第13話 『びっこたっこ』
『その笠を乗せるのは』
2024年6月30日
朝の日差しが家の中を照り付ける。そんな朝一番に、仰丸が目にしたものは何とも寝起きの悪い顔であった。
「おい、目開いてないぞ」
「うるさいな~」
黒鷺は仰丸の小言を無視しつつ、不満げな様子で洗面台の方へと消えていく。
「笠待といい、何で朝が弱いのに早起きしようとするんだ…」
日が昇るとともに目が覚める仰丸にとって、人間の睡眠の劣悪さは理解するべくもなく、するべきでもない。
「本当はもっと寝てたいんだよ...いや、寝てたくもないんだけど。朝しかいけない調査があってさ…仰丸も来る?」
顔をタオルで覆って現れた黒鷺は、ソファまで近づいて仰丸に背を預けると、そのまま目を瞑ろうとする。
「おい寝るな、昨日昼寝してただろ。どこ行くんだよ」
「地下鉄」
想像するだけで人の気配を感じるような、恐ろしい目的地に狼狽する仰丸。黒鷺は目を瞑ったまま、その様子を感じ取った。
「地下鉄って普通に人いるだろ…俺はちょっと」
「朝一だったらそんなにいないって、隠れる隙くらいあるよ。人間に慣れることはまず社会に慣れることからだよ」
「…」
仰丸は渋々であったが、それについていくことに決めた。
時刻は6:00。ゆっくりと用意をする黒鷺の様子は、まだ時間に余裕があるのだと、仰丸に錯覚させる。しかしその実、地下鉄はとうに開いている時刻であった。
仰丸は、尚もだらだらと準備をする黒鷺を急かす。何分か無駄にした後で、ようやくシャッターが開かれた。
「おい、早く行かねえと人集まるって!」
「うるさいな、ちょっと待ってよ」
そう愚痴をこぼしながらも、底の厚い靴の紐を結んでいる黒鷺。しびれを切らした仰丸は、ついに自分が折れるという選択肢を取った。
「なあ、今日だけ俺の背中に乗せてやるから早くしてくれ…道案内だけはしろよ」
「え~…しょうがないな」
黒鷺は簡単に紐を結ぶと、仰丸を押してやっと庭先へ出る。
仰丸は黒鷺を乗せると地面を一蹴りし、手前の家の屋根に飛び乗る。
仰丸の本心では、黒鷺に会った時と同じ速度で走りたい思いがあったが、はやる気持ちを抑え、黒鷺の身は案じてペースを保つ。人目を避けるために路地は走らず、出来るだけ屋根の上を走り抜けた。
黒鷺は仰丸の背で黒いロングスカートをたなびかせながら、瞬く間に通り過ぎていく景色に圧倒されている。
「どっちだ!?」
「あー、そのまままっすぐ」
黒鷺の声は、風にかき消されながらも仰丸を先導する。
家を出てわずか数分。本来なら徒歩で十数分かかる距離を、仰丸は少しの息切れもなく走り抜いた。
「えーいいねこれ。今度からこれで頼むよ。泊めてあげてるんだから」
「…朝か夜だけだ」
仰丸は黒鷺を下ろし、ビルの陰に隠れる。きょろきょろと周りを見渡してから路地へと出た。しかし、仰丸の視界の先には二人の子供の姿がある。
黒鷺の目にも彼らは映り、黒鷺は仰丸に身を隠すように合図を送る。
「なんだよ、ガキいるじゃねえか」
「…」
黒鷺は言葉を失っている。それは仰丸に対しての面目なさからではなく、視線の先の子供たちに宛てられたものであった。
その子供たちはどこか神妙な面持ちで何かを話し合っている。男の子は突入作戦の会議でもしているように熱弁し、女の子はそれに真剣な眼差しを向け、うんうんと頷いている。仰丸の耳には、彼らの声ははっきりとは届かない。
「…まさか」
黒鷺は驚いたように目を丸くする。
しかし、一見して子供たちにおかしなところは見当たらない。
「何だ、どうした」
そもそも、仰丸は早朝に小学生だけでいることの危険性を理解しえない。子供たちが人間であるということ、それ以上の脅威になることはなかった。
黒鷺の反応に、理解を示せないでいた。
一方、入念な会議では方針が固まったようで、子供たちはその表情に決心を宿して二手に分かれる。女の子は男の子に見送られ、元いた地下鉄の出口から、十字路を左に曲がるようにして姿を消した。
男の子は独りになり、自身を落ち着かせるように一呼吸置く。
後には引けないと、心を決めたようにゆっくりと階段を下り始めた。まるで戦場へ赴くような緊張感を漂わせている。
