第12話 黒瀬十夏の抱き枕


     『その笠を乗せるのは』


 2024年6月29日

「今日はどうされましたか?」

 『玄関』から訪れた人物。医者か、カウンセラーか、黒鷺はそれらしい言葉遣いでその客人を招き入れる。

 しかし、心療内科の側面を持ち合わせているのか、やって来た患者の顔はやつれていた。そう見れば、真っ黒な部屋も心理療法の一種なのだろうか。

 仰丸はそう思いながら、陰から様子を窺う。


「今日は仕事について占ってほしくて…」

「仕事運ですね、どんなお仕事をされてますか?」

「普段は飲食店で働いているんですけど、そこで…」


 黒鷺は女の目を見て、真摯に話を聞いている。

 その手は膝の上に置かれ、卓上の紙とペンには全く手を付けずに、その話を書き留める様子もない。女は学業に励む傍らで、人間関係に悩んでいると語った。


「そこに2つ上の先輩がいるんですけどちょっと苦手で…そもそも私が仕事できないのが悪いんですけど、その人の注意の仕方がちょっとキツイっていうか…」


「お仕事を辞めたいとかではなく、その方との関係をどうにかしたいんですか?」


「そうなんです。私も迷惑をかけている自覚はあるんですけど、卑屈な叱り方をしてくるというか…例えば明らか見えてる物に見える?って言われたりとか、でも私が悪いから反論はできなくて、もやもやしてるんです」

 その言葉が表す通りに、女は顔を曇らせてそう語った。


 女はストレスを感じたのか、膝の上に置いた手で、いつしか自身の服の裾を掴んでいた。傍らで話を盗み聞いていた仰丸は、心情を理解することに必死である。

『自身の力不足で、違う人間に迷惑をかけているから直したい』

 言文通りの議事録のような解釈。しかし、仰丸の解釈ではそれが限界であった。


「そうですね…仕事を覚えることにかなり抵抗を覚えていませんか?」

 黒鷺は女に余裕を持たせるため、自身の手の位置を膝の上で整える。


「私は…結構仕事覚えるのが遅くて覚えても抜けるところがあるって感じですね…」


「だからこそ、いっそ辞めるっていう選択肢は無しだと思ってますよね。他のところで新しく覚えるくらいだったら、現状維持でいた方が良いと」

「…そうなんです。やってみたいこともありますけど…」

 女は一つ言い当てられる度に、その顔に生気を宿していく。


「今年の仕事運自体は良い方だと思います。ただ、その人との人間関係の回復はあまり見込めないかもしれませんね…できるだけ関わらずに続けるか、いっそ新しい仕事に就いても問題ないと思います。来年も下がりはしないですから」


「本当ですか!?」

 女は嬉しそうな様子で顔を上げる。黒鷺はそれを逃さず、優しい笑みを浮かべた。


「ええ、確か、何かされたいことがあると?」

 急に元気を取り戻した女。依然、黒鷺はにこにこと笑って返す。

 女が自身の展望を語って、お茶を飲み終えた頃。彼女からは鬱屈とした雰囲気が消え、すっきりとした表情をして帰っていった。

 女が家から出たのを確認して、仰丸は陰から姿を現す。黒鷺は一段落着いたように、白いマグカップに入った、温かいカフェラテを飲んでいた。


「随分暗い女だったな」

 一息ついてカップを置いた黒鷺。仰丸はソファで伸びているそれに話しかける。


「かなり悩んでるみたいだったからね。責任感強いタイプかな」

 黒鷺はその姿勢のままで、背後にいる仰丸に言葉を飛ばす。


「だが、何も解決してないだろ?何であんな元気になったんだ?」

「人間はなまじ脳が発達したせいで、思考を整理しなきゃいけないんだよ。ここはそういうことを言いやすい場だからね」


「結構簡単に立ち直れるもんなんだな」

「もちろん私が一般人として彼女と話していたら簡単にはいかないし、もっともっと長引いていたかもしれない。でもここでは私は占い師だから」


「占い師?」

 仰丸は聞きなれない言葉に耳を立てる。


「人がこの先どうなっていくかを教える人だよ。さっきも仕事運とかいう言葉聞いたでしょ?人は偶然に起きる出来事に、運という名前を付けないと信じられないんだよ。変だよね」


