35
「玉藻は綺麗な髪をしているね」
幸久は手ずから玉藻の髪を櫛で梳いた。
夜色に染められた玉藻の漆黒の髪が息を呑むほどに美しい、とびきりの美人だとしきりに口にする。
そして怪我をしているからといって布で玉藻の目をぐるぐる巻きにして何も見えないようにしていた。
突然連れ帰った何者とも知れぬ娘を、宝物のように扱い始めた幸久に女中たちは気味悪がった。まるで人形遊びでもするかのように着物を着せ替えるなどしたがる幸久を見て、ああ、幸久様は壊れてしまったのだわとさかんに噂した。
幸久の父である組頭は病んで、隠居をしていた。
いまとなっては布団から出ることはかなわず、次期組頭はおそらく幸久が引き継ぐことになるのだろうと言われていた。ただ近頃の異様な行動を見るにそのまま役を務められるかは定かではないと屋敷内ではもっぱらの噂だった。
「幸久様、紗代子様がおいでになっていますが」
「……帰ってもらって」
「で、ですが」
ばたばたばたと忙しない足音が廊下に響き渡る。
奥の間には誰も入れるな、と幸久が命じていたのだが止めることは出来なかったのだろう。いけません、おやめくださいと悲鳴のような女中たちの声が上がる。
制止を無視してずかずかと室内に入り込んで来た紗代子に幸久は冷ややかな視線を向けた。
「紗代子……何しに来たんだ」
「幸久様っ、なんなのですかこの部屋は! 悪趣味な……この娘ですね、貴方をおかしくしてしまったのはっ!」
玉藻に掴みかかろうとした紗代子を女中は止めようとしたが間に合わなかった。艶やかな漆黒に染まった女の黒髪を引っ張り紗代子は泣き喚く。
髪が引きつれ痛みをおぼえたが、声が出なかった。
「この気味の悪い女が色目を使って――きゃっ」
どん、と大きな音がした。
玉藻がきょろきょろと不安げに頭を動かすので、幸久は大丈夫だよと髪を撫でて宥めてやる。いきなり突き飛ばされた紗代子は茫然とその光景を見ていた。
「どうしてしまったの……あなた、おかしいわ」
よろよろと立ち上がった紗代子は、玉藻を庇うようにしている幸久を見下ろして言った。
「おかしくなんてないさ。これが本当の自分だと心から思っている――ずっと前から紗代子、おまえのことは大嫌いだったよ。反吐が出るほどにね」
「っ……! 幸久、さま? 嘘でしょう、こんなどこの者とも知れぬ娘にそそのかされて……ひっ」
ぎろりと婚約者から鋭く睨まれ、紗代子はふたたびしりもちをつきそうになった。こんなのってないわ、と叫びながら逃げるように部屋を後にした。
紗代子からさっさと視線を外してしまうと、幸久はうっとりとした表情で玉藻を撫でさすった。
この世にたったひとりの愛しい女を。
「おまえたちも早く出ていけ」
「……かしこまりました」
女中たちはまた噂した。その噂が屋敷の外に漏れるのも時間の問題だろう。
若旦那様は、おかしくなられてしまった。
あのどこぞのものとも知れない妖しげな女に惑わされ――狂わされて。
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