第2話

 明六つ半、夜明けまで残っていた霧は晴れ、清々しい一日の始まりだった。

 朝日の中で燃える門火に見送られ、てる姫を乗せた籠は、城の門を出た。

 

 輿入れの行列は、先頭に馬に乗ったお迎え役である利賀方の者が数名。この者たちは昨日のうちに城へ入り、おいとま請いの儀式にも参加している。次に姫を乗せた籠。まわりには、三人の警護役の侍が固めている。壮年の侍が二人と、若い侍が一人。 

 そのあとに続くのは侍女たちで、その後ろを櫃や長持を担いだ小者たちが歩く。そしてしんがりには、ふたたび警護の侍がつき、一行を見守りながら進んでいく。

 敵方へ嫁ぐ姫の気持ちを慮ってか、てる姫の嫁入り道具は殊のほか豪華だった。こんな小さな山城からの輿入れにしては不似合いなほど、櫃や長持の数が多く、沿道の村の者たちは誰もが賞賛のため息とともに行列を見送った。

 はるは、六人の侍女たちの中にいた。当然ながらいちばん後ろで、視線は、前を歩く侍女の裾に落としていた。

 今朝、まだ暗いうちに起きたはるは、すでに囲炉裏に火が起こされているのに驚いた。真冬でもない限り、はるの家では囲炉裏の火を起こすことはない。

火を起こしていたのは、おかあだった。村を出て行く娘のために、あたたかい白湯を用意してくれたのだった。この季節、冷たい井戸水のほうがよかったが、おかあは、はるが小さいとき、腹を下しやすかったのを憶えていたようだ。

 てる姫の輿入れ先である押野城までは、大人の足で十二里あまり。途中、峠を二つ越すために、押野城へ着くのは夜遅くなってからだろう。そこまでの道のりを、おかあは心配してくれたのだ。お腹を冷やさぬように。白湯の入った茶碗を寄越してくれながら、おかあは涙ぐんでいた。

 はるは俯いて歩き続けた。もし、おかあの姿を目にしたら、行きたくないと叫んでしまうかもしれない。いや、そんな子どものような真似は絶対にできないが、きっと涙は出てくる。涙は見せてはいけないと、侍女頭のせい殿から言われている。輿入れというおめでたいときに、決して涙など見せてはいけないと。

 視線を上げない代わりに、はるは耳を澄ました。ざわめく村の者たちの声の中に、おかあの声が聞こえるかもしれない。だが、聞こえてくるのは他人の声ばかりだった。そんな声に混ざって、かまびすしいほどの鳥の声。

 ほんとうは、見送る者の中に、おかあがいないのは、わかっていた。家を出るとき、見送りには行かないと、おかあはそう言っていたのだから。それでも、おかあの声を探している自分に、はるは呆れた。これから、まったく知らない土地で、知らない人たちと生きていかなければならないというのに。一人で生きていかなくてはならないというのに。


 両側の田が途切れて、神社の鎮守の森が見えてきた。ようやくはるは顔を上げた。村の者たちの姿が後ろになり、ざわめきが遠のいていく。鎮守の森を過ぎれば、うねる田の道は山へ入る。

昨日、八吉と登った椨の木は、いつもと変わりなく村を見下ろしていた。じっと見つめていると、梢から小さな鳥が飛び立つのが見えた。

――あれは、わたし

 はるは思った。

 もう、飛び立ってしまったのだ。後戻りはできない。

 そのとき、鎮守の森の陰から、はるを呼ぶ声が聞こえた。

「はる」

 空耳とも思えたが、声はもう一度、はるの名を呼んだ。ささやくようではあったが、はっきりと聞こえた。

 ちょうど、先頭を進む侍の馬がいなないた。そのおかげで、はるのまわりの誰も、ささやく声に気づかなかった。馬のいななきはすぐには収まらず、小者たちが荷を置いて侍の手助けに向かう。

「はる」

 ふたたびはるは呼ばれて、声のしたほうへ顔を向けた。神社の入口の石段のそばに、やつでのこんもりとした植え込みがあった。声はそこから聞こえる。

「あ」

 はるは思わず立ち止まりそうになって、それから慌てて足を進めた。行列を止めるわけにはいかない。

 やつでの陰に隠れていたのは、八吉だった。暗い茂みの中で目を光らせている。

最後のお別れに来てくれたのだ。後ろを振り返りながらそう思ったとき、八吉がこちらに向けて、何やら筒のような形のものを転がしてきた。筒は渇いた土の上を転がって、はるの足元で止まった。