「じゃあ…嘘つきってことか?」


「まあ…否定はできないけど、実際持ち直せたからいいじゃんね」

 黒鷺はそう言って、再びマグカップを手に取る。

 その背後からは、失望の眼差しが向けられている。黒鷺は背中越しにそれを感じ取って、途端に言い訳を始めた。


「人間はないものに縋りたいもんだよ。宗教だって実在するか分からないものを崇拝する人間で成り立っている。心のどこかで救いを求めているから胡散臭くても信じるんだよ」

 笠待の雑多な話を聞きかじっていた仰丸は、人間の信心深さには多少の理解があった。そして、恐怖を目の当たりにした時、何かに縋りたくなる気持ちも知っている。

 ただ、黒鷺の詭弁に騙される仰丸ではない。


「そ、そうなのか…」

「ねえひどくない?晴に毒され過ぎだよ」

 黒鷺はソファの縁に頭を預け、背後に立つ仰丸を見上げて言った。その顔は不服そうに、仰丸に対して苦笑いを浮かべている。


 休息も束の間であった。

 今度は裏口の方、『仰丸にとっての玄関』からシャッターを叩く音が聞こえてくる。その威力は、既にノックを試した後であることを思わせた。

 黒鷺は腰を上げ、足取り軽やかにシャッターへと向かう。

 ゆっくりと開いたシャッターの向こうには、一人の女の子。影から見ていた仰丸にとって、記憶に新しい姿がそこにはあった。


「ごめんねぇ、ちょっと別件で聞こえなくて」

「あ、全然大丈夫ですよ!まだお取込み中だったら後から来ます!」

「もう終わったから大丈夫だよ、上がって」

「じゃあ…お邪魔します!」

 表情が見えずとも、にこやかな、明るい雰囲気を感じさせる陽気な声。姿が見えずとも、軽やかに歩く姿を想起させる。

 仰丸の脳内では十中八九、それが黑瀬であると確信していた。影からちらりと見えたスカート。あのときの黒瀬とは、また違った雰囲気を仰丸に思わせる。


「あれから落ち着いた?」

「はい…!手の震えは止まりました。でもまだ結構怖い夢は見たりしますね…」

 黑瀬と思わしき人物はそう言って笑う。


 黒鷺の口ぶりから察するに、彼女がここに来るのは初めてではない。二日前、黑瀬は平静を保ちながらも、憔悴していたのを仰丸は目にしていた。

 そして仰丸は、崩壊しかけたメンタルを立て直したのは自分だ、という過去の栄光を未だに引きづっている。


「陽田くんはどう?」

「哉十は元気です。なんか私のことを巻き込んだとかで落ち込んでますけど、気にすんなって言ってます!」


 黒鷺と思わしき人物によって、陽田哉十の名前が挙げられた。

 ソファに座って、黒鷺と話す人物が何者か。そこにいるのは紛れもなく、自身が肩に乗せて一緒に山を走り抜けた黑瀬である。

 確信した仰丸は、少しの迷いも見せずに陰から動き出した。


「十…夏…?だよな?」


 姿を現した手前、当然仰丸は引き返すことはできない。自信がない声で話しかけた。黒鷺は瞬時に仰丸の方へと視線を向ける。もしも笠待であったなら、仰丸には軽蔑の目を向けられていたことであろう。

