第8話 深海恐怖症


     『その笠を乗せるのは』


 2024年6月28日

 何だこれは。


 私が意識を取り戻して、一番最初に浮かんだ言葉がそれだ。

 後味の悪い映画でも見せられたのか。この男が何を抱えているかは分かった。しかし、まだ説明のついていないことがある。どうして彼はまだ棺に向かって泣いているのだろうか。死んで悼まれるはずの彼がどうして死人を悼んでいるのか。どうして彼はアパートごと焼き払って死んでしまおうと思ったのか。

 私が目覚めた後も彼はまだ泣いている。そしてさっきはぶつぶつと口にしていた言葉が、今ははっきりと聞こえた。


「またドライブに行きたいなぁ。でも死なせたくない。もう一度一緒に海に行きたかった。まだ暑い季節だったのに。まだ花火大会にも行ってない。一緒に見に行きたかったし、深夏の浴衣も見たかった。お祭りに行って屋台を回って、そこでも最後に花火を見て、家に送り届けるまでその余韻に浸っていたかった。まだ深夏の夏休みが始まったばかりだったのに。なあ起きてくれよ。どんなに険しくても俺がおぶっていくからさ。今度こそ深夏を傷つけさせないからさ。今度こそ深夏をあいつから守るからさ!これから楽しいこともたくさんあるだろ。秋になったら美味しいものがいっぱい食べれるイベントがあるって言ってたよな。一緒に行こうって。なんでこんなタイミングなんだ。俺はあいつを絶対許さない。だからずっと見ててくれ。俺があいつを探し出して殺してやる」


 なんだこいつは。一見正義漢のようで、ただの執着のかたまり。

 私が動けない理由を今理解した。理想を押し付けられた彼女は、死後はこいつの夢の中で囚われていた。死んでからここにずっと縛り付けられて、こいつが泣いているところを見せつけられた。


 そしていつか気付いたんだろう、彼女がここにいることを。執着心の強いこいつは、どうやったら彼女に近づけるのか、どうやったらまた彼女に会えるかを必死に考えたことだろう。考えに考えあぐねてこいつは自殺を選んだ。

 よりにもよって、周囲を巻き込んだ焼身自殺。アパートをすべて焼き払っている。きっと妄想に取りつかれていたはずだ。

 彼女を襲った何かが、自分の周りにいると勘違いしたんだ。


 閉じ込められていた彼女と同じように、私がここでできることは何もない。そのことは私の手に助言が来ないことが物語っている。

 辛うじて動かない手から白紙は出せるが、どれだけ大量に出したところで意味がないし、こいつに気付かれてしまう。

 この空間を埋め尽くすほどの白紙を出して、ライターで燃やすという手もあるが、私の身が保証されないし、第一に手が動かせない。


 この場から抜け出す方法は一つしかない。それは仰丸に起こしてもらうことだ。

 今が何時か分からない以上、賭けではあるがこれしかない。朝になって仰丸が私のことを起こしていないことなどありえない。


 あるとすれば、それは私の手に”起こすな”という命令が握られているときだ。


 何故起こしてはならないのに、私の元には『動くな』以外の助言が来ないのか。

 それはこいつのことを知る必要があったからだ。私が夢から醒めるとき、こいつが私の存在を認知するはずだ。次に眠ったとき、もしくは現実でこいつに狙われる可能性がある。

 何故かは考えないでおくことにした。頭がおかしくなった奴の論理なんて理解できるものじゃない。


 命を失ってまでストーカーに捕まり、生前もその尊厳を踏みにじられた。

 きっと彼女はたくさんの未練を抱えて死んでいったことだろう。どこの誰かも分からない彼女に、柄にもなく同情した。そんな彼女のためを思ってか、私はどうせ気付かれるなら派手に行こうと決めた。