 はるは咄嗟にしゃがみこんで、筒を拾い、袂へ入れた。竹の筒だった。何か入っているのか、足を進めるたび、中の物がぶつかり合う鈍い音がする。

 八吉がいっしょに旅立ってくれている。

 はるはそう思いながら、山へと入っていった。



 鬱蒼と木々が茂る山の街道を、行列は粛々と進んでいく。

 上り坂があり、下り坂があった。崖の上の心細い道があり、そろそろ日は中天にさしかかろうという時刻のはずが、夕暮れのように薄暗い場所もあった。

 村から遠くなるにつれ、山は高くなり、足元は険しくなった。村の者は季節になるとわらびやふきを採りに山へ入るが、もう、村の者が来ない場所までたどり着いていた。

 竹林が続く道を過ぎたとき、休息の声がかかって、行列は止まった。そろそろ一つ目の峠だという。その前に、この場所で体を休める手はずとなっているらしい。

小者たちが掛け声とともに、順々に荷を下ろした。侍たちは馬を止め、一行から離れていく。

 てる姫の乗った籠も下ろされた。はるはすぐに喉を潤したかったが、役目が待っていた。照姫に冷たい手ぬぐいを渡し、体を拭き、水を差し上げるのだ。

はるは侍女頭のせい殿から、手ぬぐいを渡された。といっても、てる姫の肌に直接触れるのは慣れた侍女で、はるは替えの手ぬぐいを持ち、横で待機する役目だ。

 籠の前でかしずいていると、籠のすだれが上がり、

「ほう」

と、声が漏れた。てる姫がため息をついたようだ。

 甘い香りがただよってきた。

 これは、花の香り。

 柊だ。侍女たちから、てる姫さまは柊の香りを好むと聞いた憶えがある。秋になると、柊の花をいつも手元に置いておくという。

 はるは恐る恐る顔を上げ、てる姫を見た。美しい姫だった。これまで何度も見かけたことはあったが、こんな近くで目にしたのは初めてだった。大きくつぶらな瞳。すっと通った鼻筋。薄く形のいい唇。その美しさは、花のようだった。だが、てる姫を特徴づけているのは、顔かたちの美しさではなかった。てる姫が視線を上げたとき、その賢そうで勝気そうな表情が、はるを圧倒した。

 姫様とは、こんなに眩しい方なのか。

 そう思った。てる姫は、ひと目で対する者を魅惑する力を持っている。

 はるはてる姫を哀れに思った。こんなに美しい姫であるのに、残酷非道と噂される男のもとへ嫁がなくてはならないのだ。しかも、利賀忠興は、てる姫よりも十八上の三十三歳だと聞いている。忠興にとって、てる姫は二度目の妻らしい。藤子姫という、美しいと評判の正妻を、忠興は二年前に流行病で亡くしている。

 

 姫は体を拭き終えると、竹筒から茶碗に注がれた水をおいしそうに飲み、それから侍女たちににっこりと微笑んでみせた。その微笑みは、侍女たちの疲れを忘れさせるのに十分だった。はるはぼんやりしたまま役目を終え、小者たちの真似をして、切り株の根の上に腰を落とした。

 竹筒に入れてきた水を飲むと生き返った気がした。普段ならなんでもない距離だが、お輿入れの行列に加わっているという緊張感のせいだろう。首筋にびっしょりと嫌な汗をかいていた。

 こんなときは、塩を嘗めるのがいい。せい殿がみんなにほんのひと握りの塩を回した。塩は貴重だ。侍女たちが、せい殿のまわりに群がる。

 はるも有り難く受け取ったが、すぐにみんなの輪を離れた。八吉が転がしてきた物をあらためたかったのだ。

 はるは木の陰でしゃがみこむと、まわりを伺い人の目がないのを確かめてから、袂から竹の筒を出した。

 中を覗いてみる。布に包まれた何かが押し込まれていた。重さがある。

 なんだろう。

 布を広げた。

「これは」

 鏨(のみ)だった。石工が石を削るときに使う鏨が三本。三本とも、二寸ほどの長さだ。刃の形が四角いものと長いものが一本ずつ。そして錐のように先が尖ったものが一本。どれも使いこまれていた。持ち手の木柄の部分がつるつるとしている。

