第9話 祭の夜のこと。

 だから名を呼んではいけないと、あれ程言い含めておいたのに。

 悲し気に笑う君の顔がふわりと透けて、伸ばした指先からカランカランと面が落ちた。


     ***


 祭は嫌いだ。

 訳もなく騒いで、皆が楽し気に陽気に踊る。

 いつもは寂れた小さな神社が、その日ばかりは盛大に賑わいを見せる。さして大きくもない町内の、一体どこにこれだけの人が居たのかと首を捻りたくなる程、境内には人が溢れている。

 大人の男達は理由をつけては酒を飲み、女達はせっせと振る舞いの仕込みに精を出す。酒粕をめいっぱい使った粕汁に、焼きそば、お好み焼き、それから子供達のためのりんご飴、ベビーカステラ、回転焼き、軒を連ねた屋台のそれぞれから香ばしい匂いが漂い、そこに人の列が出来ている。待ち遠しいのか、しきりに母親の袖を引く子供の姿、父親に抱き上げられ、人差し指を口に入れてご機嫌そうな幼児の姿、そういった家族の団欒をどこか眩しいような気持で見つめる。

 どれも、自分には関係のないことだった。

 欲したとしても手には入らないもの。その代表が『温かな家族』という、幻だ。

 人混みを避けて境内の片隅から、賑わう祭の輪を眺めた。

 境内に立てられた物見櫓の上には古い大太鼓が据えられて、腹に響くような音が響いている。

 夏祭、秋祭と続いて、大とんどを兼ねたこの冬の祭が最も賑わう。

 寒い時期だと言うのに皆が火を囲み、世間話を肴に酒を飲み交わすのが習いなのだ。

 櫓を取り囲むようにしてできた踊りの輪を眺めつつ、僕は小さく溜息をついた。

 吐いた息が白く濁って冬の寒さを実感させる。指先はとうにかじかんで、足先もすっかり冷え切って、頬だけが火照ったように熱を持っている。

「ああ、あんたも来てたのかい。そんな所に突っ立ってないで、踊りの輪にでも入っておいでよ。それか粕汁はどうだい? どうせ碌に食べてないんだろ。今日は振る舞いなんだ、遠慮なんかせずにたっぷり持って帰りなよ。残ったって仕方ないんだからね」

 世話焼きのご婦人が陽気にそう言った。

 確か、町内の役か何かをしていたはずの人だ。名前は知らないけれど、顔だけはよく見かける。

「はあ…どうも」

 僕は曖昧にそう返事をした。

 まったくしょうがないねえ、と苦笑する声が聞こえ、ご婦人はまたどこかの誰かに「ああ、待ってたんだよ、よく来たね」と気さくに声を掛けていた。

 それを遠くに聞きながら、ポケットから1つ、棒付きの飴を取り出す。

 細い紙製の棒の先に丸い飴がついた駄菓子だ。包み紙にはパイン味と書いてある。それをかじかんだ手でぺりぺりとゆっくり剥がし、飴を口に入れた。ずりずりと力なくしゃがみ込み、神社の塀に背中を預ける。ちょうど植え込みの裏にあたるこの場所なら、こうして座り込んでいても誰も気にしないだろう。

 植込みの向こうに見える、まるで異世界のような光景。

 夜空に浮かぶ提灯が辺りを照らし、お面を付けた人々が輪になって踊っている。

 それを眺めながら、僕は昔話を思い出していた。


     ***


「お祭の時にお面をつける理由、知ってるかい?」

 月明りに照らされた君の笑顔を、今でもよく覚えている。

 男勝りな口調と、勝気な性格。曲がったことが大嫌いで、町内でも彼女はいつも『ヒーロー』だった。大人達の期待にも、同い年の子供達の期待にも、彼女はいつも良く応えていた。運動が得意で、それでいて勉強もよくできた。