「仰丸!!!」


 夢から醒めるときの高揚感を感じながら、私の視界は薄れていった。視界の先でうずくまっていたそいつが、急に私の方を向いたのが見えた。

 やはりこいつは襲ってくる。消えゆく意識で自分にそう言い聞かせた。




 笠待が身体を起こす。目の前には仰丸の姿があり、笠待の身体を揺らしている。

「笠待。どうした大丈夫か。何があったんだ?」


 状況を知らない仰丸は、至って落ち着いた様子で、頭の回らない笠待に事情を尋ねる。笠待は起きたばかりの判然としない頭を必死に動かし、目を覚ます前に感じたことを思い出した。

 それを言葉にして仰丸に告げる。


「昨日のニュースの男が私を狙ってくる。今からあのアパートに連れて行って」

「今からか!?昨日の山じゃないんだぞ。大勢に見られちまう」


「ガキくらいになら見つかっても大丈夫だ。どうせ大人は信じない」

「お前…!酷いやつだな!」


 笠待は、髪はぼさぼさでパジャマ姿のまま、ふかふかの仰丸の背に乗る。

 笠待を乗せた仰丸は、二階の窓から向かいの家の屋根へと飛び乗った。土曜の朝とはいえ、路地を駆け抜ければ十分に人目についてしまう。

 仰丸は笠待が指す駅の方向を見据え、出来る限り屋根の上を飛び乗って移動した。


「なあ笠待!夢の中で何を見たんだ!」


「ニュースの男は、怪異の影響で大切な人を失っている。怪異が生んだ怪異だ。そいつは夢で捕らえたその人を追い、またその怪異を殺すために、アパートを巻き込んで焼身自殺を行った。そして、夢に侵入した私に気付き、出ていく私を追おうとしていた」


「とにかく俺はそいつを吹っ飛ばせばいいんだな!?」

「そゆこと!」

 仰丸の頭の処理速度では、その説明に追いつかない。分かったことは敵が笠待を追っているということだけであったが、それで十分であった。


 仰丸は更にスピードを上げて空を切る。

 笠待は強い風に目を細めながらも、顛末を話して、行き先を捉えていた。

 結局、仰丸は誰かに見られることもなく、件のアパートへとたどり着く。その焼け跡は何とか建物の原型を留めているに過ぎず、少しの衝撃で倒壊しそうな有様であった。


 規制線は張られていない。周囲に異様な男の姿はなく、ただ閑散としている。


「仰丸が暴れると倒壊する可能性がある。かと言って私一人ではどうにもできないから、気を付けて入ろう。幸い男の部屋は一階だからね」

「そいつがいたら建物ごとぶっ飛ばしてやるよ!」

 仰丸はいつも以上に意気込んでいる。


「二階に上がっちゃだめだよでぶ」


「最後なんて言った?」


 ドアが取り外された玄関をまたぎ、男が住んでいた部屋に侵入した。やはりそこは火災の発生源であるようで、中の様子は壊滅的であった。

「というかあれだよな。そいつ死んでんだからここにいないだろ?今ここに来たってどうしようもないんじゃねえの」

 仰丸はずっと感じていた疑問を露わにする。

「『起こすな』と同じように、私を起こす前に『起こせ』の紙を見たでしょ。そしてさっき『避けろ』の紙が出たから、これから襲ってくるはずなんだ」


「『起こせ』ってなんだ?」


「笠待が勝手に起きたんだろ?俺は起こしてない」


 笠待にとっての一番の誤算は、例の男への理解であった。

 笠待は自分がテリトリーに侵入したことで恨まれているものだと思っていた。しかし、その実は男が笠待を好いている、正確には笠待を恋の相手だと勘違いしているという可能性を考慮しなかったのだ。


 仰丸の目には、笠待の腹を後ろから抱きしめる男が瞬間的に見えた。完全な意識外からの攻撃は、仰丸の力を以てしても対処が間に合わない。


「は?」


 何かがひしゃげるような鈍い音がした。笠待は仰丸の顔を見上げたまま、口から血を吹き出す。血が逆流するほどの力で締め上げられた体は見るに堪えるものではなかった。

 次の瞬間には仰丸がその男を蹴り抜いている、しかし既に遅い、遅すぎた。吹き飛ばされた男は、壁を突き抜けて姿を消す。崩れるように倒れこむ笠待を仰丸が支えた。苦悶の表情を浮かべる笠待に、仰丸は当惑する。


