第3話 山路《やまじ》1

浅草には山谷と呼ばれていた地域がある。(境界となる荒川区の一部も含まれた) 

現在で言えば東浅草の一画にあった呼び名で、そこは独特の匂いが漂う地域であり頻繁に犯罪が繰り広げられていた場所でもあった。 


日々当たり前のように起きる小さな犯罪に対して、警察がまともに介入しようとしなかった曰く付きの場所でもあったといえるだろう。

つまり、そういった人間が集まる場所となっていたのだ。

全身に入れ墨をしている反社あがりや、刑務所を出所したが帰る家の無い者、訳あって家に帰られない者に天涯孤独の人生を送る者、それに、日本で生まれたが国籍の無い外国人も少なくなかった。


現在社会で生きる者のイメージとしては、一般社会とは一線を画した者たちが集まる場所が山谷であり、そこに集まってきた人間を相手に宿泊商売をしていたのがドヤ街ということになるのだが、意外にもこのドヤ街の歴史は想像以上に古い。


これを辿れば江戸時代よりも前まで遡らなければならないのだ。

ドヤ街の発祥を辿っていくと『もともとの呼称は木賃宿』というものであり、最低の賃金で泊まれる繁華街から離れた宿場町の宿を意味していた。

その内容はというと、大部屋で人が歩く隙間も無いほどに布団が敷き詰められているというのがほとんどで、その布団でさえ宿泊客が自身で用意しなければならないというものだったらしい。


もちろん、食事などは付いていない。

食べたければ自分で用意するか、または食材だけ渡して作って貰う。その時にかかる薪台を払うことから木賃宿と呼ばれていたようだ。


これが江戸時代になると吉原の近くということもあり少々異なる使い方をされていたようだが、吉原の消滅後は街道沿いということもあり多くの日雇い労働者たちで賑わうようになっていった。 

『安く泊まれる宿』、その木賃宿の名残を受け継いでいた場所がドヤ街ということになるのだ。


ここで少々話しは変わるが、裕福なバブル後期になるとドヤ街の住人たちを軽侮の目で見る人間が多くなり、それとともに日雇い労働者の衰退が始まるわけだが、どうしても勘違いしてほしくないのでこれだけは強く伝えておきたい。


何を隠そう、戦後の日本を復興した縁の下の力持ちは、このドヤ街から日雇い労働へと赴いていた人達のおかげであると。


人が嫌がるような力仕事や汚れ仕事、命を落としかねない危険な仕事を請け負いながらその日を生き、安い酒に温かいご飯と味噌汁を出す定食屋をその日の楽しみとして命ある限り生き抜こうとした者たちが今日の日本を築いたのだ。

では何故、彼らはそのような生活をしなければならなかったのか?

これは個々に様々な理由があるだろうが、大局からいえば、『戦後の犠牲者』と、いえるだろう。

当時、焼け野原となった東京を復興させるということは0からのスタートではなく、大きなマイナスから始めなければならなかったからだ。


当時の人の嘆きを言い表すならば、このような言葉になるはずだ。

『戦争を切り抜けなんとか生き延びることはできた。……が、食べ物が無い。 雨風をしのぐ寝床もない。 まったく……酷いありさまだ。。。 産まれたばかりの赤ん坊がネズミにかじられるような環境しかこの国には残されてないのか。 ……金は少々ある。。。 しかし、大事に持っていても何の価値もなく、もしろ紙切れ同然だと周りからバカにされる始末。 やんなるかな。。。この国が立ち直るのはいつになるやら』