 意気地のない自分とは正反対の、優等生だ。

「知らないよ、そんなこと」

 困ったように答えたのを覚えている。

 塾の帰りだったと思う。

 いつもなら真っすぐ家に帰るのに、その日はなぜか2人で公園に寄り道をした。空にはまん丸な満月が出ていて、夜なのに地面にくっきりと影ができていたことを覚えている。

「お祭には、死んだ人もやってくる。お面はね、誰が生きてる人で、誰が訪れた死者なのか、それがわからないようにする為だ」

「人は死んだらそこで終わりだよ。死後の世界、なんてものはないよ」

「夢がないな、君は」

 君は、そう言ってくすりと笑った。

「だって死後の世界があるほうが、なんだか怖い。死んだ後なのに、まだ何かを……頑張らなくてはいけないの? そんなの、辛くない?」

「頑張る必要はないと思うが? 楽園に行けるのかもしれない。浄土という言い方もある。違うかい?」

 楽園、浄土、という言葉に、僕は小さく首を横に振った。

「それは信仰に基づくものでしょう。教義に沿って敬虔に生きた者だけが招かれる場所だよ。僕には……そんな場所、用意されてない」

「では神道はどうだ。イザナミノミコトは黄泉の支配者。それが生前どのように生きていたとしても、温かく黄泉に迎え入れてくださるだろう」

「黄泉の国、か」

 それも少し、違う気がする。

 だが何が違うのか、どう違うのか、それを説明する為の語彙をぼくは持ち合わせていないのだ。

「わからない。でも、人が生きているのは、脳が世界を認識しているから。だからやっぱり、脳の電気活動が消失したなら、人はそれで、終わり」

「夢がないなあ」

 くすりと再び、君は笑った。

 小馬鹿にした笑いではない。どこか、温かく、柔らかい。

「だけど、よく覚えておおき。祭の夜にやってくるのは生きた人ばかりではない。お面をつけるのは、それが生きた人なのか、死者なのかをわからなくする為だ。だから、お面の下を知ろうとしてはいけないんだ。もしも、それが誰だか判っても、決して名を呼んではいけないよ。わかったかい?」

 念を押すように、君は言った。

 君には何がわかっていたのだろう。

 そんなことを、未だにつらつらと考えたりする。


     ***


 植込みの向こう、提灯の明かりに照らされた人の輪の中。

 大振り袖のひらりと翻る袖が目に入った。濃紺の地にあでやかな大輪の花が描かれた正絹の大振りだ。その図柄に見覚えがあった。

 それと同時に、そんなまさかと理性が否定する。

 座り込んで飴をかじっていた僕は、ふらふらと立ち上がり、まるで吸い寄せられるように踊りの輪に近寄った。

 皆が顔を隠してお面を付けているのに、僕はそれもしないまま。

 彷徨うように人の波に逆らって、何度も誰かにぶつかった。この辺りに見えたはずなのに、と立ち止まって左右を見るが、あれ程目立つ柄の本振袖を見つけることができない。

 僕は独り、焦燥感に駆られて人の渦の中に立ち尽くした。

 何周目かの頃。

 ふわりと目の前に濃紺の袖が舞った。

「待って!」

 思わず手を伸ばし、その白くあでやかな指先を掴む。

 目元を覆う狐面は手の込んだ木製で、それはまるで能か狂言の『おもて』のように見えた。

 手を繋いで、くるりと舞う。

 かじかんだ手では、掴んだ手が冷たいのか温かいのかもわからない。踊りの人の波に紛れるようにして手を繋いだ。

「君は……」

 言いかけた僕の唇に、そっと人差し指が当てられた。

「忘れたのかい?」

 愉快そうに笑う、君の声がする。

 目の前に居るというのに、まるで耳元で囁くような声が。

 聞きたいことは山のようにあった。けれど、なぜ、なぜ、なぜ、と子供の様に駄々を捏ねるのは嫌だった。だから結局、僕は何も言えずにただ見つめていた。

 手を繋いで、人の輪に紛れて踊った。

 何周も。

 いつしか祭も終わりの時間が近付き、踊りの人の輪も、ひとり、またひとりと減っていく。

「さあ、もう、帰る時間だ」

 何かを断ち切るように、君が言った。

 迷ったのは僕だったのか、君だったのか。

 繋いだ手がゆっくりと離れて、その指先が離れきる直前のこと。


「     」


 僕は、君を抱きしめたくて、名を呼んだ。

 ずっと、抱きしめたかった。

 両手を伸ばして、君を抱きしめようとした。

 濃紺の鮮やかな振袖がふわりと揺れて、僕の手を掻い潜る。

 見る間に君の体が透けていく。

『だから名を呼んではいけないと、あれ程言い含めておいたのに』

 仕方がないなとでも言うように、君が悲し気に笑った。

 透ける手で、君が僕の頬に触れる。まるで風がそよぐように、それは優しく柔らかく僕を包んだ。

「待ってくれ!」

 両腕で抱きしめようとした僕の手をすり抜けて。

 掴まえようと伸ばした指先すら、すり抜けて。

 カランカランと乾いた音を鳴らしながら、狐の面だけが地面に落ちた。

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