中編

 転機になったのは、父と、その仕事上の同僚の方から、ある話を持ち掛けられた時だった。

 それは、父の勤める会社の系列での、いわゆる、在宅勤務のさそいだった。

 現在のぼくの暮らしはといえば、父母からの仕送りと、働いていたときの貯金と、ごくたまにやる、わずかな内職の工賃、国の仕組みによる給付やらなにやらでギリギリ成り立っている。

 いずれそれではまかなえなくなることは明白だった。


 はやり病の影響ではからずも生まれた働き方。

 正規採用なんてのはとうぶん先で、決して大金は稼げないが、ぼくが「社会復帰」をするための最初の一歩としては、悪くない提案だ。

 それどころか、とても素晴らしい誘いだった。ぼくはそれほどまでに心を砕いてくれる父たちに感謝しながら、受け入れた。


 ただ、ネックになることがひとつ。

 どうしても、いちど、会社のほうに顔を出して、いろいろと話をしなければならないということだった。

 そのためには、ぼくはこの灰色の結界から抜け出して、スーツを身にまとい、髪を整えた状態で、人々のなかに混ざっていかなければならないのだ。


 ぼくの心は、その直前になって、不安が多くを占めるようになった。

 本当に、うまくいくのだろうか。

 もし……もし、あの時や、あの時のように。

 これまでの時間のなかでの、さまざまな「失敗」が頭をよぎり、呼吸が荒くなる。

 ――でも、父はぼくに、チャンスをくれたのだ。いま頑張らなくって、どうする。


 頬を叩いて、迷いを振り切って、部屋を出て。

 空は曇っていて、不気味な雷鳴の音が、遠くから聞こえてくる。

 ビニール傘を、途中で買わなきゃいけない。

 顔を上げて、これから向かうことになるビル群のはざまから見えた黒い雲が、あの怪物に一瞬見えたが……それは、気のせいだった。



 長い時間。泥のような時間。

 もはや、何を聞かれて、何をこたえたのか、分からない。


 ただ、最後に告げられたことの内容だけは理解できる。

 ぼくは、その場には相応しくないということだった。


 もっと休養を取ってから、とか、色々な迂遠な言い回しが付与されていたけれど、たたきつけられたのは、ぼくにとっては、戦力外通告のようなもので。

 重い足取りでビルを出たときには、既に雨がざあざあと降っていた。



 けっきょく。ぼくは負けた。

 自分の願いをかなえることができず、父の期待をまた裏切って。

 マンションに帰ればきっと、言い回しに極めて気を遣った、両親のメッセージが届いているだろう。

 それは、直接的な叱責よりもずっと、ぼくの心をえぐることだろう。

 歩みが、にぶい。

 ぼくには、なんの力もない。

 結局、傘を買うことはなかった。

 駆け足でコンビニに寄ることだって出来たはずなのに、ぼくはそうしなかった。

 周りには、雨宿りをしている者や、ダッシュで駆けている者、傘をさして縮こまりながら歩いている者。

 タクシーが跳ねた水しぶきがスラックスを濡らす。

 身体が芯まで冷え切っていく。

 誰もが自分の対処で必死だから、ぬれねずみになっているぼくを気に掛ける者など誰も居ない。

 ぼくは歩く、歩く。負の感情を影のように引きずりながら。


 けっきょく、こうなるのだ。

 多くのひとびとは、長い時間をかけて、優しい世界に包まれて、ゆるやかに自己肯定をはぐくむことが必要だと考えるだろう。

 だけどこれまでぼくにそんな生き方は与えられてこなかったし、これからもきっと知らないままだ。


 だからぼくはこうして、何もかもを投げ捨てたい気持ちを抱えたまま、家路につこうとしている。ひとりぼっちの敗残兵。


 ああ、そうだ。こんなとき。

 こんなときにこそ、あの怪物が現れてほしいのに。

 そうして、みんながおなじ悲劇のるつぼに放り込まれれば、ぼくのささいな悲しみなんて、どうでもよくなってしまうだろう。

 大雨のなかでなら許されるだろうと思って、ぼくはねがった、ねがった。あの怪物が、再び現れてくれることを。


 ただ、ねがった…………。



 雑踏、雑踏。笑い合う人々、そして雨音。

 すべてがぼくに降り注いでいたまさにその時。


 突如、それらを切り裂くように、地面が揺れた。

