春の城

@popurinn

第1話 旅立ち

 つま先を滑らせ、磨き込まれた廊下をしずしずと歩く。

 

 はるは顔の前に膳を掲げて、台所へ向かっている。膳を持った掌には汗が噴き出し、漆塗りの膳に、自分の手形がつきやしないかそればかりが気になる。

 膳には、城に伝わる大事な盃が載っていた。おいとま請いに使われた盃だ。

 

 おいとま請いとは、他家へ嫁ぐ娘に親族が最後の別れをする儀式を指す。式は儀礼的なもので、すぐに親族うち揃っての宴会となった。

 

 明日、ここの城主、邑久正次の息女てる姫は、信濃との国境(くにざかい)にある押野城城主、利賀忠興に嫁ぐ。雪がとける春には信濃と甲斐の国で起こるという大きな戦(いくさ)に備えて、これまで小競り合いを続けてきた二つの勢力が、てる姫によって手を結ぼうというのだ。

 


 廊下の角へ来たところで、耳障りな音を立てて盃同士がぶつかり合った。

 

 ほかの侍女たちは、静かに運べるのに、どうして自分はこうがさつなのか。

 

 はるは普段、こんな高価な器を運ぶ機会がない。今日は、特別に表へ出されたのだ。いつもは、裏で洗い物や薪割り、ときには城の小荷駄方(こにだかた)の馬丁の手伝いもする。はるは女だてらに馬に乗れるし、薪割りをさせても疲れを知らないと評判だ。

 

 ふいに、目の前に、太い腕が現れた。

 

 下女頭のまんだった。


「そんな持ち方じゃあ、大事な器を割ってしまうよ」

 まんは、膳をひったくると、肩ではるの背中を乱暴に押した。

「もう帰っていい。明日は大事なお役目があるだろうしさ」

 振り返ったまんの嫌な目つきに、はるはますます気持ちがすくんでしまった。このところ、まわりから寄せられる羨望と嫉妬の視線に、つくづく辟易している。


 まるで猫の子を追い出すように、はるは勝手口の木戸から表に出された。胸には風呂敷包み一つ。中には、はるが煮炊きの仕事を手伝うときに使う前掛けだけ。

 

 とぼとぼと歩き出すと、本丸で行われている宴の騒がしさが響いてきた。笑い声や手拍子。普段はいかめしい城の様子も、今日ばかりは華やいでいる。

 曲輪を下ると、松林が途切れ、眼下に冬枯れの村が広がった。

 この山城からは、村全体を見渡すことができる。夕焼けがきれいだった。空を渡る鳥の影も映る。

 

 明日、はるは、出立するてる姫の輿入れの御供衆に加わる。だから今夜が村で過ごす最後だ。そう思うと、ここからの景色が、懐かしく愛おしく思えてくる。

 

 てる姫が、敵方である押野城の城主利賀忠興に嫁ぐと決まったのは、半年前の夏の終わり。

 はるには関わりのない、雲の上の出来事でしかなかった。

 

 ところがつい十日ほど前のことだ。御供衆差配役の柴田様が、裏方で走り回るはるのところへ来た。そして水汲みの桶を洗うはるの様子を半刻ほども眺めていたと思うと、言ったのだ。

「姫のお輿入れに同行するように」

 

 はじめ、はるは何を言われているのかわからなかった。御供衆に加わるのは、表方の侍女たちである。自分のような、裏方の、しかも下働きの女が、どうして御供衆に。

 理由は一切聞かされなかった。そもそも、上で決められた差配に、はるが意見を言えようはずもない。

 下働きの女たちは不思議がった。噂では、侍女たちからも文句が出たそうだが、柴田様を前に、誰も表立って口を挟めなかった。

 