 しかし、黒鷺は一瞬驚愕した表情を浮かべたと思えば、すぐに表情に落ち着きを取り戻してため息を吐いた。

 諦めとともに察しの早い黒鷺であったことが幸いする。


 仰丸は黒鷺を一瞥した後、黑瀬へと目を向けた。その姿は黑瀬そのもの、しかし半開きの口で放心している姿に、だんだんと確証が薄まっていく。

 仰丸がどう反応すればよいかと迷っているうちに、黑瀬の思考が追いつく。

 そこから放たれる輝かしい表情は、その彩度を無限に明るくさせていった。


「仰丸さん!!!」

 眩しいほどの笑顔で目くらましを食らった仰丸。

 ソファから飛び出した黑瀬のタックルを腹部で受け止めた。その不意打ちは、食らった仰丸に安心感を与える。


「なんでいるの!?」

「まあちょっとな…」

 その明るさに際限がないのではないかと、仰丸は黑瀬を疑わしく思った。その間も、黒瀬は表情をより一層明るくさせる。

 白い制服に笑顔が良く映える。


「どういうこと?仰丸、十夏ちゃんのこと知ってるの?」

「ああ、一昨日笠待と、十夏たちを助けに行ったんだ。なんか記憶がなくなるから覚えてはないんだとさ」


「それは知ってるけどさ…人前に出るの嫌じゃなかったの?」

「それは…笠待が無理やり…」

 黒鷺は納得したような顔をすると、それ以上は聞こうとしなかった。


「黒鷺さん!私、仰丸さんのおかげで立ち直れたんですよ!泣きそうだったとき、仰丸さんが手を握ってくれて…!」

「へえ…人間らしいことするんじゃん」

「絶対笠待に言うなよ」

 黑瀬は磁石のように仰丸にくっつき、頑として離れようとしない。


「肩車して一緒に山を一周しましたよね~?」

「…これ以上は言わないでくれ」

 仰丸はそれに呆れる余裕もなく、顔に緊張が走っている。それを見た黒鷺は、良い気付け薬だとして救いの手を差し伸べなかった。


「さ、仰丸が隠れなくてよくなったところで、本題に戻ろうか」

 黒鷺は先ほどよりもリラックスというべきか、よりやる気を感じさせない格好であった。一方のソファには、仰丸と黑瀬が無理やり密着して収まっている。


「で、どんな夢を見たの?」

「えーと…今朝は病院の夢です。すごい寒くて不安でした。哉十が私を背負って走ってくれてたけど、ずーっと廊下が続いててどこかに着く前に目が覚めました」


 黒鷺が黑瀬から聞き出したのは悪夢。嫌な記憶を掘り起こすことは、はたして良いことであるのかと、仰丸はインチキな占い師を訝しむ。

 しかし、趣旨の違う質問は、入口が二つあることにも関係があるのだろうと、再び話を聞く態勢を取る。


「それはきっと経験したことだろうね。晴から私を紹介されたときに、病院のことについて聞いてるよね」

「はい。確か…入るたびに記憶がリセットされるって。記憶は自分で選べるけど、何回も入ると記憶が薄くなっていって出られないとか…」

 あの奇妙な病院は一度出たら二度と入らない方が良い。仰丸は笠待が言っていたことを思い出した。


 覚えておくべき記憶を保持した状態でいられるのは最初だけであり、二回目以降は加速度的に記憶の選択肢が減少し、脱出できる可能性が0に近づいていく。

 黑瀬の記憶にその光景が刻まれるまで、どれほどの時間彷徨ったのであろうか。仰丸には全く想像しえない。


「晴によれば、十夏ちゃんたちは少なくとも二日間は閉じ込められてるって話だからね。中で色んな体験をしたとも考えられるし、同じことばっかりしていたのかもしれない」

 トラウマともいえる事実であったが、幸いにも記憶の薄弱さが良い方向に作用する。黑瀬の意識では、それが仰丸と出会えた思い出として置換されていた。

 潜在意識に記憶が刻まれている、それによって悪夢を見てしまうのではないか。それが黒鷺の見解であった。


「どうやったら見なくなりますかね?」

「うーん、仰丸でも抱きしめてたら?」

「仰丸さんうち来ます!?」

 黑瀬はその言葉よりも先に、仰丸のことをきつく抱きしめている。

 仰丸の人間に慣れたいという目論見は、予想外の形で叶い、黑瀬十夏に慣れるという急務に変化した。


「…俺はここにいるからいつでも来な」

「やったあ!というか笠待さんは一緒にいないんですか?」

 意図せずにタブーを聞いた黒瀬。仰丸は痛いところを突かれ、言葉を詰まらせた。咄嗟に黒鷺の方を見るが、目の奥からはNOの二文字が窺える。


「いつもは笠待の家にいるんだが…ちょっと事情があってな。ここにいることは内緒にしてくれるか…?会いに来ていいからさ…」

「喧嘩ですか~?時間置いて仲直りするんなら、言わないであげますよ!」

「ああ…するよ。俺だって笠待に許してもらわなきゃ困るから…だから絶対に言うなよ!?」

 にこにことしたその表情は、仰丸を焦りを与えるばかりであった。


「さ、嬉しそうなところ悪いけど、今日はここまでだよ」

「え~…じゃあまた明日来ていいですか?」

「いいよ、仰丸のこと好きにしな」

 仰丸は黒鷺のにやりとした口元と視線が引っかかり、それを追っていくと、そこには目を輝かせている黑瀬の姿があった。


「じゃあ喜んで帰ります!」

 シャッターの切れ目から見えなくなるまで手を振り続けるその姿は、仰丸にあの日の山の思い出を思い起こさせる。


「十夏ちゃんと仲良かったんだ?」

「まあなんだ…懐かれたというか。それよりも聞きたいことがある」


「何?」

「何で入口を二つに分けてる。俺はありがたいが、非常口にするならどっちも出やすくする必要があるだろ」

 仰丸は黒鷺がシャッターに労力をかけているのを見ていた。自身のように人外でない限りは不必要なものであると、仰丸は疑問に思う。


「それは、お客さんの悩みによって、私の対応が変わるから。何か分かる?」

 初めの来客と黑瀬。一見変わりない両者の間には、一つ明確な違いがあった。


「十夏のときは何か書いてたな。最初の女のときは一切手を付けなかったのに」

 黑瀬の夢の話を聞く最中、黒鷺はテーブルの上で何かを描いていた。仰丸がテーブルを振り返ると、その紙には何かの絵が描かれている。


「これは…」


 そこに写されていたのは、仰丸にとって記憶に新しい光景であった。

 細部は空白のままでありながら、それは鮮明に仰丸の記憶を呼び起こす。黒鷺が描いたのは、黑瀬の話を基にした病院の廊下であった。


「晴と一緒でさ、私も能力あるんだよね。私のは貰い物だけど。こういっちゃなんだけど、使い勝手悪いんだ。いつか見せてあげる。じゃ、私これから一時間くらい寝るから」

 黒鷺は仰丸を横切り、階段の方へと歩いていく。


「おいまだ昼前だぞ」

「昼寝だよ~」

 黒鷺はそう言うと、すたすたと二階へ上がっていった。仰丸はそれを見送り、ソファに腰を落とす。

 再びテーブルの絵を見るが、精巧ではないそれが確かにあのときの廊下を思い起こさせる。どこまでも続いているような、際限のない真っ暗な廊下。まるで体験したかのように鮮明であった。


 昨日の発言といい、この絵といい、黒鷺は謎に包まれている。

 日本がヤバいとはどういう意味なのか。仰丸はその疑問を早々に諦めると、ソファに背中を預けて目を瞑り始めた。


「笠待、今頃何してっかな」

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