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玉藻、と声をかけると女は自らの手で目隠しとなっていた布を外し、ふらつく足で地に立った。支えようと伸ばした幸久の手をやんわりと退け、淵の方にゆっくりではあるが一歩ずつ近づいていく。
それにしても玉藻は何故、また淵に連れて行ってくれなどと強請ったのだろう。こんな場所、いい思い出も何もあるはずがないのに。
幸久は、離れたところから淵へ近づく玉藻を見ていたが――あることに気付いた。
ぶく、と淵の中央から大きな泡が沸き上がった。ごぼり、ぶくりと水面が激しく泡立ち始める。
「玉藻!」
戻ってこい!
幸久は叫んだが玉藻は何のためらいもなく浅瀬をざばざばと歩き始めた。
深く深く――濃紅の水の中に何の躊躇いもなく身を沈ませていくさまは異様でさえあった。
ずずず、と地響きがし始めてそのとき淵全体が大きく揺れた。
淵の中心がぼこりと盛り上がったかと思えば、その周りから滝のように水流が流れ出た。
――何かが来る。
なんとか逃れようと走りかけて転んだ幸久は、淵に呑み込まれようとしている玉藻の姿を見開いた眼で捉えていた。
「う……あ、あぁ……」
玉藻の姿に、青白く濡れた紗代子の死に顔が重なる。
水を吸って見る影もないほどに膨張した顔。
しきりに喚き立て化生だ、異形だと蔑み続けた玉藻とは、比べものにならないほどに醜悪でおぞましかった。思い出しただけで口のところまですっぱいものがこみ上げてくる。
激しく揺れ動いた淵から、濃灰色の影がずずず、とあらわれ出た。
立ち込める靄で姿かたちはよく見えはしないが、いままで目にしたことがないほどに巨大な物体であることだけは確かだった。
『玉藻――』
水面を震わせて声が響く。呼ばれた娘の半身は深紅の水の中にちゃぷりと浸かっていていまにも波に攫われそうだった。
頭ではいますぐにでも救いあげてやらなくてはと考えているのに足が動かなかった。
玉藻を淵の崖から突き落としていたあのときとは、まるで逆だった。
勝手に手が動いて、落ちていく娘の呆然とした顔が脳裏に焼き付いて離れなくて。
だが――いまは、恍惚とした表情さえ浮かべている彼女を前に、足が根を張ったようになっている。
何が起きているのかわからないのに、おぞましいものがいまから始まるのだという予感だけはあった。
そしてその予感は当然のように外れなかった。
霞んでいた視界が晴れる。
そこには水を割って現れた巨大な蛇が、鎌首をもたげているのが見えた。
血に染まった淵の水を浴びて、青白い鱗の肌をぬらぬらと赤く輝かせた大蛇が大きな口を開いている。
そして次の瞬間、娘をひと飲みにした。
「あ、ああ、あああああああっ!」
淵を震わすような悲鳴が自分の口からこぼれ出ているとは幸久は気づくことなく、いつの間にか気を失っていた。
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