 はるのおとうとおかあも、ただただ柴田様が寄越した遣いに平服するばかりだった。

 はるの家は、城の東側に位置する小瀬という名の村のはずれで麦を作っている。

 後ろに山が迫った、午後には日が陰る痩せた土地で家族六人が細々と暮らしている。  

 はるの下には、男の子ばかりが三人。はるが城へ奉公に出たのは、すぐ下の弟がはるの代わりに畑仕事を手伝えるようになったからだ。


 はるは、十四で奉公に出た。去年のことだ。このところ戦で連勝している邑久様が、城の普請を行い、人手が足りなくなった。はるの他にも数十人が、村から新たに雇われている。


――御供衆に加わるように

 城からの達しに、戸惑うばかりだった家族の者たちは、二度目に遣いの者がやって来て持参してきた櫃を目にしたときから、笑顔になってしまった。櫃には、はるの家では見たこともないような贅沢な品が入っていたのだ。はるの支度用ばかりではない。残された家の者たちへと、反物や米があった。


「おまえは果報者だ」

 おとうは涙ぐみそうになるし、おかあも、

「南無ぅ」

と、はるを拝む始末。

 弟たちにいたっては、「はるさま」など真面目な顔で言い始めた。

 

 そうして御供衆に加わると決まってから、十日あまり。

 はるはわずかではあるが、侍女見習いをした。台所仕事だけでなく、今日のような表方に出て、膳を運ぶ仕事もやらされた。

 

 といって、急拵えで、そうそう立派な侍女になれるはずはない。見習いとしてはるが覚えたのは、はるの行いがなってないと、侍女たちにぴしゃりと手の甲を叩かれたとき、平気な顔でやり過ごす術だけだった。

 小さな山城とはいえ、城主邑久は、元は京のほうから流れてきた血筋を受け継ぐと言われ、行儀作法にうるさい侍女たちがいて、しつけと言いながら、あらゆる嫌がらせをしてきた。御供衆に漏れた女たちが殊に酷かった。

 

 行きたくて行くんじゃない。

 

 はるは何度も心の中で叫んだものだ。

 羨望を集めても、褒美が多くても、はるは体を動かし汗を流すほうが好きだ。

 皆が嫌がる水汲みや薪割りが、はるは好きだった。廊下でかしずいて座り続けたり、姫の繕いものを丁寧に仕上げるなど、辛い修行にしか思えない。だがそれだけなら、はるはこうも村を離れるのを辛く思わなかっただろう。

 

 はるには、口には出せないほんとうの理由があった。

 

 ひそかに慕っている八吉(やきち)に会えなくなるからだ。


 八吉は、村の石工だ。臼を作ったり墓石を彫ったりしている。はるよりも二つ年上の、十七。小さい頃から野山で泥んこになって遊んだ仲だ。

 近頃では、棒を使って剣術の真似事をしたり、鼠や兎を追いかけて捕まえたり、千疋川に平たい葉で作った舟を浮かべ、石礫(いしつぶて)を投げて沈めるのを競ってみたりしている。

 

 何をしても、はるはほかの女子よりもうまくできる。いや、女子よりというより、村の小僧たちでも、はるにかなう者はいない。

 そんなはるを、八吉はおもしろがってくれている。遊ぶとき、八吉はいちばんにはるを誘ってくれる。


 そんな八吉に、はるが特別な気持ちを持つようになったのは、ここ一年ばかり前からだろうか。

 はるは八吉と会うとき、剣術の真似事をして遊ぶが、竹刀に見立てた棒が重なり合って、体が近づくと、なぜか頬が火照るようになった。城からの帰り道、八吉の仕事場から姿が見えないと、なんとなく心さびしく思うようになった。

 

 八吉のほうでは、そんなはるの気持ちを知らない。

 御供衆となって村を離れると決まったと告げたときも、

「すげえなあ」

と、手を取って喜んでくれたほどだ。

 

 村を出たら、もう二度と八吉に会えないだろう。姫が離縁でもしない限りは、御供衆は、姫とともに輿入れ先の城で過ごすと決まっている。

 

 その間に、八吉は嫁をもらうだろう。そして、自分は――

 

