第2話 可愛い嫁があったかいご飯を作って出迎えてくれる

 映画館でのバイトを終えて家路につくのは、だいたいいつも二十一時過ぎ。

 大船駅から歩いて五分のところにあるマンションのエレベーターを昇り、七階に降り立つときの緊張感には、この生活がはじまって一か月が経った今でも慣れることができずにいる。

 それどころか、本当にこれが現実なのか疑わしくさえなってくる。


「宝くじに当たったヤツもこんな感覚なのかね……」


 最奥の部屋の扉まで続く長い廊下を歩きながら、こうやってうなり声をこぼすのも毎度のことだ。


 そうこうしているうちに、七〇七号室の扉の前に辿りついた。

 一ヶ月前までは鍵を使って自分で開けていた扉のインターホンを鳴らす。

 すぐに『はーい、いま開けるね』という可愛らしい声が聞こえてきた。


 自分で開ける扉は重く冷たい音を立てるのに、家にいて迎えてくれる人が開ける扉の音は、どうしてこうも暖かく響くのだろう。

 私服姿にエプロンをつけた状態で扉を開いた花江りこは、俺を見るなり照れくさそうにニコッと笑った。


「湊人くん、おかえりなさい……!」

「た、ただいま」

「このやりとり、まだ照れちゃうね……」

「あ、うん。だな」


 ぎこちなく答えた俺の手から、花江りこが鞄を抜き取る。

 昭和の亭主関白じゃあるまいし、自分で持つと言っても彼女は全然聞いてくれなくて、いつもなぜだかうれしそうに俺の鞄を受け取り、両手で抱きしめるようにしてリビングのソファーまで運んでくれるのだ。

 申し訳ないから持たせるのは悪いと思うんだけど、その仕草があまりに可愛くて、結局あまり強く言えない俺がいる。


「ちょうどごはんができたところだよ。お風呂の準備もできてるけど、先に入ってくる……?」


 室内の明かり、漂ってくるおいしそうな揚げ物の匂い、何よりも少し頬を染めた花江りこの可愛すぎる笑顔。

 ここまで幸せな新婚生活を与えられてしまったら、これが現実か疑いたくもなるだろう。


「湊人くん?」

「あ、ご、ごめん。ぼーっとしてた。飯、ありがとう。せっかくだから先にもらうよ。もしかしてこの匂いって唐揚げ?」

「うん、湊人くんの好物だから……。よろこんでもらえるかなと思って……」


 エプロンの裾を指先でいじりながら、呟くような小声で言う。

 その仕草のいじらしさが俺にとってはえらいツボで、胸のあたりがギュッと痛くなった。

 しかも「よろこんでもらえるかなと思って」って……!

 こんなこと美少女に言われて、ときめかない男なんているか? いや、絶対いない。


 ……あれ、でも変だな。


「俺、唐揚げが好きだって話したっけ?」

「……! き、聞いた……と思う」


 花江りこはなぜだか慌てているような態度で、さっと視線を逸らした。


 自分のことを話すのが苦手なので、好き嫌いについて説明するのも俺にとってはかなりハードルが高い。

 でも花江りこが知っているということは、なんらかの会話の中でとっさに口にしたのだろう。

 この一か月、間を持たせるために、俺らしくもなく饒舌にしゃべってしまったことが何度かあったから、思い当たる節はあった。


 でもそんな雑談の中で俺が口にした好物をちゃんと覚えてくれていたなんて。

 正直めちゃくちゃうれしい。

 ありがとうと伝えたいが、でも間が開きすぎたか……?


 花江りこはリビングに向かう俺の半歩後ろを、黙ったままついてきている。

 パタパタパタと歩幅の狭さを感じさせるスリッパの音をたてて。

 絶対に本人には言えないんだけど、俺の後ろを一生懸命ついてきてる感じがものすごく小型犬っぽい。

 チワワとかトイプードルとかそういう類の。


 振り返って様子を伺う勇気はなく、結局俺はお礼を伝えられないままリビングの扉を開いた。

 家庭の暖かさを感じさせる匂いが、玄関をあけたときよりもっと優しく俺を包み込んでくれた。

 こんなの、地味で目立たない陰キャな男子高生の俺には、身の丈にあわない幸せすぎる……!


 リビングの入り口に棒立ちになったままの俺を、鞄を持った花江りこが不思議そうに見上げてくる。


「……もしかしてまた、『これ現実じゃないかも』って思ってる……?」


 ごまかしてもしょうがないから頷くと、花江りこはちょっぴり唇を尖らせた。


「もう……。私の旦那様は、いつになったら私をちゃんとお嫁さんだって認めてくれるんだろ……」


 拗ね顔も可愛すぎる花江りこを前に、俺はたじろぎまくった。


 そう言われても、あの信じられない逆プロポーズを受けた日から今日まで、起こる出来事のすべてが夢物語のようなのだから仕方ない。

 そう思った瞬間、すべてのきっかけとなったあの日の記憶がまざまざと蘇ってきた。

 逆プロポーズを受けた日、それは今年の一月の話だ――。

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