後編

 いつもと同じ部屋。ぼくは電話をかける。あかりもつけずに。


 ――とうさん。この間のことだけど。

 ――うん。もう一度、チャンスがほしいんだ。


 ――大丈夫。体調が悪かっただけ。

 ――こんどはうまくできるよ、ちゃんと伝えられる。


 ――できるでしょう、とうさんの力なら。

 ――そう、もういちど。ぼくは目指す。あの場所を。


 ――そうして立派な大人に戻ってみせるよ。とうさんの理想の。

 ――えぇ。もしかして、とうさん。

 ――こわがってるの。


 受話器の向こう側で、ちょっとたじろいだような呻き声が聞こえる。

 しょうじき、ちょっとだけいい気分だったのは、否定しない。

 いずれにせよ、ぼくは変わる。

 ぼくでない何かに。

 そんなことは絶対にありえないんだけど、いまのぼくの背負う影には、しっぽとせびれがあるような、そんな気がした。



 調子を取り戻していくために、もう一度部屋から出るのに、何日も要した。

 そのあいだに何日も過ぎて、季節は回転していった。

 街の装いは早回しされる雲と同じようにくるくると変わっていき、ぼく自身もその変化についていくのに必死だったことをおぼえている。世界情勢がよくなることも、この国の経済が上向きになることも、観測範囲では特になさそうで、結局、がんばるのは自分一人であることを思い知らされた。だけどぼくには、モチベーションがあった。

 背中を押す、強い衝動が。


 だからぼくは医者に会いに行き、現状を伝えた。

 もちろん向こうは心配を寄越してきた、そんなことをすればきっときみはまたプレッシャーに耐えられなくなる、だから勧められないと。

 ああ、なんと優しく、含蓄のあることばだろう。

 ぼくはそれを愛し――同時に、憎んだ。

 忠告ありがとう。

 ぼくはあなたを二度とゆるさない。


 呆然とする彼を置いて部屋を出る。もう、ここにはやってこない。


 さらに多くの時間が流れていく。

 肉体が衰え、精神活動を行える時間が徐々に減っていくのをかんじる。

 それでも、立ち止まらずに前進する。

 スーツを着て、会いたくもない人たちに会って。

 帰宅するとふらふらで、何度もゲロを吐いて。

 酒を痛飲した日もあった。もう何度となく、こんなことはやめようとも考えた。

 だけどぼくは、やめなかった。


 巨獣は見えない。幻影ですら。

 しかし、そのあいだ、ぼくの脳内には、その残像がこびりついている。それがある限り、ぼくは頑張れる。


 ぼくはやれる。また奴と出会えるようになる。

 なぜなら、ぼくが変革の痛みを背負うとき、やつは福音としてあらわれるから。

 だから、どれだけ年月が経っても、なにを犠牲にしようとも、ぼくはそこに行く……!



 そして、いま。

 ぼくは、そこにいた。


 あの時からすでに、少なくない時間が経過して。

 ぼくはもうすっかり、若くなくなっていた。

 あの部屋を引き払って久しい。両親はずいぶんと腰が曲がってしまっていて、会う機会も少なくなってしまった。


 ――ぼくはいま、かつて見上げていた摩天楼のなかにいる。たくさんの人を裏切って失望させて、それでもようやく、かつてのぼくの上位互換にまで、なり上がった。


 仕事は順調で、誰も彼もが、ぼくの復活と変貌に驚いた。もう医師も何も必要ない。

 もう二度と、挫折はしない。今度は、誰の力も借りずにここに来た。プレッシャーに潰されることもない。

 だから、きっとまた会える、あの巨獣に。

 そのためにここに来たのだ、そうでなくては、この十数年間は、一体なんの。



 でも、だけど。

 奴は、現れなかった。どれだけこちらが待っていても、決して。

 慢性的な睡眠不足に悩まされ、精神的に押しつぶされることこそなくなったが、いくつもの処方薬と酒が自分を支えていて、それでも今の、この摩天楼から、街を見下ろしていて。