 その先など考えたこともなかった。村を離れると決まって、初めて八吉への気持ちが、自分でも抑えられないほど強いとわかった。といって、何ができるわけではない。

 自分の気持ちを伝えようとは思わない。伝えたところで、何も変わらないのだ。

 

 はるの気持ちを知ったら、八吉は驚き、困るだろう。

 八吉は気持ちの穏やかな、優しい男だ。

 棒を叩きあっているときも、この頃では少しばかり手加減されているのを感じる。今年になって急に背丈が伸びた八吉は、頭一つほどはるよりも大きい。振りかぶられたとき、若干力を抜いているとわかるのだ。

 

 八吉の顔を見ないでは、村を去れない。

 はるは城から村へ続く道を、まっすぐ家へは向かわないで、八吉の仕事場のあるほうへ進んだ。

 川に沿って行けば、八吉が仕事をしている小屋に着く。

 

 その川は、千疋川といい、遠く飛騨のほうから流れてくる。

 村の真ん中を流れている。川幅は三間ほどで、大きな岩が転がっている急流だ。それでも、ところどころに浅瀬があって、村の者は魚を捕る。

 

 土手の上に上がると、派手な水音がした。笑い声もする。

 

 ふいに、大岩の後ろから、ぬっと人が現れた。

 八吉だった。この寒さの中、褌姿で全身水浸しだ。


「はるぅ」

 八吉の後ろから、八吉より一回り小さな体が飛び出してきた。

 新太だった。八吉の弟分で、この前の春から石工の見習いをしている。まだ十二になったばかりだ。


 跳ねるように水から上がってきた新太が、嬉しそうにはるに纏わりついてきた。

「八吉と競争してたんだ。どっちが早く魚を掴めるか」

「どっちが勝ったの」

「おいらだよ。今日はおいらだ」

 八吉は新太のことを、ほんとうの弟のようにかわいがっている。

 二年前の大水で家が流され、新太は親を亡くしている。もし八吉がいなかったら、新太は村に来る人買いに拐われていただろう。


「今日はもう下がりか?」

 八吉は大声で叫び、近づいてきた。手前の岩にかけてあった手ぬぐいを取り、大きく腕を振るいながら体をこすってやって来る。

「もう帰れって言われたものだから」

「明日だものなあ」

と、ちょっとさびしげな声になる。

 

 そうよ、だから、あんたに会いたかった。

 

 そう言いたいのをこらえ、はるは八吉が着物を着るのを待った。艶のいい赤銅色の背中が眩しい。

 

 抱きついてしまおうか。

 ふと、はるは思った。もう、二度と会えないかもしれないのだ。村の女たちが言っているのを聞いたことがある。

 愛しい男にはすがりつくのがよい。

 だが、すがりつくとは、どうすることなのだ? この背中にしがみつけばいいのだろうか。

 

