37


 幸久は人が変わってしまった、そう言われるようになってしばらく経った頃――水津ヶ淵が真っ赤に染まった。


 紅い朽葉が浮かんでそうなったのではなく、水自体の色が変わったのだ。


 そのようすを見て【風花の里】の者たちは、蛟様が死んでしまったのではと噂した。紅く染まりこぽりこぽりと湧き上がるようにあふれ出る血のような水は、ぬるりとしていてどこか生臭かった。


「はは、はははははは……!」


 紅く染まった淵を断崖から見下ろしていた幸久の哄笑が響きわたった。

 これでなにもかも終いだ、過去の倣いにばかり固執する里長たちも考えを変えるに違いない。自分の考えこそが正しかった、と示す好機だ。


 古き神は死んだ――! これからは新しい時代が訪れるのだ、とそのときの幸久は信じて疑わなかった。


「……玉藻、蛟は死んだよ」


 邸に戻り奥座敷まで一目散に駆けていくと、ぐったりとした娘を掻き抱き、うっとりとした表情で幸久は囁いた。


「死……ん、だ……?」

「もうあれはどこにもいないということだ! もうおまえが怯えることは何もない、安心してくれ」


 虚ろな瞳から零れた涙がほろりと頬を伝った。幸久はとめどなく涙を流す玉藻を搔き抱いて、背中に回した腕に力を込めた。

 ようやく終わったのだ、と思った。

 ようやく愛する娘を心身ともに手に入れることが出来ると疑いもしなかった。


 このときまでは。



「幸久さま!」

「なんだ騒々しい」


 下女が部屋の前で大声で主人を呼んだ。

 もうこの邸はすべて幸久の言いなりだった。老いた父はもう死を待つばかりで、里の仕事も何もかもが幸久の采配で動いている。里長は見栄っ張りの阿呆だから、うまいこと転がしていればすべて言いなりになってくれる。嫁として押し付けられそうになっている紗代子の扱いには手を焼いていたが、表向きの妻として迎えることはやぶさかではなかった。

 本当に、この身が欲しているのは玉藻だけだ。


「紗代子さまが水津ヶ淵で身投げをした、と……」

「なんだと――?」


 幸久は舌打ちした。また厄介なことを、と歯噛みしたくもなる。どうせ口ばかりの女だ、本当にしたかどうかも怪しい。そんなふうに触れ回ることで自分に注目を集めて物事の中心になりたがる紗代子の悪癖である。子供の時分からすこし指を針で突いたくらいで大怪我をしたと大騒ぎしたり、どこかで落とした小物を盗まれたと言って犯人探しをするように仕向けたりした。


 だからどうせ、今回も同じだろうと考えていたのだった。


 ぷかりぷかりと真っ赤に染まった水面にだらりと力の抜けた肢体が投げ出されている。里長のしわがれた喚き声が水津ヶ淵に響き渡る。見物に来た里人たちがこれは淵神様の祟りなのでは、と囁き合うのを幸久は睨みつけた。


「蛟など最初からいなかったのだ! 紗代子が死んだのはどうせ事故だろう。自分から飛び込むような性格じゃあない」


 赤く染まった淵はまるで紗代子の流した血を啜ったかのようにさらに、濃さと濁りを増して淀んでいたのだった。

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