第3話 第二章 襲撃

              第二章 襲撃



 てる姫が乗った籠とそっくりの籠に乗せられて、はるは山道を進んでいく。籠を担ぐ人足たちは、言い含められているのだろう。始終黙ったまま、足を進める。

 

 ひどい揺れだった。籠の内側に下がった紐を握り、歯を食いしばって体を支えていなければ、すぐさま斜面に投げ出されてしまいそうだ。籠に載せられ揺られるのが、これほど苦痛だとは思ってもみなかった。籠に乗ったお姫さまというものは、さぞや楽なものだろうと想像していたのに。

 はるは帯に手を当てた。ここに、八吉がいる。いっしょなら、怖くない。自分に言い聞かせる。


 木々の葉が籠に当たり、箒で物を叩くときに似たと音を立てた。石が落ちる音もする。籠の簾は決して上げるなと、せい殿から強く言われていた。顔を見られるのを防ぐためだと思ったが、案外、はるの恐怖心を抑えるためだったのかもしれない。道なき道を進む様子を見てしまえば、はるは叫び声を上げていただろう。

 はるの乗った籠は、てる姫の行列よりも、九十九折に先に到着しなければならない。人足たちは早足で、登り、下り、山を駆け抜けていった。


 籠の揺れが小さくなって、籠が街道に出たとわかった。ほっと息をつく。

 籠が止まった。どうやらここが入れ替わりの場所らしい。

 息をひそめて、はるは外の様子をうかがった。しばらくは何事もなかった。聞こえてくるのは、人足たちが水を飲む喉の音だけだ。

 ふいに、ぴしりと、籠の上で竹を打つような音がした。

 雨だ。

 そう思った瞬間、

「降ってきやがった」

と、人足の一人が呟く声が聞こえた。もう一人の人足も何か言葉を返したが、激しくなった雨の音でかき消されてしまった。雨はざあっと音を立てて、あっという間に本降りになった。

 と、カッカッカッと馬の蹄の音が響いてきた。途端に、籠が中に浮く。

 籠は勢いよく、走り始めた。ふたたびはるは、目の前にぶら下がった紐にしがみつく。

 人足たちが水たまりを蹴るのか、時折、籠に水飛沫が当たる音がした。

 やがて、はるの籠の人足たちとは別の足音が聞こえてきた。新しい足音は、規則正しく刻まれてこちらへ向かってくる。

 

 あれは、てる姫を乗せた籠だ。はるはそう思った。

 

 馬の蹄の音が、また聞こえ始めた。一匹、二匹、三匹。余程注意深く手綱を握っているのか、馬はおとなしい。

 姫、こちらへ」

 誰かの声が聞こえた。姫を迎えに来た者だろう。それから何やら言葉が飛び交い、雨の音に滲んでいく。

 馬の蹄の音が遠ざかっていくのがわかった。てる姫を乗せて逃げていくのだろう。

 そこからは、ただ雨の音になった。風が出てきたのか、木々を揺らす音も激しくなる。



「おーーーい」

 いままでとは別の声が、遠くから響いてきた。

「ここだぞーー」

 はるの乗った籠のすぐ脇で、叫んだ者がいる。人足の一人だろうか。

 すると、

「てる姫さまぁ!」

と、聞き覚えのある声が叫んだ。せい殿だ。

「おまえさまたち、どこへ行っておられたのです!」

 せい殿の怒りを含んだ声が聞こえた。

「へい、道に迷ってしめえやして」

 人足だろう。籠のすぐ脇で声を上げた。

「曲がりくねった道のせいでしょう」

 せい殿と人足たちは、ここでこのような会話をすると、先に決めておいたのだろう。どことなく取って付けたようではあるが、姫を乗せた籠を担ぐ道に迷った人足と、姫を心配する侍女との会話としては不自然ではない。

 はるは空恐ろしくなった。侍女頭とはいえ、せい殿はたよやかな、虫も殺さないように見える女だ。ほかの侍女たちとは、品格が違う。そんなせい殿が、人足と示し合わせて大それた嘘を吐いている。


