第2話

 昔ほどでは無いにせよ、裏の世界では人が死ぬ。


 恨みや義理や衝動的な怒りなど、感情的な部分が一般人かたぎの者より強くて濃く、それゆえ起きたトラブルが大事になるケースもある。事件の操作と犯人検挙は警察の権能だが、それに任せられない場合もある。


 たとえ死後であっても警察に調べられては「マズい」者もいる。身内を手に掛けられたなら、その落とし前は身内でつけたい気持ちもある。

 その事情は様々だが、そのような場合に捜査を行い、犯人探しを請け負うのが“ちゃー爺”のような探偵だった。



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 ぶーぶーと文句を言いながらも、幼い頃から可愛がられた父の友人には逆らえず、エリは車に戻る事を承知した。

 小走りにコンビニへ向かう、その後ろ姿を見送った老人と不破は、ゆっくりと階段を上がって廊下を進み、202号室の前に立つ。


 今どきの電子ロックを使ったドアは、ドアガードを挟んで薄く開かれた状態で、その前にはこのアパートの管理人が所在なげに立っていた。


「管理人の相田です」

「鍵を開けたのはあんたか」


 本人は一言も発さず、不破の紹介と老人の質問にただ頷く。地味なポロシャツと色褪せたデニムの中年男は、組がオーナーの賃貸住宅の管理を任されるだけの、構成員とも呼べない存在だ。


「ヒロミちゃんの連絡を受けたのが今朝の9時くらいで、女の子の部屋を勝手に開けるのは嫌だったんですけど、どうしてもって頼まれて……」


 第一発見者となった小心者は、すぐに組の事務所に通報したが、「警察には知らせるな」の一言しか指示を出されず、こうして数時間も死体の眠る部屋の前で立ち尽くしている。


「中には入ったか。何かに触ったか」


 頭ひとつ低い位置からめ上げてくる老人の視線に喉を鳴らし、じっとりと汗ばんだ顎や首を手の甲で拭うと、おどおどと話し始める。


「ドアを開けて玄関から呼びかけたんですが返事がなくて、中には入りました」


 とは言っても、ワンルームの間取りでは玄関からキッチンを挟んですぐにベッドのある部屋になる。少し覗き込むと、ベッドに眠るやす子が見えた。

 さらに大声で呼び掛けても返事がなく、ベッドの傍まで近寄り、肩に触れると死んでいるのに気が付いた。


「ですので、事務所の方へ電話をしたんです。他には何も、触っていません」

「それはいい判断だったな」


 まだ若い不破だが、若頭補佐の立場があるので相田に対してへりくだる様子はない。「中を見ますか」との問いに老探偵が頷くと、ドアを開いて道を譲った。


 玄関に入ると、まずは化粧の匂いが鼻をつく。商売柄もあるし若い女の部屋であるから、充満していると言うよりは、壁紙やカーテンのような室内すべてに匂いが染み付いている印象だった。


 元捜査一課の老人は、その場所から室内を観察した。

 人がひとり立つのがやっとの狭い玄関には、靴を入れる戸棚にビニール傘が掛かっている。目隠し壁に仕切られた先が十畳ほどの居室で、右を見るとキッチンの奥にユニットバスがある。左側の壁の向こうは隣の201号室だ。


 革靴を脱いで床に上がると、まだ新しいフローリングはギシリとも鳴らない。マメに掃除をしていないのか、ざらりとした埃を靴下越しに感じた。


 居室の奥、窓の上のエアコンは昨夜から部屋を冷やし続けているようだった。閉じているカーテンを薄く開くと、コンビニと駐車場と国道が見えた。


 ベッドには被害者である三上やす子が横たわっている。頭まで被った夏用布団を剥がしてみると、ブランドロゴのTシャツとショートパンツという姿で、不健康に白い肌には、鮮紅色の死斑があった。


「一酸化炭素中毒、か……」


 ガス給湯器や灯油を使う暖房器具などが不完全燃焼を起こすと発生する一酸化炭素COは、軽度の中毒であれば頭痛や目眩めまい、吐き気を催す程度で済むが、最悪は死に至る。

 血液中のヘモグロビンが一酸化炭素と結合すると鮮やかな紅色になるため、その遺体には紅い斑点が浮く。


 しかし、季節は初夏で室内には暖房器具はなく、他にも一酸化炭素を発生させるような物もない。


 衣装ケースと化粧品が乱雑に並ぶドレッサーに、コタツ兼用のテーブルと二人掛けのソファー。オーディオラックに乗った24型のテレビ。壁面に設えられたクローゼットには服が吊ってあるだけで、それだけが三上やす子が持つすべての物のようだった。


 眠ったままで死んだのだろう。遺体に布団を掛け直して、老人はキッチンへ行く。黙って玄関の外に立つ不破の視線は無視された。



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 キッキンにはIHコンロに手鍋が乗っているのみで、食べ残しが干乾びた冷凍食品のトレーやコンビニ弁当のプラ容器、そして空のカップ麺がシンクの中を占領している。

 レバー式の蛇口から水滴がひとつ、たん、と音を立てた。


 単身用の冷蔵庫の中には、ペットボトルの水と緑茶のみで卵すら無く、冷凍庫には食器不要の冷凍パスタやピラフの類が詰まっていた。


(料理をする習慣はない)


 中折れ式のドアを開くとユニットバスは、やはり掃除もされずに水垢と石鹸カスが至る所にこびり付いている。昨夜のシャワーの名残りか、シャワースペースは水浸しのままで、唸りを上げる換気扇が湿気を吸い出し続けている。


「ちゃー爺ぃ〜、まだ分かんないの?」

「お嬢、怒られますから……」


 部屋の外でエリと不破の声がする。


 車内で待たされるのに飽きた女子高生は、米国生まれでありながら雰囲気だけはドイツ風のクリスピーサンドアイスを噛りながら、不破のディフェンスを破って部屋に入ろうとする。


「お前は部屋に入るな。犯人はもう分かった」


 革靴を履くと、靴ベラが無いのに気がついて舌を打つ。靴を痛めるのもやむを得ず、爪先を地面に打ち鳴らして、踵を押し込む。


 エリと不破と管理人の相田は、黙ってそれを見守っていた。

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