セザンヌのりんご

千桐加蓮

セザンヌのりんご

小鈴こすずからじゃん、別れたんじゃないの?」 

 元カノが、模写した絵を見てほしいから、明日の放課後会えないかという趣旨のメッセージが届いた。友人のよーたは机の上に置いていたスマホのメッセージが見えたらしく、ニマニマと笑われる。

 俺は、卒業式まで後一週間の日めくりカレンダーをめくった。

「別れたよ」

「高一の文化祭から付き合ってたから……よく続いたよね」

察してやるよと言った上から目線風の言い方が、『よくそんな時間交際できたね』という風に聞こえて面白くない。

「いろいろあったから」

「ねー、すごい長いじゃん」

 俺の嫌味にも気付かずにケラケラ笑うよーたは、黒板の近くの壁に飾られているカレンダーを見ながら、教卓の椅子と呼ばれている椅子に座った。

「振られたよ」

「えー!? そうなの?」

あんなに仲良かったのにー? と、素でよーたは驚いている。もしくは、高校生の間に恋人が出来なかったのもあり、羨ましいのか、そんな雰囲気が漂っている。

「小鈴、女子から嫌われてたからお前のこと頼りにしてただけじゃないのかなとか思ってたけどな」

 俺は、確かにあまりいい噂を聞かなかったなと思い返して頷く。

「で、会うの? 明日の放課後」

「絵を見るだけなら」

「好きだったけどね、龍空りゅうくと小鈴の二人が恋人として一緒に絵描いてるところ」

俺は、卒業カレンダーの紙を持ったままよーたが座っている席まで近づく。教室には、俺とよーたしかいなかったが、担任のおじいちゃん先生が

佐枝さえだ、卒業カレンダー取り替えてくれて助かった」

と言って、教室の中に入ってきた。

「佐枝は、海洋生命科学部だったか? 進学する学部」

「はい」

「かっこええじゃーん」

担任の先生は陽気にそう返すと、教卓の椅子に座っていたよーたを立たせて、教卓の机の中を確認している。

松居まついは就職か?」

「はい」

「がんばりや」

大阪弁であろうイントネーションで先生はそう言った後、教室の電気を消した。帰るように言って、俺たちの元から去っていった。


 自転車で帰るよーたは、自転車置き場前で俺と別れる前に

「後悔して、いつか後悔しない人間になれればいいな」

よーたは、ニヤリと笑っている。

「龍空と小鈴はお似合いだったからさ。龍空も復縁したいなら小鈴にそう言いな」

肩を抱いてポンポンと軽く叩いてきた。俺は、適当に流して自転車に乗って帰って行くよーたを見送った後、自転車置き場から自分の自転車を引っ張り出して、校門を出た。もうすぐ三月になるが、風は冷たい。小さく身震いをした。


 俺も小鈴も、地元では割と有名だったらしい。毎年中学の美術の授業でやることになっている、秋の芸術展という市の芸術品を飾る建物で一年に一度行われる展示会では、何かしらの賞を毎年取っていたからだろう。

 中学生の時は、お互いの顔も知らなかったため、あまり意識はしていなかったが、同じ高校に入学して、展示会で賞を取っていた人だったことが分かってからは、よく二人セットで扱われた。

 だからか、高校三年生の冬休み前に俺と小鈴が別れたことは割とすぐに噂になった。


 回想に浸りながら、家に帰宅し、小鈴からのメッセージに既読をつけた俺は『いいよ』と返した。


 翌日。冬晴れで、太陽の光が眩しい。

 放課後、周りの人たちに目を向けられないように配慮して、小鈴と隣町のファーストフード店で会うことにした。

 入り口を遠くから見ると、小鈴は既に俺が来るのを待っていた。

 年明け前より髪は少し伸びていて、雰囲気が大人っぽくなっている気がする。

 ブレザーの上から来ているダウンの裾を伸ばしながら、手をグーにしたりパーにしたりしている。

 なんて声をかけるのが正解なんだろうと思いながら、小鈴に近づくと、俺に気付き、軽く会釈をしてきた。

「久しぶり」

 小鈴と知り合ってから、付き合っていた頃の時間の方が長かったため、付き合っていない俺たちの関係は、本当に久しぶりである。

「久しぶり」

小鈴は、小さく笑った。ただ気まずくなるだけなら、この誘いを断った方が良かったのかもしれないなと思った。どこかで期待していた過去の関係を元に戻す話はこの時は無さそうだったから。