「てる姫さま、お顔を」

せい殿に声をかけられた、はるはびくんと震えた。

 簾が上げられた途端、雨が降りかかってくる。

 はるはおずおずと顔を上げた。

 目の前に、せい殿の雨に濡れた顔がある。

 せい殿は深く頷いた。そして、口を利こうとしたはるを、鋭い目つきで制す。

「てる姫さま、ご無事でございます」

 せい殿の叫び声に、小者や警護の者たちが走り寄ってきた。

「ご心配は無用です。姫さまはご無事でございます」

 その拍子にさっと籠の簾を下げられた。そのせいで、はるはまた、外の出来事がわからなくなってしまった。だが、これも柴田様の計画なのだろう。ここで顔を見られたら、籠に乗っているのはてる姫の偽物だと見抜く者がいるかもしれない。


 輿入れの行列は、ふたたび静かな歩みを始めた。先頭を担う利賀方のお迎え役も戻り、何事もなかったかのように進んでいく。

 奇妙な心地だった。今、自分は、姫として籠に乗っている。揺れらながら、夢でもみている心地だ。

 

 籠はゆっくり進んでいく。


 いつしかはるは、眠気を覚えていた。人足たちの単調な掛け声が、夢の中へ誘ってくれる。

 やがて行列は、九十九折を越え、二つ目の峠にさしかかろうとしていた。雨は小ぶりになったようで、籠を叩く雨音は静かになった。



 そろそろ昼八つを過ぎた頃だろうか。

 そういえば、鳥のさえずりが増えている。山の天気は変わりやすい。また今朝のように、空は晴れ上がるかもしれない。

 はるは柴田様の言葉を思い出していた。姫の身代わりとなるのは、二つ目の峠を越すまでだと、そう言われた。それなら、もうすぐだ。もうすぐ賊に扮した城の者が、この身を逃してくれるだろう。

 眠気が襲ってきた。朝から緊張続きだったのだ。御供衆として恥ずかしくないように。自分に言い聞かせながら、行列に加わった。

 そのあとに、せい殿に呼ばれて、柴田様に会ったあのときから、自分の運命は大きく変わった。まるで、九十九折の道を行くように、意外な方向へ進んだのだ。

 いつのまにか、眠り始めていた。短調な人足たちの掛け声と、ひたひたと、これも規則正しい行列の人々の足音。ときおり、馬がいななくが、行列はいたって平穏に進んでいる。瞼の奥には、懐かしい村の風景が見えた。弟たちの笑い声がする……。



 どれくらい眠ってしまったのだろう。

 さっきまで、上向きだった籠が、下向きになっている。下り坂のようだ。

 峠を越えてしまったのだろうか。

 にわかにはるは不安になった。この身を逃がしてくれるという賊は、いつ現れるのだろう。

 はるは耳を澄ました。

 まわりの足音が聞こえてこなかった。人足の足音はするが、さっきまでこの籠を囲んでいた足音の数が明らかに減っている。

 どうしたのだろう。

 賊が襲う計画のために、幾人かの者は先に逃がされたのだろうか。

 そのとき、鋭い悲鳴が響き、はるははっと目を開けた。

 悲鳴は籠のすぐ脇から聞こえた。獣のような男の叫び声だ。人足の一人だ。



「ぎゃあぁああ!」

 乱暴に籠が地面に置かれた、はるは籠の中で転がった。

 賊が現れたのだ。それにしても、人足の叫び声は、鬼気迫っている。偽物に襲われたにしては、叫び声は悲痛すぎないか。

 刀が風を切る乾いた音がした。その直後、

「何者ぞ!」

と、怒鳴る声。警護役の侍の声だろう。

 高く、刀の刃がかち合う音が響いた。乱暴に、土を蹴る音。

「ひぃぃぃっ」

 金切り声が続いたと思うと、咆哮する男の声。すさまじい叫び声。声はすぐさま断末魔の呻きに変わる。

 

 おかしい。偽物の賊相手にしては、戦いが凄まじすぎる。

 