 そしてどれにも、木柄の裾のかつらの部分に、「八吉」と名前が掘られていた。

「八吉さん」

 鏨に頬を寄せて、はるは思わず呟いた。

 もう、会えないのだ。それがひたひたと胸を満たしていった。大事な道具を寄越してくれた八吉も、二度と会えないとわかっていたからこれをくれたのだ。なぜなら、この道具は、八吉の持ち物の中で、いちばん大切で高価な物のはずだから。

 知らず知らず涙がこぼれて、雫が鏨の刃を濡らした。慌て指先で拭い、布にくるむ。

 鏨が入っていた竹筒はその場に捨て、はるはノミを帯の間に差し込んだ。こうしてしまえば、誰にも見つからないだろう。

 そのとき、はるは、侍女頭のせい殿から声をかけられた。

「はるや。ちょっと」

 せい殿は一行からはずれた栗林のほうにいた。栗林は崖へ続くのか、途中から向こうは下って見えない。

 なぜ、せい殿はあんなところにいるのだろう。

 大きな笑い声が響いた。お迎え役の利賀方の者たちに酒が振舞われているのが見えた。

 せい殿に顔を戻すと、こちらへと来いと手招きしている。はいと返事をして、はるは立ち上がった。

 

 栗林を進むと、小さな小屋が見えてきた。簡素な造りの小屋だ。木こりたちの山の住まいだろうか。

 せい殿はその小屋の前で、もう一度はるに手招きした。その表情が硬い。

 訝しく思いながら、はるは栗林の中を進んでいった。人の通る道ができているから、木こりの住まいというのもあながち見当はずれではないだろう。そんな場所で、せい殿は何の用があるのか奇妙だったが、行かないわけにはいかない。

 はるが近づくと、せい殿は小屋の中へ入っていった。ますます不思議に思いながら、はるは足を進める。

小屋の入口は、一枚の板だった。その板が、人がどうにか通れるほどに傾いている。はるに入れということだろう。

 中に入っていくと、薄暗いひと間があった。といっても、粗末な板張りのひと部屋だ。

 木こりの住まいではないらしい。

 はるはすぐにそう思った。木こりたちが使う道具が見当たらないのだ。斧や鳶口は里へ持ち帰るとしても、木馬(きんま)という丸太を運ぶソリは置いておくはずだ。

 以前、はるは、おとうから、山にある隠し烟(けむり)と呼ばれる小屋の話を聞いた憶えがあった。村で一揆が起きたとき、隠れる小屋をそう呼ぶらしい。この小屋は、そんな場所のひとつかもしれなかった。囲炉裏と小さな窓。その囲炉裏は、長く使っていないのか、炭が見当たらない。

 と、その囲炉裏の向こうに、一人の男の背中が見えた。横にせい殿もいる。

「あ、あの――」

 はるが尋ねようとすると、男が振り返った。その顔を見て、はるは驚いた。

「柴田様」

 振り向いた男は、御供衆の差配役の柴田だった。はるを御供衆に加えた男だ。はるは咄嗟にしゃがみこみ、地面に顔を伏せた。

「頭を上げい」

 頭の上で柴田様の声が響き、はるは恐る恐る顔を上げた。何か失態をしただろうか。めまぐるしく、城を出てからの振る舞いを考えた。御供衆としてふさわしくない所業を、自分は犯したのではないか。

 ところが、柴田様から出たのは、意外な言葉だった。

「はる。これからそなたに大事なお役目を申し付ける」

「―-お役目?」

 思わず声が裏返り、助けを求めてせい殿を見た。だが、せい殿は硬い表情のまま何も言わない。

「てる姫様は、お輿入れなさるのを嫌がっておられる」

「はい」

「殿も本心を言えば、姫を嫁がせたくはない」

 てる姫が嫁ぐ押野城は、元はこの辺り一帯を治めていた守護代都喜(とき)一族の城だったが、家臣だった今の城主利賀忠興が謀反を起こして奪い取ったと言われている。この利賀忠興、野盗の頭領だったとの噂もあり、残酷非道な男だと恐れられている。

