38
ずるずる。
ずるずるずるずるずる。何かが這いまわる音が響いている。
深淵の闇の中に潜む黄金色の双眸が、ぐったりと倒れ伏している娘のまわりを這いずっている。
『玉藻』
名前を呼ぶ。
淡々としているのにどこか情が滲んだ声。
涼やかな目元が「誰か」を思い起こさせた。
頭の中が白く霞がかかったようになって、なにもかもが判然としない。自分の名前が玉藻だということだけがようやく、その呼び声で気づいたくらいだった。
ずるずるずるずるずるずる。
這いまわる何かが玉藻に近づいて来る。
ひんやりとつめたい鱗の感触が肌に触れて心地が好かった。しゅるりしゅるりと長い尾が玉藻の身体に巻き付いたときも、不思議と恐怖は感じなかった。
むしろ安堵さえおぼえている。優しく締め付けるこの圧も、息苦しくはないように加減されていてほっとするのだ。
あなたは――誰。
思い出したいのに、思い出せない。
玉藻、と呼ぶこの甘く切ない響きには確かに憶えがあるのに。なにもかもが懐かしくてたまらないのに。
自分の中心にあった大切な「何か」がどこかに消え去ってしまったかのようで、とても苦しい。
『玉藻』
もうやめて、呼ばないで。玉藻は頭を振った。
これ以上、名前を呼ばれたら恋しくて恋しくて胸が破れてしまいそうだ。
心臓が潰れて血が流れて、早く早くあなたに会いたいと叫びだす。
『待っていてくれ、あと少しだ』
聞き分けのない子供を言い聞かせるようにあのひとの穏やかな声音が耳朶に響いた。
思わずすなおに頷いてしまいそうになる。いやだいやだと駄々を捏ねて甘やかされたいのに、いい子でいたいとつい思ってしまう。
あなたは誰。
どうして私をそんなふうに変えてしまうの、と悲鳴にも似た声が玉藻の唇から漏れた。何も感じなければ何も考えられなければ楽だったのに。
どうして。どうして私に「私」を取り戻させようとするの、と泣きじゃくりながら訴えた。
『じきに全てが終わる』
宥めるようなその声に、玉藻は目を閉じて艶やかな青銀の鱗に頬をすり寄せた。
口づけの代わりに細長い舌が唇をちろちろと舐める。その濡れた感触さえも心地好くて愛おしくてたまらなかった。
――天青、さま。
ようやく思い出した彼の名を呼ぶと、青銀の鱗を持つ大蛇が玉藻の身体をもう二度と離すまいとばかりにぎゅうと強く締め付けてきた。
苦しいのにやわらかいこの力加減にうっとりしていると、天青は腹にずんと響くような低い声で囁いた。
『愛している、玉藻』
ええ、私も。そう答える声に嘘偽りなどなかった。
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