 思わず籠の簾を開けた。その瞬間、血みどろの男が籠にかぶさってきた。

 絶命した男は、人足の一人だ。

 これは、どういうことだ。偽物の賊が人を殺めるとは聞いていない。戦いの真似事をするだけのはずではないか。

「姫さま!」

警護役の侍の怒鳴り声に顔を向上げると、籠の脇で、黒装束の男がこちらに向かって刀を振り上げていた。咄嗟に体を傾けて、刃を避ける。

 振り上げられた刀は、籠に下ろされ、籠が呆気なく二つに分かれた。座ったはるのすぐ足元に、鋭い刃が刺さっている。

「あわわあぁああ」

 籠の外に転がり出たはるは、土の上を這った。

「待てい!」

 黒装束ははるを追おうとしたが、瞬間、刃が籠の木枠にのめり込んで、躊躇した。

 もし、もう一瞬、黒装束の刃が抜けるのが早かったら、はるの命はなかっただろう。

 はるは体勢を立て直し、走り出そうとした。だが、別の黒装束が横から切り込んできた。

「姫さま、危ない!」

 はるに顔を向け怒鳴ったのは、警護役の中でいちばん若かった侍だ。その侍の顔に、驚愕が走る。

 気づいたのだ。

 瞬間、はるは思った。この侍は、籠の中にいるのは偽物だと知らなかったのだろう。

「やっ」

 黒装束の刃を侍が受けた。その動きに迷いはない。てる姫が偽物であるという疑念を、今、はるに問い質す暇はない。

 侍は二度ほど黒装束の刃を防ぎ、そして黒装束の腹に刀を突き刺した。

「ぎゃああああ」

 だが、すぐさま、籠に刀を突き刺したもう一人の黒装束が、侍の背後に回り、刀を振り上げる。

 はるは咄嗟に、手元にあった石を掴んで、黒装束に投げつけた。

「うっ」

 石は黒装束の顔に当たり、体勢が崩れる。その隙に振り返った侍が、黒装束の肩をめがけて刀を振り下ろした。

「ぐぐううう」

黒装束はどさりと倒れ、絶命した。

 はるは呆然と、倒れた黒装束を見た。どくどくと肩から流れ出す血が、生き物のようだ。

 ちいちいと、空の高いところで鳥がさえずり、そのあとに、大きな鳥の影が地面に映った。空は晴れ上がり、雲が流れている。



辺りは静かだった。


 骸が四つ。籠のまわりに倒れている人足と、警護役の侍二人。

 人足二人は哀れだった。一人は籠にかぶさる形で絶命している。もう一人は、籠の持ち手に寄りかかるようにして死んでいる。二人共、ふいを襲われ、逃げることすらできなかったのだろう。

 警護役の侍二人は、籠から少し離れた場所で絶命していた。一人はバッサリと背中を切られ、もう一人の老いた侍は、前から切られたのだろう。血しぶきで顔がわからなくなっている。

 はるはまわりを見回した。行列は、跡形もなかった。置き去りにされた櫃や長持が、道の上に転がっている。倒れている侍女や小者の姿もあった。大半は逃げたようだが、逃げ遅れた者は殺されたようだ。

 無残だった。まるで戦のあとのように、山道が凄惨な場所と化している。

主を失った馬が、いななきながら林の中へ駆けていく。

「――どうして」

 はるは傍らで荒い息をしている侍に訊いた。

「偽物の賊のはずです。それなのに、どうして」

 明らかに、黒装束は、はるを殺めようとしていた。話が違うではないか。

侍が、はるを見据えた。

「そなたは誰です?」

 はるは言葉に詰まった。しゃべってしまっていいものだろうか。柴田様は、身代わりになったことを、口外してはならぬと言った。口外するのは、城のためにならないと。

「本物のてる姫は、どこへ行ったのですか」

「存じません」

 はるは激しく首を振った。

「知らないはずがない。これはてる姫の籠です。その籠にそなたはいた」

「わ、わたくしは、この籠に入るよう命じられただけで」

「――身代わり」

 侍が口にし、はるの姿を足元から頭の先まで眺めた。美しい白の小袖は血しぶきで赤く染まり、腰から下は泥まみれだ。鶴が羽ばたく簪は、半分に折れて先の部分が籠の横で泥に浸かっている。