 知らず知らず顔が火照って、新太に気づかれた。

「どうしたんだよ、はる、顔が赤いぞ」

「なんでもないよ。体を拭いて、早くお帰り」

「いやだ。まだ帰らん」

 八吉が振り向いて、はるの肩を掴んだ。

「おまえとも今日が最後だ」

 心ノ臓が跳ねる思いというのを、はるは初めて知った。村の女たちはよく口にしているが、今、それがわかった。

 跳ねるだけじゃない。苦しい。いや、多分、これが切ないという気持ちだ。

「うん」

と、ようやく頷いて、はるは俯いた。まっすぐこちらを見つめてくる八吉の視線を直視できない。


 肩を掴んだ八吉の手に、力が入った。心ノ蔵は、早鐘を打ち始める。

 傍らで新太が見ているのも気にならなかった。体は動いていないが、気持ちはもう、八吉の胸にしがみついている。

 と、はるの肩が大きく揺さぶられた。


「負けるな、はる」

「え」

「敵の城へ行っても負けるなよ」

「う、うん」

「おらはほかの若い者みたいに、志願して城の雑兵になるつもりはないが」

 がっかりした。八吉なら、どんな戦に行っても負けやしないと思う。村で八吉と喧嘩をして勝てる者はいないのだ。それに、城へ来てくれれば、また会えるようにる。


「最後に俺が稽古をつけてやる」

「あ、ああ」

 稽古というのは、いつもの剣術の真似事だ。

 八吉は傍らの棒を拾った。いつも八吉とはるが使っている竹の棒だ。


 さっと投げられた棒を、はるは受け取った。すぐさま、八吉が挑みかかってくる。

「おいらも入れてくれ」

  上ずった嬉しげな声を上げて、新太も棒を拾った。新太ははるや八吉と剣術ごっこをするのが何より好きだ。


「はっ」

  新太がふいに、はるへ棒を向けた。それを、さっと身を交わして避ける。すぐさま新太はふたたび振りかかってきたが、はるが体を斜めにしたまま棒で払うと、あっけなく新太の棒は飛んでしまった。

「ちぇっ」

「ほらほら、ぼんやりしないで」

「くそぉ」

 新太が棒を拾ってかかってきたが、横から八吉の棒が飛び出て、はるの脇を払おうとする。それをはるは、寸でのところで払い退ける。


「二人で向かってくるとは卑怯ぞ」

 そう言いながらも、はるは素早く二人の棒を受けては払う。


 かちり。


 棒が重なって鋭い音を立てた。

「今日は思い切り向かってこい。こちらも容赦せん」

 一旦棒を掴んでしまうと、はるの中にいつもの闘争心が湧き上がってきた。

 さっきまで胸にひろがっていた甘いやわらかな気持ちは吹き飛び、心がすっと澄んでくる。

 

 はるは脇からの新太の攻撃を払いながら、思い切り八吉に向かっていった。八吉が手加減していないのが、心地いい。


「やっ」


「はっ」


 八吉の棒が振り上げられ、はるは宙返りをして交わした。

「やるな、はる」

「まだまだこれから」


 八吉もはるも、正式な剣術の稽古を受けた経験はない。そもそも村には、剣術を教える道場などないし、石工の倅と百姓女のはるに、剣術の手ほどきが必要だとは誰も思わないだろう。

 だから、自己流だ。

 

 土手を下りて、三人は大きな椨の木(たぶのき)がそびえる神社へ向かった。

 走りながらも、打ち合いは続いた。

 八吉と新太は左右前後に入れ替わり立ち代り、ときには同時にはるに襲いかかる。


「はる、力がついたな」

 八吉の叫び声に、はるは嬉しさがこみ上げた。自分でも、このところ体力がついたように思う。以前は、八吉と駆けると、先に息が切れたが、今は平気だ。むしろ、はるのほうが機敏に動けている。


 神社には人がいなかった。傾いた日が差す境内はしんと静まりかえっている。

 椨の木の下に来ると、はるは棒を捨てて登った。剣術の稽古といっても、所詮は遊びだ。だから、最後は必ず追いかけっこになる。


「待て、はる。木に登るとは卑怯ぞ」

 新太の声をものともせず、はるは着物の裾を端折って結び、脚を出した。足先をかける木のうろは、どこにあるかはわかっている。さささと登り、何度も腰掛けた覚えのある太枝に手をかけた。くるりと体を回して、枝に飛び移る。


「よし、そこまでだ」

 遅れをとった八吉はそう叫んだが、はるは八吉が太枝に手をかけた瞬間、回転をしながら地面に着地した。


「お見事」

 悔しそうに呟いた八吉に、はるは笑顔を返した。

 そして、そのまま、走り出す。

 尻餅をついている新太の脇を通り過ぎ、ついでに新太の頭をぽんと叩く。

「おい、はる、待て」

「はる、待ちやがれ」

 

 はるは振り返らなかった。

 

 お別れだ。

 

 八吉。

 

 さようなら、八吉。

 

 大好きな八吉。

 

 走りながら、はるは泣いていた。

 


 

 







 






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