 ぼくは絶頂に居たはずだ。大きな変化。

 それなのに――やつは、ぼくのいる場所にやってこない。


 苛立った。苛立って、むかついて――憎んで。

 余裕がなくなり、それを、まわりのせいにしはじめていた。


 止める者は誰も居ない。自分で遠ざけていたから。

 なぜだ、なぜだ、ぼくに破壊を見せつけたいんだろう。ぼくの頭に、雨あられという瓦礫を降り注がせたいんだろう、なのに、どうしてお前はやってこない。

 お前が居ないのなら――いったい、この場所に、つめたい青白い蛍光灯の場所に、なんの意味があるというのか。


 ……気付けば周囲に当たり散らし、憐れみと同じ分量の、奇異の目を向けられていた。

 何日も眠れず、夜の街をさまよって、慣れないことをするようになった。


 どうだ、変化だ、来い。

 それでも、航空誘導灯の赤いゆらめきのはざまから、奴が顔をのぞかせることはなく。


 フラストレーションが限界に達したとき、ぼくは、目の前に上司が立っていることに気付いた。

 彼の姿は蜃気楼のようにゆらめいて、像を結ぶことなく、酩酊する視界の中で、何かを言っていた。

 たこみたいな禿げ頭、分厚い重そうなめがね、くちゃくちゃ音を立てる唇。ああイライラする、気持ち悪い、吐き気がする……なんと醜いのだろう。


 彼は言っていたようだ、最近あきらかにきみはおかしい、どうしたのだ、すでに業務に支障が出ているじゃないか、このままでは大きなミスにつながってしまうぞ。


 ――そんなの、関係ない。


 なんといった、今なんと。聞き捨てならないぞ。

 許されることじゃあない。私でなければ、即日クビが飛んでいただろう、とにかく今日はもう帰りなさい、そして頭を冷やして。


 ――帰らない。やつがでてこないんだ。


 おかしなことを言うな、夢を見るのも大概にしろ、きみがいま、見ているものだけが真実だ。これ以上、見えもしないものを見ようとするのは、やめるんだ。


 ――なんといった、あんたいまなんといった。


 何を。


 ――見えないってのは見ようとしないってことだ、それは結局機械の一部になるってことで、死んでるのとおなじだ。ぼくはごめんだ、ぼくは生きて生きて生きてやる。あんたらは悲鳴を上げて下敷きになって、地割れに呑まれてしまえばいい、だけどぼくはいやだ、この足で立って、粟立つ皮膚も、恐怖もだきしめて、やつを見上げてやる。その咆哮に同調して、叫んでやる。ぼくは、やつを、かならず、見つけ出してやる。


 いい加減にしないか、いますぐここから……。


 めがねがとんでいるのが、スローモーションで、見えた。

 たぶん、ぼくはそいつを、目の前にいる、上司らしきそいつを、思いっきり、ぶん殴っていたのだと思う。

 周囲の誰もが驚愕して、何人かは悲鳴を上げていたように思う。


 その時。

 ……何かが、聞こえたような気がして。


 窓の外を、見る、上司が顔を上げて、貴様はクビだ、今すぐ出ていけ、とか、そういうことを叫んでいるような気がする、だけど全部の音が遠くなっていって気にならない。

 とにかく、その、奥の奥の外の世界に見えるものに、ぼくは吸い寄せられている。

 そこに、街の大気の、同じ高さのビルの群れのあいだに。


 ヤツがいる、ように思った。

 一瞬かもしれない。


 でもぼくはそのとき、あのなつかしい足音を、咆哮を、そしてあの巨山のような影を、感じ取ったような気がした。

 

 ぼくのからだは、ひとりでにうごいていた。

 もはやだれも、ぼくをとめることはできない。



 怪獣が暴れまわる時、世界はその存在に恐怖し、それまでの在り方を変えてしまわねばならない。

 逆に言えば、そんなときに奴は現れるのだ。天使、いやもしかしたら荒ぶる神なのかもしれない。

 倦み、疲れた世界に対するカンフル剤。それがぼくの解釈。


 認識を修正しなくちゃならない。

 ぼくの変革ではなく、ぼくの苦痛にやつが現れるのなら、これまでのぼくの苦闘は、すべてこの瞬間のためにあったのかもしれないのだ。


 非常階段をのぼっていく最中、何度も大きな揺れを感じた。

 非常口を示すライトがちかちかと明滅する。

 防火扉の向こうで何人も重なって声がする。

 これが現実かどうかは、やはりどうでもいい。大事なのは、いまぼくが、何を「それ」だと考えているか、だ。

 一段一段あがっていって、てすりを回っていくたび、ぼくはこれまでを回想する。

 上へ、上へのぼりつめていくたび、ぼくは若返っていく気がした。

 さいご、辿り着けば――ぼくは何になっているのだろう。


 わくわく、した。

 ここからは、ぼくにとっての、最初の「未知」だ。



 屋上に上がったとき、見えるものは一変していた。

 街が、炎に包まれていた。

 そして眼前を、あの巨獣が歩いている。

 いたるところでサイレンがとどろいて、黒い煙が分厚い大気のようになって立ち込めている。ヘリコプターの音、誰かの怒号のような通信。

 あらゆる場所に瓦礫が散乱し、床にひびが入っている。

 まるで世界の終わりだった。見知った顔の何人もが、もうすでにこの世にないのかもしれないと想像すると、ちゃんと悲しかった。ぼくは生きている。その状態で、奴に出会うことが出来る。

 ぼくは、唸り声を発して波のような振動をこちらに伝えてくる奴に少しずつ近づきながら、思いのたけをぶつける。


「ぼくは、きみとずっと出会いたかった」


 後ろで、誰かがドアを開けた気がする。

 どうでもいい。


「なんのとりえもないのに、それがあると思い込まされて、空っぽのまま生きてきた、だけど、君があらわれて、すべてがかわったんだ」


 足がすくむ、うまく歩けない。

 だけど、もうすぐだ。

 てすりまで、もうすこし。


「いまなら、ぼくはぼくを肯定できる。だから、どうか――どうか、その顔を見せてくれよ」


 でも、そいつは、顔を見せてくれない。

 怪獣映画みたいに、凶悪な顔かどうかも判然としない。

 そんな悲しいことがあるものか。


「ぼくはもどかしいよ。きみが、こちらをみないなら……ぼくのほうから、行ってやる」


 最後のひとゆれ。

 近くに見えるビルが崩れたのが見えた。尻尾のような部位の直撃を受けたのだ。

 同時に、目の前に亀裂。

 意を決して飛び越えて、着地。そのまま這いずって、手すりに。

 顔を上げて、叫んだ。


「ぼくは――」


 奴が、動きを止めて。

 こちらを、ゆっくりと――……。


「ぼくは、きみに、な――……」


 ぼくは。

 手すりに足をかけて、飛び越えた。


 その瞬間、ぼくは三度目の死を迎えて。


 二度と、戻ってはこなかった。


 それでよかったのかは、分からない。

 でも、もしメッセージが遺せるなら。

 ぼくはこう言っていたことだろう。


 ――とうさん、ぼくは。



 ――ぼくは、

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