第9話 論理的愚考
『その笠を乗せるのは』
2019年10月20日
同じ中学を通い、同じ高校に進んだ友達はいつもおかしなことを聞いてくる。晴は元より変なのだけど、最近はどこかおかしい。
何といえばよいのか分からないが、こいつの変には無駄がない。変だからこそのこいつだが、最近はどこか無駄だ。
「ねえ、じゃなくない?って聞かれたら何て答える?」
学校まで徒歩四十分の道のり。その間、いつも晴は変な問いを私に投げかける。
「また無駄なこと聞いてくる」
「無駄じゃなくない?」
「無駄」
「…」
私は質問を答えると同時、それを一蹴した。晴は何とも言えない表情をしている。
「それは私だから言えるんだよ。あと相手じゃなく自分に対して聞かれたとき。もし大した仲でもない相手に相手自身のこと聞かれて即答できる?そんな酷いこと私にしか言えないでしょ」
「じゃあ何て言うの?」
「なくない。って答えるんだよ」
晴は私の反応を見ることなく続ける。
「なくない?って聞かれたら一瞬分からなくなるでしょ?それははてなのせいで意味がひっくり返るから。『無駄じゃない』は無駄ではないってことだけど、『無駄じゃなくない』は無駄ってこと」
「じゃあ『無駄じゃなくなくない』は無駄じゃない、『無駄じゃなくなくなくない』は無駄、『無駄じゃなくなくなくなくない』は無駄じゃない」
「ここまではただの裏返し。ただはてなが最後に付くと、『ない』が否定じゃなくなって分かりにくくなっちゃうんだよ。『無駄じゃない』が『無駄じゃない?』になることで意味がひっくり返って、無駄であることの確認になる」
「『無駄じゃなくない』が単に無駄だったのが、『無駄じゃなくない?』になることで、『無駄ではなくない?』という意味になる。『無駄じゃなくなくない?』は『無駄じゃないということはないんじゃない?』になって、『無駄じゃなくなくなくない?』は『無駄じゃないということはないとも言えないんじゃない?』になる」
「だんだんと無駄かそうじゃないかという疑問から遠ざかっている。否定が増え、意味が薄くなるほど、それを言ってる本人に自信がないということ。だから否定が多いほど簡単に答えるわけにはいかないし、答えられない。無駄だと思っているのかそうじゃないと思っているのか分からないから」
「けど、これを切り抜けられる方法が一つだけあるんです。知りたい?それは『なくない』と答えること。一回以上の否定、つまり『じゃなくない?』からどれだけ否定を重ねても、相手を肯定することができるんです」
まるで真理に近づいたかのように、大々的に話す晴の顔はすっきりしていた。
「ねえだからさ、無駄なことじゃなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくなくない?」
「無駄」
「無駄じゃないことを確かめたかったのに………ってなるから私以外に聞かれてもはっきり言っちゃだめだよ。『なくない』って言いな」
落ち込んだふりをして俯いた晴の顔は、その笑みに影がかかって不思議な感じだった。晴が満足する頃には、いつも決まって学校の前まで着いていた。
そして学校に到着すると、晴は露骨に怪訝そうな顔をする。
「今日もお昼一緒に食べるでしょ?」
「うん」
「じゃあ後でね」
私は階段を上がったところで晴と別れる。
気だるげな後ろ姿を見送ってから教室に入り、自分の机まで歩いていくと、今度は背後から私に話しかける声がする。
「おはよ~こだま~」
間延びした声で私の名前を呼び、背中にくっついてくる。
「おはよう、智香」
私は合気を使うように自然と、肩にかかった手を離し、流れるように前の席に座らせる。クラスの友達の智香は、いつも朝から私に絡んでくる。登校前は晴、登校後は智香を相手にするのが私の日課だ。
「今日も晴ちゃんと来たんでしょ?」
「うん、晴さ、最近何か変なんだよね」
「え~ちょっと変なのはいつものことなんでしょ?私あの話好きだな。ほら、目の前にいる人がおじさんか、おじいさんかみたいな。私毎日でも聞きたいな~」
「違うんだよ。最近の話はなんか無駄というか…変と言えば確かに変なんだけど」
「こんなこと言うのあれだけど、晴ちゃんの話は無駄でなんぼじゃない?」
「無駄っていうのは取り留めのない話ってことじゃなくて…誰にとっても
有用じゃないというか」
智香は不思議そうな顔でこちらを覗いている。
「じゃあ今日の話は何だったの?」
「今日は『じゃなくない?』って聞かれたときの答え方」
「何それ~」
