第3話 狂気の狭間
ガタガタガタ!と頭が揺れた。
不随意のそれは発作だ。
遠のきかけていた意識が一瞬で現実に引っ張り出されて目を覚ます。
早鐘のように打つ心臓と、肩で息をするとは正にこのことと言わんばかりに大きく動く胸郭、自分でも驚く程にぜえぜえと大きな呼吸音がした。過呼吸一歩手前の、酷い有り様。それを何とか落ち着けて、枕元のスマホに手を伸ばした。
3:34
いくらも経っていない。
真冬だと言うのに寝苦しく、布団を肩まで被っていられない。エアコンを切ってあるにもかかわらず、だ。逆上せたような、火照ったような、胡乱で曖昧で不確かな、まるで脳症にでもなったかのような意識は周囲の世界を正確に認識できずにいる。
枕に押し付けた耳から、街の雑踏が聞こえる。知らない音楽がその街の通りから流れて、ざわざわざわと大勢の人が話しているような、そんな音が聞こえる。
堪らず、仰向けになった。
静まり返った部屋で、空気の流れる音がする。サアアアアアアと軽いノイズのようなその音を聞いている間は、雑踏の音や音楽は聞こえない。
だからやはり、あれは幻聴なのだ。
ボワボワとしたくぐもった人の声が、何かを話している。語尾だけを、或いは途中の単語だけを辛うじて拾える、そんな声だ。
何かを談笑している。
自分の知らない言語で。
酷く背中が傷んだ。骨が痛む。疼くような痛みに、また寝返りを打って横向きになる。枕に押し付けた耳から雑踏の音が再び流れて、意味もなく涙が溢れ、堰き止められずに零れて吸い込まれていく。悲しい訳では決してない。怖い訳でも。淡々と、ただ泣いている。
恐ろしく、狂っている。
眠ろうとしてはみるけれど、横たえているはずなのに、足元の水面が轟々と渦を巻く。そうかと思えば不規則に泡立って、荒々しい波になる。
その上に、立っている。
無数の人混みが水面を流れるように過ぎていく。ここに立ち尽くす自分だけを置いて、残して、過ぎていく。轟々と音がした。これが現実の音ではないと解っている。けれど、轟々と音が聞こえる。
過ぎ去る人混みはどれも顔がなく、のっぺりとした人形の素のようだ。或いは造りかけの塑像のような。いびつに歪んだ手足をカタカタと動かして、彼らは水面を滑るように流れていく。
ああ、厭だーーーと顔を背けたくなる。見たくない、もう何も。拒絶を叫ぶ声も出ずに、正常に立っているはずなのに、天地がひっくり返っているような、それでいてベッドで横になって、仰向けに、横向けになっているような、そして浮いていて、けれども沈んでいくような、全ての感覚が同時に存在する。
まるで量子力学だと嗤う。
これが、実質、何かの薬の所為ならばいっそ正常と言えるのだろう。
だが残念ながら、ぐだぐだと思考の迷宮を彷徨い歩いた結果、自らの領域に半ば囚われるようにして見ている光景だ。
正しく、正常に狂ってる。
同時に存在し得る別々の次元の自分の感覚を、一緒くたに混ぜている。
乾いた嗤いがケタケタと響く。が、それも何処か他の自分なのだろう。
寒いはずなのに寝苦しく、寝返りを打つ度に酷く背中が痛む。じくじくとした痛みを抱えて、声を出すこともできずにいる自分が、この自分だ。
轟々と、耳元で音がする。
捻くれた不気味な人形の雑踏が、泡立つ水面を滑っていく。
置き去りにされたまま、ただそれを眺めて。
不意に、凪いだ。
あれ程煩かった音が消え、人形達が遥か向こうへと遠のく。泡立っていた、或いは渦巻いて、或いは波立っていた水面は、まるで鏡のように滑らかで静かだ。
美しい青色の、果ての果てまで続くかのように見える、その先まで、ひとつの乱れもなく透き通って、鏡面のように凪いだ水。そこに立ち、空を見上げた。
何も存在しない虚空が在る。
眠っている私と、眠ろうとしている私が、ありとあらゆる可能性の私が同時に存在し、そして同時にどこにも存在しない。
もう、やめて欲しい。そんなもの人間の感覚では理解ができない。
否、理解したい。
この先の何かを。凪いだ瞬間の、その先に何が在るのか。人の枠組みを飛び越えて理解できる何かを掴めるのだとしたら、その先に、何が視えるというのか。
ガタガタガタ!と頭が揺れた。
足先が暴れるように跳ねる。
不随意のそれは痙攣発作だ。
早鐘のように打つ心臓と、大きく動く胸郭、肩で息をしながら、必死に今「視た」光景を頭の中で反芻する。繰り返し、繰り返し、定着させていく。極めて冷静に意識を集中させ、記憶を固定化する作業を実行する。
この一瞬だけは、紛れもなく正常なのだ。まるで凪いだ鏡面の水のように、不安も怖れも悩みも迷いも、全てが綺麗に消失する。
否、やはり正常ではないのかもしれない。
狂気と狂気の狭間、ほんの短いその時間を「正常なのだ」と思い込んでいる……ただそれだけなのかもしれない。
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