「おい。笠待」


「かッ…痛い…仰丸…」

 絶え絶えの声。苦悶の表情。涙を浮かべた目。今まで感じたことのない感情が仰丸の頭を埋め尽くす。


「いいか…一回しか言えないからよく聞け」


「私は自分への助言か、他人への命令を無意識に出す能力を持っている。その文言に強制力はなく…文体は命令の形でしか来ない…」

 笠待の手には一枚の紙が握られている。

 それを開くと、そこには仰丸の記憶にもない、不思議な文字の羅列があった。


「数字の羅列が出てくるのは初めてだ…仰丸にあげるよ」

 真っ白い紙が笠待の手から床に落ちて、端から血に侵食されていく。


「急いでここを出て…黒鷺くろさぎこだまってやつに会え。背が高くて…必ず真っ黒な服を着てるからね…馬鹿な仰丸でも分かるように…確かに教えたよ」

 笠待の力ない体は、仰丸の腕からするすると滑り落ちていく。


「笠待。おい。死ぬな」


 仰丸は笠待の死を受け入れられない。大きなものを失うこと、それは仰丸にとって損得勘定の範疇でしかなかった。自分の中にある未知の感情に畏怖を抱いた。

 考えることができず、ただその場で立ち尽くしている。そのうちに玄関から一人の女の子が姿を現した。

 その目は仰丸をじっと睨んでいる。目には涙を浮かべて、仰丸が犯人であると信じて疑わないことが窺える。仰丸は笠待にされた命令を思い出し、笠待の紙を拾い上げて、消え去るような速さでその場を後にした。




 崩壊しかけたアパートの窓から何かが飛んできて、先生に触れる寸前の男を吹き飛ばす。私がそこに到着したときには、ぼさぼさ髪の先生が座り込んでいるだけだった。


「笠待ちゃん大丈夫か!?ちなみに俺は大丈夫だ!」

 それとは反対に玄関から、危機感を感じさせない様子の合真さんが入ってきた。


「何で合真あいまがここにいるんだ」

「私が連れてきたんですよ!何でどこでも勝手に行くんですか!」

 先生の問いに、私は怒りを露わにして答えた。


「だってさー、今回のはどうしようもなかったもん」

「ほんとだよ笠待ちゃん!せめて俺を呼びなよ!」


 先生は私たちには笑って見せたが、何かを失ったような悲しい目をしていた。あの大きな狼は何だったのだろうか。確かにその手を先生の血で染めていた。

 あのときの先生のように、血だまりには『避けろ』の紙が落ちていた。また、間に合わなかった。




 仰丸は屋根の上を走り続けた。傍から見れば何か大きな物が高速で通っていくような速度。周囲からは残像としか捉えられない。

 仰丸の頭にはもう、考える余地も悩む余裕もなかった。笠待の死を受け入れられず、それをどう解釈すればよいのか分からない。

 心臓は早く打ち、動悸がして気持ちが悪い。乱れた呼吸が、仰丸を動かし続ける。その足は本能的に山へと向いている。


 だんだんと山が近くなる。麓を目指すために地面へ飛び降りた。

 しかし、仰丸が着地すると同時。建物の陰にいる何者かが、仰丸を呼び止める。仰丸は残像から実体に戻り、その方向を見る。全身を真っ黒な服で包んだ女がそこにはいた。

 一枚の紙をひらひらとさせて、仰丸の視線を誘導する。見慣れたその紙きれには『助けろ』と書かれていた。


「友達に対して酷い口調だよねえ…何があったか教えて?」

 女は仰丸にたじろぐ様子もなく、また笠待に似た空気を漂わせていた。


                            2024年6月28日 失敗

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