「『じゃなくない?』の文の否定が100個でも1000個でも、『なくない』だと相手のことを肯定できるんだって。でもこんなの聞いてくる人いないじゃん」
「まあそう言われたらそうだね。今までの話も必要はないけど、使いようはあったもんね~。あ、先生来た」
八時半になって先生が来ると、いつものように読書時間が始まる。半ば強制的に読まされている読書は、どれだけ面白い話でも頭に入ってこない。
昨日から読み始めた小説はまだ数ページしか読めていないが、短編であることからストーリーの展開は早く、もう登場人物の掛け合いが始まっている。
いつもはだらだらと文章を目で追っているだけだったが、今日は思わず目を見開いた。以降は主人公と友達との会話。
「はやくやらんと、これで終わらんくても先生に怒られるぞ」
「そんなんしょうがなくなくなくない?」
今朝の話とぴったり一緒だった。晴の話だとこれは「しょうがないことはないとも言えないんじゃない?」ということになる。
つまり友達はしょうがないと言ってほしい。「なくない」と言うのだろうか。そうわくわくして次の行に目を移す。
「うん、でもやらんと」
興味深く顔を本に顔を寄せた私は、そっと本を離し、そのまま机に突っ伏した。
やっぱり晴の話は最近無駄だ。私はチャイムと同時に起き上がっても、先生の話に耳を傾けず上の空だった。
「こだま~次理科室だよ。行こ?」
智香に話しかけられて、私はようやく思考を取り戻す。教科書とノート、ペンケースを持ってだらだらと歩き始めた。
私は授業は全く聞かず普段からぼーっとしている。真面目に授業を聞いていればすぐ眠くなってしまうからだ。その間はバレないように、ノートを取る片手間でゲームをしているか、教科書を読むふりをして占いの本を読んでいる。
今日の運勢はやや悪く、やりたいことに熱中し過ぎて注意が散漫になってしまうらしい。まあいつものことだ。そうしてお昼休みまでやり過ごす。
「今日も晴ちゃんとごはん?」
「そうだよ」
「私も行っていい?」
そう言って、可哀想に繕った顔を覗かせる智香。
「だめだよ。晴、緊張して何も話せなくなっちゃうんだから」
「え~、じゃあいつか一緒に食べられるようにやんわり伝えておいてね?」
「おっけー」
心惜しそうに私を見送る智香に手を振り、晴がいる教室まで足早に向かう。机から頑として動かずに、スマホを覗いている晴の前まで行って声を掛ける。
「晴~ご飯食べよ」
「待ってたよ」
晴は、私が来たのを見てようやくお弁当のふたを開ける。
「ねえ、今日の読書でさ、主人公が『しょうがなくなくなくない?』って聞かれてたんだよ」
「ほんと?どうだった?やっぱり『なくない』って答えてた?」
「いや、『うん、でもやんなきゃ』って」
「なんだよ~」
「普通に考えて『なくない』って答えたら今度は相手が分からなくなるじゃん。実用性ないね」
「いつか役に立つ時がくるよ」
「いつだよ」
私たちは朝の他愛のない話を掘り返して、互いに笑う。晴の口数は今朝よりも少なく、登校してからは一言も発していないことを感じさせた。
「ねえ、最近の晴の話さ、何というか無駄なところあるよね」
「つまんないってこと?それとも詰めが甘いってこと?」
「いや悪い意味とかじゃなくて。確かに納得はできるんだけど、どこかずれてるというか。今までだったら特別必要もないけど、どこかで使うチャンスがありそうな話だったじゃん。今回のもそうと言えばそうだけど、限りなく使いどころないじゃん?」
晴は不思議そうな顔をしていた。
その指摘に今まで気づいていなかったかのように、箸を止めて私を見つめて何かを考えているようだった。
「言われてみれば。昨日って何話したっけ?」
「昨日は休みでしょうが」
「晴、午後の授業何?」
「体育」
「うわ~やだね。私は地学だから寝る」
「私だってサッカーだから寝るよ。ゴールキーパーやるから」
「ゴール守ってるからゴールキーパーって言うんだよ」
「私は味方のゴールを信じて、寝て待ってるよ」
「せめて顔面にもらわないようにしてね」
いつものように大した内容もない会話で昼の時間を過ごした。
私はともかく、晴は私と話してご飯を食べないと、午後まで体力がもたないようだ。だんだんとその表情に笑みを慣らした晴を見て、ふと智香の言っていたことを思い出す。
「ねえ晴。智香が晴とごはん食べるの良いな~って言ってたよ」
「あの人?移動教室のときとか、こだまと一緒にいる明るい人でしょ…?私とすれ違うときも手を振ってきてどう返せばいいか分かんないんだよね」