「やばい、私が見つける前にあの子たちに見つかってたみたい」
「…おい!」
黒鷺は仰丸を置いて、地下鉄の入り口に向かって歩き出した。建物の影に置いて行かれた仰丸は、何も分からずにその後を追う。
仰丸の安易な飛び出しには、普段の行動からは考えられない不用心さがあった。
「おいどういうことだよ!さっきのガキが危ないのか?」
「二手に分かれたから多分あの子たちは大丈夫。けどそうなら、既に一人犠牲が出てる。そしてもう一人犠牲になるかもしれない」
仰丸は、黒鷺の言葉が何を意味するのかは全く分かっていない。しかし、焦りが生んだ大きな歩幅は、それが緊急事態であることを物語っていた。
「俺はどうすればいい?追うのか?」
「もしできるなら、女の子の方を追って、捕まえたら目を塞いでほしい。あの角を左に曲がったら、ここと同じように階段がある」
「気絶されたらどうすんだ」
「それでいいよ、そっちのがマシ。もし気を保ってたら、びっこたっこを見ちゃいけないって言って」
「びっこたっこ…だな?分かった!」
黒鷺は納得した様子の仰丸を一瞥すると、男の子に気取られないようにゆっくりと階段を下り始める。
仰丸は、それを確認すると同時にスタートを切った。
周囲に視線がないことを確認し、空を見据える。曲がり角のルートを避けるため、地面を蹴って屋上まで跳んだ。本来、曲がらなければたどり着かない地点まで一直線に走り、自分の身体の四、五倍の高さを飛び降りる。
三百キロをゆうに超える巨体は、コンクリートの地面の奥深くにまでダメージを与える。まるで平面の地図上を走るかのように最短で道を切り拓いた。
仰丸が何とか通れる高さの入り口をくぐると、そこからは下へ続く階段が広がっていた。仰丸の身体は一跳びで階段を二十段飛ばすように投げ出され、その視界の端では張り出された広告が通り過ぎていった。
ぴたりと着地し、誘導されるように左へ曲がる。
視線の先には、仰丸が着地した音に反応して、今にも振り向こうとしている女の子の姿があった。仰丸は、その視線が自身を捉える前に小さい背に迫り、その顔よりも大きい手で目を覆う。
「…え!?」
「落ち着け!その…あれだ…びっこたっこ…?は見ちゃだめらしいぞ。黒鷺が言ってた」
「黒鷺って誰…?」
謎の状況にも関わらず、精神的優位は女の子に在った。
使い慣れた緩やかな階段。底の厚い靴を履いた黒鷺は少々苦戦しながらも、ゆっくりと一段一段降りていく。
日常で靴で困ることはないが、命がかかっている場面においては致命的であった。コツを掴みながらようやく階段を下りきる。
見慣れた構内の景色。券売機の先には地上で見た男の子、その先には柱に隠れている別の男の子の姿があった。黒鷺には全く面識のない子供であったが、その正体には見当がついている。
恐らく、男の子もまたそれに気付いている。その存在にじりじりと歩み寄り、深呼吸をして名前を叫ぼうとしている。黒鷺は男の子の賢さに感心した。惜しむらくは、既に手遅れであるということだ。
黒鷺はそのまま男の子の後ろまで近づき、目と口を押さえた。急に視界が暗くなった男の子は、やはり困惑したようでそこから抜け出そうとする。
「見ちゃダメだよ」
口を塞がれて話すことができない男の子は、その身動きを止めることで困惑を表した。黒鷺は対峙している者について、男の子は何を知っているのかを問いただす。
「びっこたっこを両側から見ようとしたんでしょ?君賢いね」
男の子が小さく頷くと、黒鷺はその口からそっと手を退けた。
「この方法にたどり着くってことは、初めてじゃないね?」
男の子は視界を塞がれたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。肝試し気分で、都市伝説を検証しようとしていた早朝の地下鉄。一瞬姿を消した友達が豹変した。
二人よりも先に階段を走って降りて行った彼は、たった今そうあるように、柱に隠れて笑っていた。彼曰く、それを境に友達の存在は皆の記憶から消し去られているという。
「びっこたっこは独りで見ちゃいけないの。その後は二人でも見ちゃいけない」