 店に入り、入口から一番遠い壁側の席に座る。

「何頼む?」

俺がそう聞くと、小鈴はメニューを見て、少し悩んでいたが、すぐに顔を上げる。

「チーズバーガーセットにポテトのLサイズ」

「じゃあ、俺はアップルパイだけ頼む」

メニューに書いてあるアップルパイの写真を指差した。

「分かった。龍空のも頼んできてあげる。私が誘ったから、奢らせて」

俺が、遠慮の言葉を発する前に、小鈴は席を立ち、小走りでカウンターの方まで行ってしまった。

 追いかけるべきなのか、考え込んだ結果、やめた。 


 小鈴は、宣言通り俺の分のアップルパイとジュースまで買ってきてくれた。

「はい」

「ありがとう」

 俺にそれらを渡した後、すぐ自分の分のチーズバーガーを食べ始めた。

 俺も買ってきてもらったアップルパイを食べて腹を満たすことにする。


 小鈴が食べ終わるのを待ってから俺が話を切り出すことにした。

「で、どうしたの?」

「ちゃんと、絵を見てもらいたいって思ったの」

「いつも見てほしいなんて言わなかったから意外だなって」

「一番、的確なアドバイスもらえそうだったから」

淡々と小鈴は言い、ジュースを一口飲む。

「龍空はさ、私を美化して捉えすぎなんじゃないの?」

「……そうかもしれない」

俺は、肯定することしかできなかった。小鈴の言葉を否定すればするほど傷つけると思ったからだ。

「小鈴は、あの後も絵を描いていたの?」

俺は、話を変えることにした。今一番知りたいことだったからだ。

「うん」

「そっか、美大生になるもんね」

小鈴は、手提げバッグからスケッチブックを取り出そうとしてやめる。

「龍空こそ、絵描いてないの?」

返答がわかっているような感じがした。俺は、躊躇うこともせず

「もう、描かない」

と、言う。一瞬にして空気が重たくなるのを感じた。小鈴を見る。

「そっか」

明らかに無理をして笑っていた。

「なんで描かないの?」

小鈴が俺にそう問う。けれど、理由を話すことができなかった。理由がないわけではない。

 好きじゃなくなった。周りからの期待に応えられる絵を描こうとしなくなり、いつしか大人は俺の絵を流すように見るようになっていることに気付いたから。そんな理由を、絵を描くことに対して情熱を持ち続けている彼女に伝えることができなかった。

「ごめん」

俺が謝ると、小鈴は、「なんで謝るの?」と軽く笑う。

「私ね……絵を描きたいの」

小鈴は、また手提げバッグからスケッチブックを取り出そうとしてやめる。しかし、今度はさっきと違い意を決したような表情だった。そして、俺の顔を見て言う。

「龍空が、私の絵を描く理由をもう一度考えたいって思ったら私に連絡して」

「そうだね」

小鈴は、俺を見ていたのではなく、絵を描いている俺を好きだったんだ。俺が絵を描かないのなら、必要ないと言いようにしか聞こえなくなってきたが、もうどうでもいいことなんだとため息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。

「絵なんだけど、名画を模写したの」

そう言って、小鈴はスケッチブックを開く。油絵用のスケッチブックに、近代絵画の父とも呼ばれているポール・セザンヌの名画、《りんごとナフキン》の模写が置かれた。その横に、印刷機でコピーしたスケッチブックと同じサイズの《りんごとナフキン》の紙を並べる。

「平行に微妙に色彩を変えてるところとか、ポイントを掴めている」

模写を見比べている小鈴は、本当に名画を見ているようで感心していた。

「自然を円筒形、球体、円錐形としてとらえなさい、っていうセザンヌの名言を本で読んだことあるんだけど、それを絵で表現するのが難しかったからやってみた」

俺は、小鈴の話を聞いて「なるほどね」と相槌を打つ。

「そのセザンヌの言葉通りに描いているね」

「でも、私やっぱり絵は苦手だなって再認識したかな。模写している最中は上手くいってると思うのに……実際に描いていると全然違うから……」

「そう」

 セザンヌは、小説家の親友に友情の証としてりんごを贈ったというエピソードを中学生の時に、美術の先生から聞いたことがあったなと思い出した。

 また、彼にとってりんごは実験の道具で試行錯誤するには最適な素材だったとも聞いたことがある。

 今では、どうせならアダムとイブみたいに食べちゃえば良かったなんていう残酷な考えをするような高校生になった。

「セザンヌの『自然を円筒形、球体、円錐形』で捉えるっていうのは、絵として美しいと思うし、名言だと思うけど小鈴の言いたいことは少し違う気がする」

俺がそう言うと、小鈴はコクンと頷いた。

「私が言いたいのは……《りんごとナフキン》みたいに色とか形っていうものは、同じ作品であっても人の手によって違うってことを言いたかった」

俺は、黙って頷いた。セザンヌの描くりんごの意味を俺が知っていると確信していて、面白がっているのだろう。小鈴の顔をチラリと見る。

 小鈴と付き合っていた時には分からなかった、小鈴の裏が見えた。


 別れ際に、さらっと嫌味を吐いた。

「りんご一つで楽園から追放されるような俺を見て楽しいか?」

この質問は、純粋に気になっていたことでもあった。ここまで俺や描いた絵を見ていてくれた小鈴が、俺と付き合っている間に何かを見出してくれていたらと純粋に思ったから。

「面白くないよ、正直言って。だけど、龍空の見る世界は、きっとこれからどんどん広がっていくんだって思ったら嬉しい」

そう言ってくれたのが嬉しかった反面辛かった。

 俺は別れを決断できた。

「さようなら」

 小鈴は、ニヤッと笑った。

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