第4話 手毬唄

 ひとぉつ、ふたぁつ、みぃっつ、よぉっつ―――通りから幼子の声がする。じわじわと蝕まれるような暑さの中でその声を聴いていた。


     ***


 夜半過ぎ、熱を出した。

 少し風邪気味だったけれど、大したことはないと過信したのがいけなかったのだろう。今日は早めに寝てしまおうと布団に入ったまでは良かったが、そこからがどうにもいけなかった。

 古い木造一軒家はどこもかしこも建付けが悪く、彼方此方あちらこちらに隙間があった。年中敷きっぱなしの万年床は薄く、寝返りを打てば畳がぎしと軋むのだ。横を向いて寝れば肩がぐいと巻き込まれ、上を向いて寝れば胸の辺りがスカスカと落ち着かない。咳が出るでもなく、息ができないというでもない。が、息をするがないような、吸った空気がどこが違うところへ抜け出ているような、そんな不安に襲われる。

 しようのないまま上を向いて、ぼんやりとした豆電球の、何とも言えず薄暗いオレンジ色の明かりの中で天井を眺めていた。

 板張りの天井の木目が、ぐにゃり、ぐにゃりと、形を変えている。

 持ち上げるのもやっとの思いで腕を上げ、額に乗せたタオルの折り目を裏返し、ぴたりと額に乗せ直す。

 ひんやりと心地良く感じたのも一瞬のこと。

 すぐに自前の熱で温まったそれが、べったりと額を覆う。

 木目の中心から誰かに覗かれているような、そんな不安がせり上がって、鳩尾みぞおちからむかむかとする何かが這い上がってくる。ぞわり、ぞわり、と進むたびに総毛だつ。

 堪らずに、顔を横に向けた。

 ずり落ちたタオルもそのままに、視線はふらふらと彷徨う。障子のさんも襖もどこかしらがあって落ち着かない。豆電球の明かりは変わらず頼りなく、不安からなのか、目の疲れからなのか、熱のせいなのか、じわりじわりと明滅しているように感じた。

 その明滅に合わせるように、どこか遠くから声がする。

 ひとぉつ、ふたぁつ、みぃっつ、よぉっつ、いつぅつ、むぅっつ、ななぁつ、やぁっつ、ここのつ、とお。

 幼い、幼い子供の、声がする。

 一番はじめは一宮、二また日光中宮寺、三また佐倉の惣五郎―――子供特有の澄んだ声で歌われるのは手毬唄の類だろう。聞き覚えのあるような、無いような、数え歌にはよくある節回しで唄は続いている。

 よくよく考えれば、こんな夜更けに手毬唄など可笑しな話である。

 だが熱のせいもあって不思議と怖い気はしなかった。

 トン、トン、と調子良く撞かれる毬の音と、澄んだ歌声が心地良い。

 とおで東京心願寺―――トントトン、と毬が弾んだ音がした。チリンと鈴のような音も響いて、それがいつまでも耳に残る。唄には続きがあったはずだが、どこか表の通りから聞こえるようなそれはまた、一番はじめは一宮、と調子良く毬を弾ませながら歌い出す。

 その障子の隙間の、ほんの僅かに見える先。

 そこから、毬遊びをする子供が見えるような気がするのに、隙間がぐにゃり、ぐにゃりと歪んで見えるだけだ。

 寝返りすら億劫な程に疲れた体は布団にくるまっているはずだというのに、ベルトコンベアか何かで運ばれているかのような気分になる。

 トントンと調子の良い毬の音と、澄んだ子供の声が徐々に遠のき―――気が付けば、すっかりと朝を迎えていた。


     ***


 じわじわと煩い程に蝉の声が響く。

 相も変わらず建付けの悪い障子をえいやと開けて、歩けば軋む縁側にどっかりと腰を下ろした。箍の緩んだガタのきた手洗に水を張って、そこに世話焼きが寄越した西瓜をざぶりと落とす。

 手入れも何もない野放図の庭は良い塩梅に木陰になっている。

 伸び放題に枝を伸ばした庭の木は、梅だったか、枇杷だったか、土いじりなどまるで興味のない私にはトンと分からず仕舞いである。

 チリンチリン、と涼し気な音を鳴らして、どこからともなく三毛猫が擦り寄った。

 盛大に喉を鳴らして、大層ご機嫌な様子だ。

「なんだい。西瓜でも食べたいのかね」

 そう問うてみると、猫はまさに猫なで声で「にゃあん」とひとつ、鳴いてみせた。

「そうかい、そうかい。朝餉の後で切るとしようか」

 くつくつと笑いを噛んで、そう答えた。

 チリン、と猫の首につけた鈴が涼し気に鳴った。

 手毬唄の合間に聞こえた鈴の音と良く似ている―――そんなことを思いながら、そんなまさかと自分を笑った。

 熱はすっかりと下がり、体の気怠さも午後には抜けるだろう。

「一番はじめは一宮、二また日光中宮寺」

 じわじわと煩い程に蝉の声が響く庭で、幾分調子外れに口ずさんだ。

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