢に影を落としているのは、山肌から伸びた木々だった。さわぐるみやとちの木がこんもりと沢を包んでいる。頭上には、大木の枝が沢にせり出している。

 ごくりと唾を飲み込んで、はるは侍を振り返った。

「待っていてください。奴らを巻いてみせます」

 

 これは追いかけっこだ。はるは無理矢理自分に言い聞かせた。八吉と日々野山を走り回って追いかけっこをしていたものだ。あのときのように、動けばいい。

 はるは手早く小袖を脱ぎ捨て、襦袢姿になった。襦袢も、小袖同様純白だ。

腰紐で、襦袢の裾を端折る。

侍が目を見開いた。薄く微笑みが浮かぶ。

「なんと、頼もしい」

 そして侍は、はるの手を取った。

「まだ名前を聞いていませんでした」

「はるといいます。あなた様は」

「大柴青之進(せいのしん)といいます」

 追っ手の水音が迫った。

「はる殿、達者で」

 だが、はるは青之進に返事をする間もなく、飛び上がっていた。はるが掴んだのは、頭上に垂れたサワグルミの太枝だ。

「見つけたぞ!」

柴田様の供の侍が叫んだ。

はるは枝を震わせ、体を大きく揺らす。そしてそのまま沢の対岸を目指して回転した。

「おっ」

 柴田様と供の者が叫んだと同時に、はるは対岸に着地した。

「あの者、忍びか」

 うろたえた柴田様の声が聞こえた。供の者がはるを追って、草の中にやって来た。はるは素早く草の中を駆けた。転がっては走り、右へ左へ、供の者を翻弄した。

「たかが女子(おなご)一人に何をしておる。早く捕まえろ」

柴田様の苛立った声が響く。

「そ、それが逃げ足が早く」

 供の者が返す。

 簡単に捕まるものか。もっと遠くまで誘い出してやる。

 はるがほくそ笑んだとき、ふいに、背後から首を絞められた。

「逃がさんぞ」

 もう一人の供の男だった。

「ぐぐうう」

 首を絞めつけられた、はるは呻いた。

「女子のくせに、なかなかやるわ」

「ぐううう」

 息ができない。

「女子相手に刀を使うほどのこともない」

 大きな男の掌が、ぐいぐい締め付けてくる。はるは力を振り絞って、身をよじった。だが、首に巻かれた男の掌は離れない。

 まるで、野兎だ。はるはぼんやりしてきた意識の中で、遠い昔を思い出した。弟たちと野兎を捕まえたことがあった。あのとき、野兎の耳を掴んで家に戻った。耳を掴まれた野兎は苦しそうに暴れて……。

