中編
転機になったのは、父と、その仕事上の同僚の方から、ある話を持ち掛けられた時だった。
それは、父の勤める会社の系列での、いわゆる、在宅勤務のさそいだった。
現在のぼくの暮らしはといえば、父母からの仕送りと、働いていたときの貯金と、ごくたまにやる、わずかな内職の工賃、国の仕組みによる給付やらなにやらでギリギリ成り立っている。
いずれそれではまかなえなくなることは明白だった。
はやり病の影響ではからずも生まれた働き方。
正規採用なんてのはとうぶん先で、決して大金は稼げないが、ぼくが「社会復帰」をするための最初の一歩としては、悪くない提案だ。
それどころか、とても素晴らしい誘いだった。ぼくはそれほどまでに心を砕いてくれる父たちに感謝しながら、受け入れた。
ただ、ネックになることがひとつ。
どうしても、いちど、会社のほうに顔を出して、いろいろと話をしなければならないということだった。
そのためには、ぼくはこの灰色の結界から抜け出して、スーツを身にまとい、髪を整えた状態で、人々のなかに混ざっていかなければならないのだ。
ぼくの心は、その直前になって、不安が多くを占めるようになった。
本当に、うまくいくのだろうか。
もし……もし、あの時や、あの時のように。
これまでの時間のなかでの、さまざまな「失敗」が頭をよぎり、呼吸が荒くなる。
――でも、父はぼくに、チャンスをくれたのだ。いま頑張らなくって、どうする。
頬を叩いて、迷いを振り切って、部屋を出て。
空は曇っていて、不気味な雷鳴の音が、遠くから聞こえてくる。
ビニール傘を、途中で買わなきゃいけない。
顔を上げて、これから向かうことになるビル群のはざまから見えた黒い雲が、あの怪物に一瞬見えたが……それは、気のせいだった。
◇
長い時間。泥のような時間。
もはや、何を聞かれて、何をこたえたのか、分からない。
ただ、最後に告げられたことの内容だけは理解できる。
ぼくは、その場には相応しくないということだった。
もっと休養を取ってから、とか、色々な迂遠な言い回しが付与されていたけれど、たたきつけられたのは、ぼくにとっては、戦力外通告のようなもので。
重い足取りでビルを出たときには、既に雨がざあざあと降っていた。
◇
けっきょく。ぼくは負けた。
自分の願いをかなえることができず、父の期待をまた裏切って。
マンションに帰ればきっと、言い回しに極めて気を遣った、両親のメッセージが届いているだろう。
それは、直接的な叱責よりもずっと、ぼくの心をえぐることだろう。
歩みが、にぶい。
ぼくには、なんの力もない。
結局、傘を買うことはなかった。
駆け足でコンビニに寄ることだって出来たはずなのに、ぼくはそうしなかった。
周りには、雨宿りをしている者や、ダッシュで駆けている者、傘をさして縮こまりながら歩いている者。
タクシーが跳ねた水しぶきがスラックスを濡らす。
身体が芯まで冷え切っていく。
誰もが自分の対処で必死だから、ぬれねずみになっているぼくを気に掛ける者など誰も居ない。
ぼくは歩く、歩く。負の感情を影のように引きずりながら。
けっきょく、こうなるのだ。
多くのひとびとは、長い時間をかけて、優しい世界に包まれて、ゆるやかに自己肯定をはぐくむことが必要だと考えるだろう。
だけどこれまでぼくにそんな生き方は与えられてこなかったし、これからもきっと知らないままだ。
だからぼくはこうして、何もかもを投げ捨てたい気持ちを抱えたまま、家路につこうとしている。ひとりぼっちの敗残兵。
ああ、そうだ。こんなとき。
こんなときにこそ、あの怪物が現れてほしいのに。
そうして、みんながおなじ悲劇のるつぼに放り込まれれば、ぼくのささいな悲しみなんて、どうでもよくなってしまうだろう。
大雨のなかでなら許されるだろうと思って、ぼくはねがった、ねがった。あの怪物が、再び現れてくれることを。
ただ、ねがった…………。
◇
雑踏、雑踏。笑い合う人々、そして雨音。
すべてがぼくに降り注いでいたまさにその時。