 てる姫は嫁ぎたくないというのは、はるにも想像できた。だが、てる姫といえど、城主たる父の意向に背くわけにはいかず、それで、今日の輿入れが決まったはずだが。

 ところが、ほんとうの理由は違うところにあるらしい。

「てる姫が輿入れをする理由は、利賀方との同盟を組むためだ」

「はい」

「だが、我が城の城主邑久さまは、別の考えを持っておられる」

「別の」

 といっても、はるにはよくわからない。ぼんやりした返事をしたためか、柴田様は子どもをあやすような目をして笑った。

「そなたも、甲斐から信濃へと勢力を伸ばし、破竹の勢いである武田のことは存じておろう」

 噂で聞いたことはあったが、知っているというほどではなかった。信濃やその先の甲斐など、遠い他国のこと。

「まあ、よい。ともかく、大きな戦となったとき、我らのような小さな城はひとたまりもない。そのため、利賀と結んで備えようとしたのだが、利賀でははなはだ心もとないと邑久さまはお考えになっておる」

「心もとない」

「手を結ぶなら、もっといい相手がおると考えられたのじゃ」

「もっとよいお相手」

「そうじゃ。そのお相手のところへ、邑久さまは姫さまを嫁がせようとお考えになった。だが、利賀方と話が進んでしまい、今更変えるわけにはいかぬ。この後に及んで嫁がせないと言うのは、利賀方に申し訳が立たぬ」

 はるは訝しんだ。柴田様は何を言おうとしているのだろう。

「そこでだ。そなた、姫の身代わりとして、押野城へ向かってもらいたい」

「え」

 意味がわからなかった。自分が姫の身代わりになる?

「そ、それはどういうことでございましょう」

「言葉どおりだ。そなたはてる姫の身代わりとなり、押野城へ向かう」

 何度繰り返されても、はるには意味がわからなかった。自分がてる姫の身代わりになるなどと。そんな大それたことが許されるだろうか。

 つい先ほど眺めた、美しいてる姫の横顔が蘇った。

 あんな美しい姫の身代わりになどなれるものか。

「そう案ずるな」

 声は柔らかくなったが、柴田様の目は笑っていなかった。射すくめるように、はるを見つめたままだ。

「そなたはてる姫と瓜二つだ」

 ふたたびはるは耳を疑った。

「姫さまとわたしが」

 思わずはるはせい殿に顔を向けた。せい殿が頷く。

「歳は同じ。背丈も変わらぬ。髪かたちを変え、衣装を変えれば、そなたは姫様と双子のようによく似ておる。ただわずかに、そなたの目のほうが生き生きとしておるかもしれぬな。姫さまは、心弱いお方……」

 柴田様は、部屋の隅を振り返った。長櫃が一つ置かれていた。てる姫の衣装が入っていた長櫃と同じ紋が付けられている。

「まさか」

「故に、そなたを御供衆に選んだのだ」

 意味が通じたように思った。いままで人の草履を履いたような心地の悪さを感じていたが、ようやくここにきて自分が御供衆に選ばれた理由がわかった。

 はるの体が小刻みに震え始めた。大それた企みだ。てる姫の身代わりになるなどと。これは、凶事だ。はるは思った。許されることではないだろう。いくら柴田様の言いつけとはいえ、従うことはできない。

 それに。

 震えながら、はるは思い起こした。

 てる姫さまが輿入れする押野城の城主利賀忠興は、鬼も恐れる残虐な男だと聞いている。忠興が戦をしたあとは、草一本も生えないというではないか。村は焼かれ、女子供たちまで串刺しにされるというではないか。

