摩天楼の巨獣
緑茶
前編
朝、頭痛とともに目が覚めると、窓によって四角く切り取られた灰色の空がみえる。
そこにはいつだって天高くそびえる摩天楼が林立していて、ぼくを見下ろしている。
ぼくはいつか、そこにたどりつかねばならないはずだった。
でも今は、どこまでも遠くに見えてしまう。
エリートだった父からのプレッシャーに耐え切れず、必死の思いで入った会社から脱落して、すでにそれなりの期間が過ぎている。
両親は最大限の気遣いをぼくに見せてくれるけど、それは腫物にさわるかのように感じられて、苦痛だった。
かつては憧れ、やがて一度は足を踏み入れた、あの高層ビルの連なりの世界は、いまのぼくにとっては、恨むべき世界でしかなかった。青春のすべてを費やして飛び込んだのに。
その果てが、今の自分か。
理想と現実のギャップ。疲弊した心身。
舌打ちをして、髪の毛をかきまわして、果てのない後悔のなかで、在りし日を回想する。
何もかもが自由だったあの頃から、何が変わったのだろう。選択はすべて、自分の意思でやってきたはずなのに。いったい何が――……。
――父さんも昔、サッカーの選手になりたかった。だけど、それを選ばなかった。選んだのは、お前たちを確実に幸せにするための生き方だった。だからお前も……。
その結果が、これかよ、おやじ。
……ぼくの心の内側にたまっていく、黒い澱。
それは、睨んだ先の、四角い空の果てに注がれる。
ああ、あの高い高い尖塔の群れ。手を伸ばしても、届くことはない。一度目より、二度目のほうが、ずっとずっと難しい。どれだけ焦がれても、決して。
それなら、いっそ。
――それならいっそ、ぜんぶこわれてしまえば、いいのに。
そう思った、次の瞬間、だった。
遠い山なりのような音が、聞こえてきた気がした。
どこから。部屋のなかからか。
スマホのバイブにも、隣人の音漏れにも思えた。
だけど違う。さぐってみて、それが、あろうことか、窓の外から聞こえてきたことが、うっすらわかる。
かつん、ぱらぱら。音がする。
かたかた、かたかた。
折り畳みのテーブルの上に置かれたマグカップ。少し震えている。
真上を見上げると、電灯がちょっと揺れている。
地震か。それにしては、なんだか不規則な気がする。
それに、さっきの音みたいなのは。
ごーーーーーーーーーーーーーーー…………ん。
ひときわ大きな振動が奔った。
それは、部屋を、というよりは地面を伝って、ぼくの身体の芯を貫いたかのような。
なんだか重みのある、まるで大きな鐘のような音。
つづいて、さっきよりも部屋のなかが揺れたことが分かる。
カップが落ちかけている、電灯のふるえの余韻が増している。
さすがにおかしいと思って、窓の外を見た。
目を見開いた。
錯覚かと思った。
遠くにいくほど、空気の影響で景色は霞んで見えるというけれど。
ビルの狭間の灰色がひときわ濃くって、それがひとつの実体で、うごめいていて、明確なかたちをなしているということに、数秒後、遅れて気付く。
怪物、だった。
大山が四肢を持ち、まがまがしい棘をいたるところに生やしたような、怪物。
大昔、テレビでやっていた特撮映画なんかに出てきそうな、でもそれよりもずっと曖昧な、蜃気楼のような姿で、しかし、だからこそ本当だと感じられる怪物が、灰色の空の下、ビルの合間から姿を見せて、どうやら地面を踏みしめて、歩いてくるようだった。
ごーーーーーーーーーーーーーーー……ん。
ごーーーーーーーーーーーーーーー……ん。
それは足音だったらしい。そのたび部屋のなかがゆれて、ベランダの鳥が飛び去っていく。
ぼくが呆然とそれを見ていると、怪物は……「くち」を開き。
また、「咆哮」した。
あの山なりだ。
天に向けての叫びだ。
空気すべてにびりびりと伝播して、窓を貫いて浸透してくる。
きっと多くの人々がいま、これを聞いていることだろう。
この瞬間、街が水を打ったように時間を止めることを想像した。
いつの間にか呼吸が出来なくなっていた。
それはあまりにも巨大で、現実感がない。恐怖がわいてくるには、もっと明確な像を見せられないといけない。
でもそれは、どこまでも抽象的な「怪物」の、「怪物」たるカリカチュアで。次に彼が何をするのかを、ぼくは固唾を飲んで見守っていて。