黒鷺はそれを伝えると同時に、反対にいる女の子も保護している旨を話す。手遅れな忠告に意味はないが、力が抜け始めた男の子の肩に手を置いて話を続けた。
「君、お名前は?」
「
「あっちの子は?」
「一番出口にいるのは…
「じゃあさ、乗っ取られたお友達のお名前は?」
「
男の子は自身の言葉を皮切りに、あからさまに動揺を始めた。
足の震えが伝播して全身がすくむように不安を露わにする。黒鷺は肩をさすって落ち着けようとするが、言葉を濁さずに話を続ける。
「言えないでしょ?みんなからだけじゃなくて、君たちの記憶からも消えていくんだよ。昨日の今日だから存在は認識しているけど、名前は覚えていないでしょ?」
黒鷺が厳しい現実を突きつけるのは、悪さをした子どもに意地悪をしようというわけではない。それは賢い男の子に、現状を乗り越えさせるための躾であった。
「酷なことを言うようだけど、お友達は諦めて。このままお友達の姿をしたびっこたっこが好き放題したら、何が起こるか分かる?」
「この世にびっこたっこが増える…」
「そう。どれだけ賢かろうが、怪しい都市伝説を根本から疑ってかかれる奴はいない。君のまわりでびっこたっこの話をした誰かは人間じゃないのかも。こういう行動に出るように仕向けられたかもね」
黒鷺は目を隠していた手を退ける。男の子の視界には、再び、柱から笑顔を覗かせる親友の姿が映った。
「最後のお別れをして。あっちの子は目を閉じてるから大丈夫」
男の子は一つ息をついて、柱から体を出して跳ねているモノを見る。
その様子は先ほどまでとは打って変わって、震えは止まり、怒りからか拳は固く握られていた。
「もういいです」
「そう、仰丸!もういいよー!」
黒鷺は柱の向こうで苦戦しているであろう仰丸に、撤退の合図を出した。
「もういいよー!」
仰丸は黒鷺の一言で活気づき、段差を無視して階段を駆け上る。仰丸に押さえられてからというもの、終始黙り込んでいた女の子。
しかし、その移動速度は浮遊感を感じさせ、うわ、と声を上げさせる。女の子が息を飲んだ一瞬のうちに仰丸に地上につき、女の子をゆっくりと地面に下ろす。
「いきなり押さえ込んですまん!黒鷺がくるからそのまま待ってろ!」
「だから黒鷺って誰…」
女の子の身体から手を離れると同時、仰丸は異常な跳躍を見せ、その視界に影だけを残して姿を消した。屋上から地上の様子を窺っていると、少しして黒鷺が男の子を連れて姿を現す。黒鷺は二人を並べて、何か講釈を垂れている。
女の子が何か話したかと思うと、黒鷺は呆れたような顔を天に向けた。子供たちからすればそれは天を仰ぐようにしか見えないが、仰丸はその呆れたにやけ面と目が合っていた。仰丸が迷惑そうな顔をすると、黒鷺は子供たちが勘づく前に視線を戻す。いくらか話した後に、何かが書かれた紙を子供たちに手渡して、それを置き去りに歩き出した。
黒鷺と別れた子供たちは寄り添うように、その場で座り込んでいる。女の子を置いて逃げた仰丸に寄り添う資格はない。視線を振り切り、角を曲がった黒鷺の元をめがけて飛び降りる。
「わお」
「置いてくなよ」
「置いてったのそっちじゃん。女の子に見られた?」
「見られてない。すぐに目隠したからな」
「ふ~ん、ねえ帰りも乗せてってよ」
仰丸は黒鷺を背に乗せると、行きと同じように屋根を伝って走る。
しかし、最初よりもゆっくりと跳ぶように屋根を渡っていく。その様子は、仰丸の中にある心残りの表れであった。
「なあ、あいつらもう大丈夫なのか?」
「十分忠告したよ。それに何かあったら私に連絡するように言ったから」
黒鷺は風に吹かれながら、やや声を荒げて話した。
「結局なんだったんだ?びっこたっこ…っていったか?」
「うん、仰丸がうちに来たときに言ったでしょ?さっきのが日本がヤバい原因」
「ちゃんと説明してもらわなきゃ分からない」
「じゃあ帰ったら説明するよ」
仰丸は確信に近づくために、笠待に近づくために、その脚の回転を一層早めた。
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