 そんな男の元へ、偽物の姫が現れたらどうなるか。

 ただ殺されるだけではすまないだろう。見せしめのために、どんな恐ろしい目に遭わされることか。

「そう案ずるな」

 柴田様は、はるに近づき、震えるはるの肩に手を置いた。

「押野城へ着くまでに、そなたの乗った籠は逃がしてやる。姫の身代わりとなるのは、二つ目の峠を越すまでだ。猪頭(いがしら)の谷をしっておるか」

「猪頭の谷……」

行ったことはなかったが、名前だけは知っていた。道から突き出た大岩があり、その下が急な谷になっている場所だという。

「そこで、姫は賊に襲われて、行方知れずになったこととする」

「賊に襲われて?」

「賊といっても、偽物の賊じゃ」

「偽物の……賊」

「そうじゃ。だからといって、すぐに賊に身をゆだねてはならんぞ。騒ぎ立てて、誰が見ても本物の賊に襲われたかのように見せかけるのだ」

「は、はい」

 自信はなかったが、頷くしかない。

「賊はそなたの乗った籠をさらい、そして逃がす。その手はずはつけてある」

 そういうことなのか。はるは納得できた。自分が姫の身代わりになるが、押野城へ到着するまでには逃がしてくれるのだ。

 だが、どこへ?

「そのあと、わたくしはどこへ向かえばよいのでしょうか」

 はるはすがるように、柴田様を見上げた。冬の終わりの山。女一人、野山に捨てられては生きていけない。

「村に戻ってもよいということでしょうか」

 それならあながち悪い話とは思えなかった。二度と会えないと思っていたおかあや八吉に、また会える。そう思うと、体の震えは徐々に収まってくる。

 柴田様は、目を光らせて、じっとはるを見据えた。

「このお役目は、この上なく大切だ。我が城を救う、重要なお役目なのだ」

「城を救う?」

 はるは目をしばたたいた。そしてもう一度、柴田様の横にたたずむせい殿を見る。深く頷くせい殿は、慈しむような目をこちらに向けている。


「よいな、はる」

 肩に置かれた柴田様の手に力が入った。

「お役目を全うして、城のために尽くしてくれ」

 そして、柴田様が頭を垂れたために、はるは息が詰まりそうになった。城の偉いお方が、自分に頭を下げている。

「籠は小屋の裏に用意してある。そなたはその籠に乗り、山を進む。このすぐ先は、道が九十九折になる。そこで、そなたの乗った籠とてる姫の乗った籠をすり替える」

 もう、はるは黙ったまま、ただ頷くしかなかった。頭を垂れた柴田様にまじないでもかけられたかのように、身動きができない。

「はる。もう、わかっておると思うが」

「はい」

「身代わりになったことは、口外してはならぬ。口外しては城のためにならない」

しゃべるものか。こんな恐ろしい企み。

 すっとせい殿が動いた。

「はる、ここに」

せい殿にうながされて、はるは長櫃の前に立った。

「これからおまえの召し替えをします」

せい殿が長櫃の蓋を開けた。薄茶色の畳紙(たとう)が見える。

せい殿は、さっと手際よく畳紙(たとう)を板の上に広げると、長櫃から衣装を取り出した。

 美しい小袖だった。純白の、てる姫が着ていた小袖と同じ花嫁衣装だ。

「着物を脱ぎなさい」

 せい殿に言われ、はるはぼんやりしたまま帯に手をかけた。初めて目にした純白の衣装に、頭がしびれている。

「急ぎなさい」

 それも真っ白い帯紐を手に、せい殿が急かす。

「はい」

と応えたものの、体がうまく動かない。あんな美しい小袖を、これから自分は着るのだろうか。

 と、帯を解き始めたはるの指が止まった。はっとなり、目が覚める。

「どうしたのです」

 せい殿が訝しげに訊いてきた。

「なんでもありません」

 はるの指は、帯に挟んであった八吉の鏨に触れたのだった。ここでせい殿に見つかったら、きっと取り上げられてしまう。

 くるくると帯を巻きながら、はるは鏨の入った袋をせい殿から隠した。帯の袋から取り出して、そっと畳紙の下に押し込む。

「さ、そちらの腕を」

 せい殿は何も気づかず、はるの召し替えを進める。

 これも純白の帯が締められた。仕上げは帯絞めだ。せい殿は、はるの胸の前でうつむき、ぎゅうと結び目を絞った。

「さあ、よいでしょう」

 はるはさっとしゃがみこんだ。そして、畳紙に手をかけ、畳み始める。

「よい、よい。そんなことより、籠へ」

 下働きの癖で、畳紙を畳んだと、せい殿は思ったようだ。せい殿が背中を向けた。

その隙に、はるは八吉の鏨を帯の間に差し込む。

「さあ、早う」

 はるは頷き、小屋を出た。



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