 みな、姿勢を崩してよろめく。

 視界が少し不安定になり、ぼくもしりもちをつく。

 そして、一瞬で――静寂が支配する。


 誰もぼくを見ていなかった。

 そのかわりに、ゆっくりと顔を上げて、呆然と、ただ、ある方向を見ていた。

 信号も、通行車両のランプすらも、とまっているかのような静けさ。

 また、地面が大きく揺れて、重々しい音を奏でたとき。

 ぼくはその音を待ちわびていたことを、遅れて知覚した。


 皆が顔を上げた先、雨雲の下、黒く塗りつぶされたビル群を押しのけるようにして、やつがあらわれた。

 あの、かいぶつが。

 アスファルトを揺るがして、巨大な裂け目を築き上げながら、緩慢に、しかし確実に、こちらの視界を、占め始めていた。


 その光景に、ぼくが歓喜する、僅か前に。


 誰かが叫んで。

 それを合図にして。

 狂騒が、通りすべてを呑み込み始めた。


 電撃的に身を翻し、悲鳴を上げながら、誰も彼もが走っていく。

 互いを押しのけて、転倒するのもいとわず。

 車道のタクシーのボンネットに乗り上げて、あまりにも唐突な「非現実」からにげていく。

 雨は意に介さず降り注ぎ、そのさわぎを、加速度的に混沌に満ちたものに仕上げていく。

 怪物はじっと、そのさまを見下ろしている。

 秩序のない、小さな取るに足りない者たちによる濁流。

 人工の塔の隙間に蛇のようにのたうつ地面に入り込み、溢れて。

 彼は首と思われる部位をもたげて……しばし、観察したあと。

 さらに一歩、すすんだ。

 ただそれだけで大地は裂け、立ち込めたものに何人も呑み込まれ、見えなくなる。

 だが、止まらない。一歩の差が、在るモノとして、あまりにも大きすぎて、ただ生命としての危機感だけが、皆を走らせていて。


 ぼくは……その様子を、ただ、見ていた、見ていた。

 こわされていく、こわされていく。

 たった今まで、ぼくにとっての脅威となっていた、周囲の視線、音、それらすべてを孕んでいた、「せかい」そのものが。怪物によって、なすすべもなく。


 傍らを人々が流れていき、ぼくは何度も地面に額を打ち付けて、泥まみれになる。     

 痛みはどこかに消えていて、ただ、そこに光が差し込んでいると錯覚できそうなほどに、ひたすらに、怪物に恍惚を注ぐ。


 ああ――やっぱり、そうだ。

 きみがいなくちゃだめだ。

 ぼくを変えてくれるのは、きみだけだ。

 ぼくではぼくを、変えられない。

 だからどうか、何もかもをこわして、別の何かを、違う生き方を、ぼくにもたらしてくれ――……。

 

 怪物が、こちらを見た、気がした。

 背中にしびれがはしって、ぼくは立ち上がり、両手をひきつらせながら伸ばして、何かを受け取るように、彼に向けて。


 だが、そこで、視界が暗くなって、影が大きくなっていることに気付く。

 見上げると……砕かれたビルの、ひときわ大きな瓦礫が、こちらに落ちてきていた。


 ――ちがう。

 ――ちがう、やめてくれ。これからなんだ、ぼくはこれからなのに。


 ――こんなことで、終わりにしないでくれ……!


 そんな思いを無視して、瓦礫は落ちてきて。

 視界はまた暗転し、意識も、同じように途切れた。



 ……目を開けたとき、ぼくは、ビルの自動ドアのすぐ近くに座り込んでいた。

 心配そうに、何人かのスーツ姿の者たちがぼくを見て、そのあと、通り過ぎる。

 誰も手を差し伸べてこない。

 でも……視線の先の街は、雨に濡れ続けていて、青く染まっている。

 ぼくは立ち上がって、時計を見る。

 わずかな時間しか、経っていない。


 ――あれは、まぼろしだった。

 ――だけど、それがなんだというのだろう。

 ぼくは、口の端を少し曲げて、くっくっく、と、声を押し殺して、わらった。

 たのしいきもちだった。


 ある確信を得ていた。

 怪物に、今度こそ確実に、現実のものとして出会えるという確信を。


 見上げる。

 ぼくを先ほど、やんわりと拒絶した摩天楼。

 あの部屋から、ずっと眺めていた場所。


 答えは、そこにあるのだ。

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