全てが過酷であり、誰もが生きるためにもがき苦しんでいた時期でもあったのだ。



『国民を救う手立てとして最も有効な方法は何か?』


国の復興を目指す政府が答えを出したのは意外に迅速だったといえる。 

国を復興させるには建設こそが最重要課題であると定めたのだ。 

時代を変えるべく政府は躊躇なく動き出し、これにより大々的な建設時代の扉をこじ開けたのだった。


噂が広まるのは速く、大規模な人員募集が山谷で行われると聞くと瞬く間に集まる人々。


「あそこにいけば仕事がある! 金ももらえるし温かい飯も食える! おまけに安い宿屋も集まっている!」


政府の宣伝効果も手伝ってか、噂は瞬く間に全国へと広がり多くの人間がこの地に足を踏み入れてきた。


そう、彼らが【生きるための術】として選んだのが、山谷で声掛かりのあった日雇い労働への道だったのだ。


『戦後の復興に乗じてもう一度人間らしい生き方をしたい』

これが、当時ドヤ街に集まった人達の紛れの無い本音だろう。


歴史の犠牲者と呼べるかどうかは分からないが、どん底から這い上がろうとして日本の復興に尽力を捧げてきた彼らがいるからこそ、食に溢れ屋根のある家に住み、金が金として機能している現代がある。

したがって、この小説でいうドヤ街の住人や山谷という言葉は決して揶揄やゆを目的としたものではなく、人が生きるとはどういうことかを教えてくれた大切な資料として今後も活用させていだだくこととしたい。


現在ではこの山谷という地名とドヤ街という呼び名はほぼ使われていないが、昔からこの一帯をよく知るご老人達は今でもこの地域のことを山谷と呼び、一泊千円で泊まれるような格安の宿泊所が集う場所をドヤ街と呼んでいる。

それと同時に、こうも嘆いたりする。


『昔は良かった。生きるための活気があった。……それが今はどうだ。。。ここ何年も生きた目をしている奴を見たことがない。』


……なるほど、ご老人が嘆くのも無理のない話しだ。

時代の流れを嫌というほど象徴する町、それが山谷と呼ばれた町なのだから。




そんな町に相反するような目の輝きを放つ1人の若者、竜雅はそこに足を踏み入れていた。



……その日を生きられればそれでいい。 世の中に対して不満は山ほどにある、……が、もはやそんなことを訴える気力も薄れた。 帰る家が……もしかしたらあるかもしれないし、……ないかもしれない。 だが……どっちにしろ帰れない事情がある。 そんな中、ようやくたどり着いた楽園。 ここなら人の目を気にしなくて済む……何故かって?……よく見てみろ。 周りにいる奴らは俺と同じような過去を背負っている者ばかりじゃないか……


この地域に漂う重く澱んだ空気が、どこからともなく心の嘆きを運んでくるようである。

独特の世界感を醸し出しているこの地域は竜雅にとってはまだ見ぬ世界であると同時に、人が生きる上で本当に求められているものがここにあるような気がしてならなかった。


『何故彼らはここに来るのか?』

確証はないが、この疑問を解くことができれば何かが見えてきそうな気がしている。


午後の4時を過ぎようとしている頃、この山谷という地域をを歩いていると何気なく目にしていたものが至る所にあることに気がついた。

【 一泊千円 】

古い木造2階建の家の前にある小さな看板が目につく。

外壁は塗り壁で所々にヒビが入っており、どう見ても古くかび臭そうな一軒家くらいにしか見えないのだが、料金表の下には小さく【テレビ無料・風呂有】と書かれている。


(おそらく宿泊施設だろう)

とは思うのだが、それと同時に、

(こんな値段で人を泊めることなど本当にできるのか?)

と疑ってしまう。


よく注意深くあちこちにある看板を見てみると、宿によって料金がまちまちであることに気がついたのだが、それでも高くても5千円といったところのようだ。


(だいぶ値段に差があるけど、この差は???)


竜雅は若いだけに好奇心が強い。

千円で泊まる者もいれば5千円でも泊まる者がいるとしたならば、この地域でさえも格差社会の波に飲み込まれているのではないかと考えてしまう。


だとしたならば、『この山谷にいながらこれだけの格差を生んでいるものの正体とは一体何なのか?』と、考えずにはいられなくなってきたのが正直なところだろう。


日が沈みかけてくる時間帯になると数台の送迎バスが路肩に停止し、仕事を終えた労働者たちがゾロゾロとバスから降りてきた。


竜雅はその様子をマジマジと観察しだした。

『このバスの中にあの山路はいないのか?』と。




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