突如、それらを切り裂くように、地面が揺れた。
みな、姿勢を崩してよろめく。
視界が少し不安定になり、ぼくもしりもちをつく。
そして、一瞬で――静寂が支配する。
誰もぼくを見ていなかった。
そのかわりに、ゆっくりと顔を上げて、呆然と、ただ、ある方向を見ていた。
信号も、通行車両のランプすらも、とまっているかのような静けさ。
また、地面が大きく揺れて、重々しい音を奏でたとき。
ぼくはその音を待ちわびていたことを、遅れて知覚した。
皆が顔を上げた先、雨雲の下、黒く塗りつぶされたビル群を押しのけるようにして、やつがあらわれた。
あの、かいぶつが。
アスファルトを揺るがして、巨大な裂け目を築き上げながら、緩慢に、しかし確実に、こちらの視界を、占め始めていた。
その光景に、ぼくが歓喜する、僅か前に。
誰かが叫んで。
それを合図にして。
狂騒が、通りすべてを呑み込み始めた。
電撃的に身を翻し、悲鳴を上げながら、誰も彼もが走っていく。
互いを押しのけて、転倒するのもいとわず。
車道のタクシーのボンネットに乗り上げて、あまりにも唐突な「非現実」からにげていく。
雨は意に介さず降り注ぎ、そのさわぎを、加速度的に混沌に満ちたものに仕上げていく。
怪物はじっと、そのさまを見下ろしている。
秩序のない、小さな取るに足りない者たちによる濁流。
人工の塔の隙間に蛇のようにのたうつ地面に入り込み、溢れて。
彼は首と思われる部位をもたげて……しばし、観察したあと。
さらに一歩、すすんだ。
ただそれだけで大地は裂け、立ち込めたものに何人も呑み込まれ、見えなくなる。
だが、止まらない。一歩の差が、在るモノとして、あまりにも大きすぎて、ただ生命としての危機感だけが、皆を走らせていて。
ぼくは……その様子を、ただ、見ていた、見ていた。
こわされていく、こわされていく。
たった今まで、ぼくにとっての脅威となっていた、周囲の視線、音、それらすべてを孕んでいた、「せかい」そのものが。怪物によって、なすすべもなく。
傍らを人々が流れていき、ぼくは何度も地面に額を打ち付けて、泥まみれになる。
痛みはどこかに消えていて、ただ、そこに光が差し込んでいると錯覚できそうなほどに、ひたすらに、怪物に恍惚を注ぐ。
ああ――やっぱり、そうだ。
きみがいなくちゃだめだ。
ぼくを変えてくれるのは、きみだけだ。
ぼくではぼくを、変えられない。
だからどうか、何もかもをこわして、別の何かを、違う生き方を、ぼくにもたらしてくれ――……。
怪物が、こちらを見た、気がした。
背中にしびれがはしって、ぼくは立ち上がり、両手をひきつらせながら伸ばして、何かを受け取るように、彼に向けて。
だが、そこで、視界が暗くなって、影が大きくなっていることに気付く。
見上げると……砕かれたビルの、ひときわ大きな瓦礫が、こちらに落ちてきていた。
――ちがう。
――ちがう、やめてくれ。これからなんだ、ぼくはこれからなのに。
――こんなことで、終わりにしないでくれ……!
そんな思いを無視して、瓦礫は落ちてきて。
視界はまた暗転し、意識も、同じように途切れた。
◇
……目を開けたとき、ぼくは、ビルの自動ドアのすぐ近くに座り込んでいた。
心配そうに、何人かのスーツ姿の者たちがぼくを見て、そのあと、通り過ぎる。
誰も手を差し伸べてこない。
でも……視線の先の街は、雨に濡れ続けていて、青く染まっている。
ぼくは立ち上がって、時計を見る。
わずかな時間しか、経っていない。
――あれは、まぼろしだった。
――だけど、それがなんだというのだろう。
ぼくは、口の端を少し曲げて、くっくっく、と、声を押し殺して、わらった。
たのしいきもちだった。
ある確信を得ていた。
怪物に、今度こそ確実に、現実のものとして出会えるという確信を。
見上げる。
ぼくを先ほど、やんわりと拒絶した摩天楼。
あの部屋から、ずっと眺めていた場所。
答えは、そこにあるのだ。
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