その巨影が、隣のビルを破壊するのを、はっきりと認識した。
おそらく、腕のような部位を使ったのだろう。
高層ビルの上半分が、ブロックが崩れるみたいに、四角い欠片になって、裂けて、こわれた。
残骸がゆっくりと真下におちていく。
怪物はその余韻の動作で、ゆっくりとからだを元の位置に戻して、続いて。
反対側の、ビルに向けて。
また、その「腕」をふるった。
摩天楼は、面白いほどあっさりと砕け散った。
今度の音は、遠雷みたいだった。
音だけが遅れて聞こえてきて、その頃にはすでに、怪物の左右がずたずたに崩れ去って、もうもうと煙を天に向けて吐きあげている。
無数の黒いなにかが、狂騒を起こしたように周囲に舞っている。
それが、ビルの欠片か、カラスの大群かは分からなかった。
怪物はまた顔を上げて咆哮している。
ぼくはそれを見ていた。
はっきりと、瞳に焼き付けていた。まばたきもせず、呼吸すら止めて。
怪物は、ぼくに応えるかのように前進する。
ごーーーーーーーーーーーーーーー……ん。
咆哮。
また、ビルがこわれる。
いつしか、灰色の摩天楼のはざまからは、黒煙と炎が上がっているようになり。
ぼくの窓の向こうで緩慢なうごきを見せる怪物とくらべて、あまりにも性急に、なにやら救急車両の音みたいなのが、数秒ごとに聞こえ始めていて。
空の色も、なんだかどんどん暗くなっていて。
ぼくの目には、そのただなかにある怪物しか見えなくなっている。
何度も音が響いて、部屋が揺れて。
そのあとには、なにかがこわされている。
ぼくの向かいたかった場所が、いつしか、憎しみの対象になっていたばしょが。
こわされている。
名前も知らない、巨大なナニカに。
――そう、こわして、くれているのだ。
ぼくの唇はつりあがって、心の内側に、ざわざわしたものがわきおこっている。
怪物がさいごに顔をあげて「咆哮」したとき、ぼくはその時の感情に「よろこび」と名前を付けて。
それから先、こちらに向かってきて、ぼくのいる場所もろとも、世界を破壊しつくすことを希求した、まさにその時になって。
――ぼくの意識は暗転し、完全に、断絶した。
◇
目が覚めると、夕方になっている。
あわてて、部屋の周りを見渡す。
しかし、マグカップは元の位置に戻っているし、電灯も揺れていなかった。
ざわついて、窓の外を見た。
変わらない夕暮れがそこにあった。
澄んだ空の下からは車の行き来する音がして、高層ビルはまぶしい光を受けて白く輝いている。
どこも、こわれておらず。
あの怪物の姿もなかった。
あれは夢だったのか。ぼくの暗い衝動が生み出した虚像。
まるで寝る前の中学生みたいな思考だ。
ぼくは舌打ちをして、買い置きの夕食を機械的にむさぼるために立ち上がった。
◇
その、マボロシを見て以来、怪物はいっこうに姿を見せてくれない。
日々は、漫然と過ぎていく。
ぼくが立ち直るめどは、なかなかたっていない。
父は、いろいろ思うところがあったのか、ぼくがやる気さえ出せば、社会に復帰できるようなサポートをいつでもしてくれるつもりらしい。
本当に立派な人だと思う。少なくとも、「毒親」なんかには、当てはまらない、たぶん。
でも、それは同時に、やっぱり心苦しい。
その父の包容力そのものが、なんだかぼくをひどくみじめにする。
ぼくは、父の、ほかの色々な人の恩恵にあずかれるような、立派な人間じゃあない。そこに至っていない。くやしくって、ただただ、みじめだ。
世界はまわり続ける。
そこに、ぼくの入り込める場所はない。
なにかが起きれば、ぼくの隠された力みたいなものがはっきりとわかって、頑張れるのかもしれないけど。現状、そんな様子もなく、ニュースサイトやSNSを使っても、ぼくの見た怪物についてのデータはまるでどこにもない。
でも、だけど。
それであきらめるには、あれは、あまりにも生々しくうつった。
本当に虚像であったと、どこかで信じ切れていない自分がいる。
だからこそぼくは、そんな半端な思いを忘れられるように打ち込めることをさがし、それが見つからなくて、いまも苦しんでいる。
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