探偵“ちゃー爺”とエリ

マコンデ中佐

第1話

 都心からJRで三十分。それなりの商業施設と飲食店で賑わうベッドタウンの駅前から、路線バスで二十分。八十年代のマイホームブームの折に建てられた、統一性のない家並みに埋もれるように、一軒のカフェバーがある。

 レンガ風の外壁は風雨に晒されて黒ずみ、元のモスグリーンがすっかり色褪せた日除けのキャンバスには“ブレナム”という店名が辛うじて読み取れる。

 鍍金メッキの剥げたドアノブに掛かる「準備中」の札を無視すると、これもニスが剥げて白茶けた扉が開け放たれた。


「ちゃーじい。まーた店サボってる」


 初夏の日差しを背にした影が、開口一番発した批難の声は少女のもの。乱暴に開かれた扉をドアクローザーが静かに閉じると、戻ってきた薄闇の中に立っているのは、セーラー服姿の女子高生だった。


「サボってやしない。これから開けるところだった」

「嘘だね。新聞、読み始めたばっかじゃん」


 通りに面した窓ガラスはカーテンで締め切られ、その隙間から差し込む光が煙草の煙を照らしている。ヤニ臭い店内には四人掛けのボックス席がふたつとスツールが六つ。そのカウンターの一番奥に、老人がいる。


 頭頂まで禿げ上がった頭と、見たところ七十代の年齢なりにたるんだ頬と弛んだ体。オックスフォードシャツにループタイの男は、スツールに飛び乗る少女を一瞥もせず、新聞の一面に目を這わせている。


「カフェに他所の店のコーヒーを持ち込むな。無礼な娘だ」

「だってここのアイスコーヒー、紙パックのじゃん。不味いもん」


 ドンと置かれたプラカップから飴色のカウンターに水滴が飛ぶ。ギリシャ神話のセイレーンに不熱心を笑われて、老人はふんと鼻を鳴らした。


「無礼な娘だ」



£



「で、なんの用だ。エリ」

「ん、殺しがあってさ。ちゃー爺呼んで来いって親父がさ」


 口にストローを咥えたまま、頬杖をついて店内に飾られた風景画を眺めていた女子高生は、名前を呼ばれて振り向いた。

 カウンターの中では“ちゃー爺”が、トーストに挟むためのベーコンと卵をフライパンで焼いている。油とヤニに塗れた換気扇が、その匂いと煙と淀んだ空気を、低音量のスタンダードジャズとともに吸い込んでいく。


 この老人は自分のペースでしか話をしない。それを分かっているエリは、今度はカウンターの向こうに並ぶ酒のボトルを眺めて返事を待つ。

 ハイランドだのアイランドだの、アイリッシュだのスコッチだの、一切興味は湧かないが、自分がスマホを見ていると、この老人は全く言葉を発さなくなるのを知っている。


 元は県警の捜査一課を勤め上げた叩き上げの警察官。退官の後はこうして道楽半分のカフェバーをやりながら、暴力団を客にした私立探偵紛まがいの仕事を受けている。


「これを食ったら行く。場所は?」

「近所だよ。表に車、待たせてる」


 女子高生のエリは、広域指定暴力団「宇院佐」組の組長の娘だ。父親の丈二とは立場を越えた友人だった老人を“ちゃー爺”と呼び、幼い頃から懐いている。


 湿気で汗ばんだ癖っ毛に煙草の匂いが付くのは嫌だが、少し焼き過ぎのベーコンエッグを乗せたトーストにかぶり付き、豪快に咀嚼して、紙パックからじか飲みの牛乳で流し込む老人を、楽しそうに眺めていた。


「ちゃーさん。いつもスンマセン」

「おう……不破か」


 目を焼く陽光に顔をしかめ、大義そうに腰をかがめて後部座席に乗り込んでくる老探偵に、運転席からルームミラー越しに頭を下げる。

 不破と呼ばれたこの男は、梅雨も終わり蒸し暑くなるこの季節でも黒の上下を隙なく着込み、エリの運転手兼ボディガードを務める若頭補佐だ。


 黒塗りの高級外車が発進する。住宅街の細い路地から交通量の多い国道へ出て、車列の流れに乗って走る。

 “ちゃー爺”の隣に座るエリは、空調の効いた車内で制服の襟元を仰ぎながら、事のあらましを話し始めた。


「殺されたのは三神やす子。がやってるキャバクラで務めてた二十五歳のキャバ嬢だよ」


 昨夜の夜は普通に勤務して、深夜の二時には帰宅している。住んでいるのは組が世話をしたアパートで、同じくそこに住んでいる組関係者の証言から、それは間違いない。


 今朝から昼に掛けて、SNSへの書き込みも反応もないのを気にした同僚が電話をするも応答がなく、管理人が部屋を開けると、やす子の死亡が確認された。


「サツにはまだ通報してません。出来ればその前に、誰がやったか調べて欲しいんスよ」


 エリが説明するのを聴きながら、徐々に気圧を下げていく老探偵を見て、話の後半は不破が引き取った。

 女子高生が人死にの話を事も無げに話す。そこには怒りも悲しみもなく、恐ろしがる素振りも気の毒に思う気配もない。それが異常な事だとエリには分からない。

 それがこの老人には面白くないのだ。退屈そうにフロントガラスを睨みながら、ぶつけどころのない苛立ちを募らせている。不破にはそれが良く分かった。



£



「そろそろ着きます」


 左にウィンカーを出し、国道に面したコンビニの駐車場に乗り入れる。すでに停まっていた黒塗りの車が二台。そこに並んで車は停まった。


「このアパートの202号室だって」


 不破の手を借りて車を降りる老人を待たず、エリが小走りに向かったのは、コンビニの裏手にあるアパートだった。


 築三年の建物は、まだ新築のように新しく見える。太陽光発電パネルに覆われた屋根と青竹色のサイディングの二階建てが、フェンスを挟んでコンビニの駐車場に背を向け、正面は入居者向けの駐車スペースになっていて陽当りがいい。

 正面に向かって右側を路地に接し、数台の自転車が停まった屋根付きの駐車スペース。二階の廊下へ上がる外階段の下にはプロパンガスのボンベ置き場があり、一階二階ともに四つの部屋が並んでいる。


 というヤクザやチンピラ風の男がうろついているのは、何かを調べていると言うよりは周囲に人を近寄らせないためだ。


「こいつら、退かせろ。ここで何かあったって宣伝してるようなもんだ」

「はい。連絡用に何人か残して帰らせます」

「それでいい。車に待たしとけ」


 杖をついた元警察官の指図を受けた不破が、手近のひとりを呼びつけて低い声で一言二言呟くと、金髪鼻ピアスにアロハシャツの男が唸るように返事をして、仲間にそれを伝えに走る。


「ちゃー爺、早くー!」


 すでに階段を上がったエリが二階の外廊下から声を上げる。かすかに舌打ちをした“ちゃー爺”は、エリも車で待たせろと不破に命じた。

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