晴は露骨に困り顔をしている。
「普通に手振り返せばいいじゃん。智香に晴の朝の話教えるとすごい面白そうに聞くんだよ。おじさんとおじいちゃんの話好きだって」
「あぁ、おじさんとおじいちゃんの見分け方?」
晴がいつか話してくれたのは、電車内でおじさんかおじいさんかを見分ける方法だ。善意から席を譲ったときに、歳老いて見られたことに憤慨されるということがあるだろう。そのときにどうすればよいのか。
晴が言うには、まず席を譲る。そしてその人の反応を窺う。もし文句を言われたら、席に誘導するように手を掴んで少し押す。もしも手で反抗されたらまだ元気なおじさんで、言葉で反抗されたら老いたおじいさんだというのだ。
「私そのとき結局怒られるリスクは回避できないじゃんって言ったよね。そしたら晴が見分ける方法としか言ってないって」
「完全に見分けるにはそれしかないんだもん。どっちにしろ反抗された時点でろくな爺さんにはならないだろうけど」
おじさんかおじいさんかの区別は年齢で判断しきれるものではないという話だった。変な話である。しかし、使いようはある。
役に立つかどうかは別としても、実際に使うことはできる方法だ。
「これ二か月前くらいに聞いたっけ?そのときはまだ普通に変な話だったよね」
「普通に変って何さ。話し方とか変だった?自覚ないんだけど」
「いや、特におかしいとこはなかったけどね」
「なんでだろ…」
晴は妙に辛辣な表情を見せた。何か悩んでることでもあるのか聞いてみようともしたが、気分を沈ませてはいけないと、思いとどまった。
下手をすれば、晴は午後の授業をサボって帰ってしまう。なんとなく話を変えて休み時間を終えた。
「じゃあ晴、サッカー頑張ってね」
「うん、こだまも」
「今日掃除あるから教室の前でちょっと待ってて」
「分かった~」
朝よりはやや能天気な晴の口調を聞いて、私は教室を後にした。
「お待たせ、帰ろ」
体育ですっかり疲れ切った様子の晴は、足取りが重いようで、階段を一段一段ゆっくりと降りていく。
「ゴールキーパーしてたんじゃなかったの?」
「よく考えたらサッカー初回の授業だから、試合じゃなかった…」
「鞄持っててあげるよ」
半ば強引に晴から鞄を引き離すと、鞄が身体を支えていたように一気に姿勢が歪んでいった。顔を俯かせて肩を落として歩いていくその姿は、さながら老人だった。
「席譲ってあげようか?おばあちゃん」
「あの話はおばさん、おばあさんには使えないんだよ。席を譲られて反発するおばさんは、おばあさんになってもヒステリーを起こすから見分けがつかないんだあ…」
「世間的に危ないこと言わないの」
わざと掠れた声を出して、今にも倒れそうといった雰囲気を醸しながら、問題になりそうなことを平然とつぶやいている。
晴はやっとの思いで、玄関にたどり着いてスニーカーに履き替えると、私の代わりに鞄を二つ持ち上げた。晴が潰れないうちに私もスニーカーに履き替えて、感謝とともに自分の鞄を受け取る。
「ねえ、晴。なんか困ってることあるの?」
「学校行きたくない」
「それはいつもじゃん。他に困ってることないの?」
「ないよ。私の話がいつもと違うのは関係ない」
疲労がたたって自棄になったようで、晴は私が求める答えを簡潔に言い切った。
「じゃあ明日はどんなことを聞かせてくれるの?」
「そりゃ明日になるまで分からないよ。前の日に決めるわけじゃないし」
「え、考えてきてるんじゃないの?」
「まあね」
晴は間が悪いのか、今度は私の問いにはっきり答えようとしない。私は晴がする話は事前に考えてきているものだと思っていた。
しかし、晴の口ぶりから察するに、当日にならないとわからないということだろう。気分なのだろうか。
「晴、明日もちゃんと聞かせてね」
「任せなよ」
私がそう言うと、晴は私の目を見て、自信に満ちた表情で笑った。晴が何かに悩み、ひどく落ち込んでいると思っていた私は、晴の笑顔を見て安心した。
そう思ったのも束の間、晴の話は明るいものではなかった。
「おはよ」
「おはよ~」
晴はいつものだるそうな表情をして、玄関からするりと抜け出すように出てくる。
今日もいつもと同じように無駄で、どこかおかしな話が聞けると思い、私は耳を傾ける。しかし、晴の口から飛び出した話は、予想外な切り口だった。
「ねえ、自殺って逃げだと思う?」
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