 血で汚れた侍の腕が、はるのほうへ伸びてきた。怯えてのけぞったはるの額に、侍の指先が触れる。

 乱れたはるの前髪が整えられた。

「似ている――たしかに」

 思わず俯いて、はるは両手で顔を隠した。

「お許し下さい。わたくしは――」

「誰に命じられたのだ」

 侍の声は厳しかった。

「そ、それは」

「言いなさい!」

 そして、はるの肩を強く揺さぶった。

「そなたは殺されかけたのですよ!」

 それはわかっている。明らかに、賊ははるを殺めようとしていた。だが、なぜ、自分が狙われたのか釈然としない。こんな下働きの小娘を狙ってどうなるというのだろう。

 そう思ったはるは、

「あっ」

と、声を上げた。

「賊はもしや、てる姫を狙って」

 どうしてこんな簡単なことがわからなかったのだろう。賊はてる姫を狙ったのだ。まさか、中に身代わりの女がいるとも知らず。

 ところが、侍はゆっくりと首を振った。

「こやつらはてる姫を狙ったのではありません」

「え」

「こやつらが狙ったのは、身代わりのそなたです」

「そ、それは、どうして」

「謀(はか)られました」

「謀られた?」

 侍は血しぶきで赤くなった顔で頷いた。目だけが異様に輝いている。両袖は千切れ、肩から血を流していた。黒装束を討ったが、痛手も受けたようだ。

「偽物の賊が、この籠を襲う真似事をするのだとわたくしは」

「我ら三人も」

そう言って、侍は骸となった警護役の男たちを見た。

「我ら三人も、そう聞いていたのです。偽物の賊が来ると。その偽物の賊に、姫をお渡ししろと。まさか、籠にいる姫が偽物とは知らなかった。そしてやって来たのは、本物の賊でした。いや、本物といっても、野盗の類ではありません」

「え、それはどういうこと……」

 嫌な予感がした。偽物の賊に逃してもらえると聞いたとき、はるは柴田様に訊いた。放たれたあとは、どこへ向かえばよいかと。だが、あのとき、柴田様は答えてくれなかった。

もしや。

「この黒装束の男たちは、剣の使い手だ」

 侍はしゃがみこむと、絶命した黒装束の体に覆いかぶさり、その顔の頭巾を剥がした。

「やはり」

 侍は悔しそうに、呟いた。

「この男は、高堂(たかどう)様の手の者です」

「高堂様?」

 名前だけは耳にした憶えがあった。家老の高堂典秀。顔は見たこともない。その高堂様の手の者が、なぜはるを殺めようとしたのか。

「そなたに身代わりになるよう命じたのは、柴田殿ではありませんか」

 はるは目を見張って、頷いた。

「やはり、そうでしたか」

「わたくしを謀ったのは、柴田様だとおっしゃるのですか」

 侍は頷く。

「わけを教えてください。なぜ、柴田様はわたくしを殺めなくてはならないのか」

 にわかには信じ難かった。こんな面倒な手はずを整え、自分が殺められる理由が知りたい。

「今、この山野には、いくつもの小さな勢力がひしめき合っています。美濃から信濃、その向こうに甲斐の国。土地と民を奪い合ってしのぎを削っている。我が城は、東の利賀、北の丹野(たんの)と小競り合いを続けてきました。だが、このままでは、お互いの潰し合いになる。そう遠くない将来、甲斐の国で大きな戦が起これば、利賀や丹野、そして我が城などひとたまりもないでしょう。そこで、ご家老の楠根様が中心となられて、利賀方との同盟を画策なされた」

「それが、てる姫の輿入れなのですね」

 侍は頷く。

「利賀方と結んで、丹野勢に対抗する。それが、楠根様方の考えです。楠根様は城主邑久様の覚えめでたく、この度の輿入れと相成りました。だが、お城は、一枚岩ではない。ご家老の高堂様は、別の考えをお持ちだった」