 ああ、もうだめだ。意識が遠のきかけたとき、ふと気づいた。

 八吉の鏨だ。

 はるは素早く帯の間に手を入れ、鏨を掴んだ。そのまま、背後の男めがけて闇雲に突き刺す。

「ぐうぇえええ」

 低いうめき声を漏らし、男は掌の力を緩めた。首の掌が外れた。転がって男からを放れ、後ろを振り返る。

 八吉の鏨は、男の腹を突き刺したようだ。男はしゃがみこみ、腹を抑えてはるをねめつける。

「こやつ、ただではすまんぞ」

男が反撃しようと腰の刀に手を伸ばそうとした刹那、はるは男に飛びかかった。そして鏨を男の首筋に向けて刺した。

「う、ぐう」

はるはよろけた。目が見えない。

男の首筋から吹き出した返り血のせいで瞼が塞がれた。目の前は真っ赤だ。

 掌で顔を拭うと、足元に倒れた男がいた。息はしていない。


 倒したのだ。

 はるは呆然と血で染まった鏨を見た。

 ほんとうに、自分が侍を倒したのか。

 八吉……。

 はるは鏨を握り締めた。この鏨がなかったら、今頃自分はあの人足たちのように首をはねられていただろう。そして泥の中で骸となっていただろう。

「柴田殿、今、うめき声が聞こえたような」

 もう一人の供の男が、訝しげな声で柴田様に問うている。

「見てこい」

 柴田様が返す。

「秋定、どうした」

 死んだ男は、秋定というらしい。

 はるはしゃがんだ。獣が獲物を狙うように、もう一人の供の男が来るのを待つ。

 草を分けて供の男が近づいてくる。

「秋定」

 ふたたび声が上がる。そして声の主は、はたと立ち止まった。

「血の臭い……」

 男が呟いたとき、はるは草の間から跳ね上がって男の前へ躍り出た。

「うあわぁあ」

 男の叫び声が上がったと同時に、はるは男の心ノ臓をめがけて鏨を刺した。一本は前から。吹き出した血しぶきを浴びながら、すぐさまもう一本の鏨で脇腹を刺す。

「ぐえええぇ」

 男は呻き、体を二つに折った。

「こ、こやつ」

「根岸、どうした」

 柴田様が叫ぶ。目の前でうずくまった男は根岸というらしい。

 男はげぼげぼと口から血を吐いた。その震える唇が動きを止めるのを待って、はるは男の脇腹に刺した鏨を抜いた。

 八吉にもらった鏨は、硬い石を削ってきたのだろう。刃こぼれはしていない。

 顔を上げると、草の上に柴田様が見えた。生い茂った茅の上で、不穏な表情の柴田様がきょろきょろと辺りを見回している。手には刀を握っているのが見えた。不穏な気配に、警戒している。

 柴田様までは、ほぼ三間。

 せせらぎの音が、妙にはっきりと聞こえる。水が岩を避ける音。草を倒して流れていく音。

 ふいに一羽の白い鳥が、茅の中から飛び立った。

 柴田様が鳥に驚き、瞬間、隙ができた。

 はるは鏨を投げた。

「ぎゃっ」

 鏨は柴田様の肩口に当たった。呆然と目を開き、刺さった鏨を引き抜く。

はるは地面を這った。まだ鏨は二本ある。

 両手に鏨を持ち、草を分けながら進んだ。ゆっくりと這った。湿った土は、はるの音を消してくれる。

 揺れる草に、柴田様が刀を構え、辺りを見据える。

 はるは柴田様の背中に向けて、鏨を投げた。

「うっ」

 柴田様の体がよろめく。その隙に、はるは走り出し、柴田様の横から、残った鏨で柴田様の片方の足首を掻いた。足首を掻こうと咄嗟に思いついたのは、おとうが狼を捕えてきたとき、おとなしくさせるために、狼の脚の腱を切っているのを見たことがあるからだ。

「ぎゃあ」

 叫び声と共に、柴田様は草の中に倒れ込んだ。その体に覆い被さる。

 柴田様の驚愕した目が、はるを見た。

「はる――おぬし、何者」

「何者でもございません」

 はるは、柴田様の心ノ臓に当たりをつけて、鏨を刺した。

「ぐうえええ」

 鏨が刺さるまで、柴田様は、まだはるに留めを刺されるとは思っていなかったのかもしれない。柴田様の目に浮かんだのは、苦悶と同時に疑問だった。

この小娘が、なぜ。白目を剥くまで、柴田様の目はそう言っていた。

 柴田様が息絶えた認めた途端、はるの体が震えだした。追っ手たちに向かっていたとき、あんなに張り詰めていた体が、ぶるぶると震える。

 

 人を殺めてしまった。

 

 鏨を刺したときは感じなかった恐怖が、心のうちを覆い尽くす。

 両手で顔を覆い、はるは泣いた。

 もう、おいとま請いのお供をする前の自分には戻れない。そう思った。野山を駆け巡り、石礫を投げ、宙返りしていた自分は、あの頃の無邪気さは、もう、自分にはない。

 嗚咽はとめどなかった。全身を震わせ、はるは泣き続ける。

「はる殿」

 そのとき、かぼそい声が響いた。

 はっと顔を上げたはるは、声のしたほうへ体を向けた。

「青之進様!」

 はるは立ち上がり、水の中を駆けていった。


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