第76話 伊達に色々してないよ!

「キャアアアアアアア!! 旦那様ァー!!」


 ヒュドラ氏の愛人が、ワインボトルを手放して叫び声をあげた。

 割れて、床に広がる赤い液体。


 だけど。

 そんなものには一切気に留めず、僕は素早く左手で印を組み


「カーテル デンジ ステル アンチェン!」


 かなり急ぎ目に魔法語の詠唱を行う。

 使用したのは魔力魔法第8位階「麻痺の空気」だ。


 マーズさんのヒュドラ氏への追撃が入る前に。


 ただそれだけのために。


 魔法が発動し、マーズさん周囲の空気が麻痺ガスに変化。

 その変化した空気を吸い込んだマーズさんは倒れ込む。

 ヒュドラ氏の上に。


 急がないと……!


 魔法には愛人さんは巻き込まれておらず、すぐにヒュドラ氏に駆け寄ったのに、やっぱり運よく巻き込まれず。

 そのまま、短剣を抜こうとしたんだ。


「ちょっと待て!」


 一喝した。


 愛人さんはビクッと震えて、止まる。


「抜くな! 下手すると大出血して即死する!」


 声は女のままだったけど、なんか迫力があったのかね。

 愛人さんは僕の言ったことに従った。


「どいて」


 言って、邪魔なマーズ氏を除けて、僕はヒュドラ氏に向き合った。


「……どうされるんですか?」


「説明している暇がない。黙ってて」


 愛人さんには悪いけど、マジでそうだから。

 死んでしまうと、あとは蘇生魔法を使うしか無い。

 そして蘇生魔法というものは。


 確実に効果を発揮するものでは無い。


 死体の状態が酷ければその分成功率が下がるし。

 1回失敗すると、死体は蘇生のエネルギーの暴走で灰になる。


 この灰の状態でも、まだもう1回蘇生魔法を掛けられるけど、これに失敗すると、灰は今度は消滅ロストする。

 文字通り、何も残らないんだ。


 だから「金持ちなら蘇生魔法を後で掛ければ良いよね」なんて。

 馬鹿なことを言う奴、たまにいるけどさ。


 蘇生魔法がある=死んでも大丈夫、じゃあ無いんだよ。


 僕は短剣に手を掛けた。


「え、抜いちゃダメって……」


 愛人さん、うるさい。

 僕は一切答えず、魔法詠唱を開始する。


「ディルマ マハル バディ リビルド」


 法力魔法第1位階「回復」の魔法。

 魔法発動。


 魔力がヒュドラ氏の身体を癒していく。

 それに合わせて、ゆっくりと短剣を抜く。


 そして半ば抜いたあたりで、回復の魔力の勢いが弱まった感覚があった。


 なのですかさず


「ディルマ マハル バディ リビルド」


 2回目。


 そしてまた、ゆっくりと抜いていく。


 よし。


 完全に短剣を抜き取った後、僕はヒュドラ氏の胸の傷口に手を当てて、最後にもう1回、回復の法力魔法を詠唱する。


「ディルマ マハル バディ リビルド」


 ……計3回。


 どうだ……?


 僕はヒュドラ氏の胸に耳を当て、その鼓動を確かめる。


 ヒュドラ氏の心臓は、普通に体内での循環器として機能しているようだった。

 ……よし。


 胸を撫で下ろし、ヒュウと息を吐くと。

 愛人さんが土下座する勢いで僕に礼を言って来た。


「ありがとうございます! マギ様! 私たちの旦那様を救っていただきありがとうございましたぁ!」


「いや、別にさ……昔、医者をしてたのと。普段人間の身体に慣れ親しんでいたせいで、なんとかなっただけだから」


 僕としては大したことはしてないよ。

 そう応えて


(……この人、なんでいきなりヒュドラ氏を……自分の父親を刺したんだ?)


 僕は麻痺の空気で麻痺状態になっている、この件の実行犯・マーズさんを見つめてそれを考える。


 まぁ、とりあえず


「愛人さん、ロープをどこかから確保してきて」


 指示を出す。ヘルメスさんはだいぶ前に退出したからこの人に頼むしかない。

 すると僕に頭を下げまくっていた愛人さんは


「分かりました!」


 そう元気よく答え、駆け足でロープを探しに行った。


 ……とりあえず縛り上げとかないと。彼を。

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