「というと」

「利賀方につくのではなく、丹野方と結ぼうと考えたのです。そのために、てる姫を奪う必要があった」

ふうと、侍はここで大きく息を吐いた。

「奪うといっても、城内で事を起こすわけにもいきません。それで、輿入れの道中、てる姫の略奪が企てられたのです。だが、ここに、もう一つ、高堂様の策略がありました。てる姫を賊から守り、奪うだけでなく、偽物を仕立て、その偽物を殺すことによって、偽物を仕立てたのは、城主邑久様率いる楠根様方と思わせたかったのです」

「ということは、邑久様が利賀方を欺こうとしたと思わせようと」

 侍がものめずらしそうに、はるを見た。

「そうです。偽物の姫が殺されれば、偽物を嫁がせようとした邑久様の策略が表沙汰になり、利賀方と不和となる。そこで、丹野方についた高堂様は、本物のてる姫を丹野方に輿入れさせ、一気に邑久様を倒す」

「え」

「この謀は、利賀方と我が方の同盟を潰すだけではありません。高堂様が、我が城を乗っ取ろうとしているのです」

「そんな」

おそろしいこと。そう言おうとしてはるは唾を飲み込んだ。はるなどには想像もつかない謀(はかりごと)があったのだ。

侍はさびしく笑った。

「半分は拙者の憶測にすぎません。我らは、高堂派でした。てる姫略奪の計画を知らされ、お守りするように指示されました。偽物の賊から姫を救い、丹野方へ逃げ延びろと。そう信じていました。ところが、やって来たのは、高堂様方の刺客。そして輿には、身代わりの姫が入っていた」

「では、初めから」

 侍は、深く頷いた。

「柴田様は、高堂様の懐刀と言われています。柴田様は、高堂様の命(めい)を受けて、てる姫そっくりのそなたを身代わりにしたのでしょう」

 はるは唇を噛み締めた。てる姫が押野城城主を嫌っているなどど、子ども騙しの嘘に騙されたのだ。

「我らがそれと知らず、身代わりの姫を警護させられたのは、謀に信ぴょう性を持たせるためだったのでしょう。我らの骸は、城主方の者とされる。この事実がわかれば、利賀方とは破談になり、同盟はなくなる。利賀方の援助を受けられない我が城主邑久様、そして邑久様の覚えめでたい楠根様の勢力は弱まる。そこで一気に丹野方と組んだ高堂様は城を乗っ取り、利賀方を討とうとしているんでしょう」

「わたくしたちの骸が、邑久様の利賀方裏切りの証拠になるはずだった……」

「捨石だったのですよ、そなたも、我らも」

「捨石」

 はるは呆然と呟いた。城を救う大切なお役目なのだ。そう言った柴田様の目が蘇った。大切なお役目とは、ただ無残に切られることだったのだ。そのために、自分は御供衆に選ばれた。

 御供衆に決まったときの、おとうやおかあの喜ぶ顔が浮かんだ。そして八吉の笑顔も。

 悔しい。

 はるの目に涙が滲んだ。

 自分など、野の草の生きる虫と同じだ。そう思っている。だが、野の虫にも、心はある。この悔しさは飲み込めない。

 はるの心の底で、火打石が小さな火花を上げた。

 纏った小袖を見た。血しぶきと泥で汚れ、なんという惨めな姿だ。いや、惨めなのは、あのときの自分だ。真っ白い小袖を着たとき、自分はどれだけ嬉しかっただろう。こんな幸せ者はいないと、仏様に感謝したいほどだった。

 はるを見つめる侍の瞳にも、うっすら涙が浮かんだ気がした。城で見かけた憶えはないが、それなりのお役をもらっていた者なのだろう。もしかすると、悔しさははるよりもずっと大きいかもしれない。


「さて、どうしたものか」

 意外なほど渇いた声で、侍が言った。

「今更城へは戻れない。浪人となるしかありません。わたしが生きて帰っては高堂様にとっても不都合でしょうから」

 それなら、自分も同じだとはるは思った。もう、村で生きていくことなどできないのだ。

 そのとき、地を轟かす馬の蹄の音が響いてきた。

 


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