第11話 2024年9月4日21時15分 46-37-2 505


     『その笠を乗せるのは』


2024年5月25日

「仰丸、だったっけ?」

 黒い服を纏った長身の女は、建物の陰から仰丸に呼びかける。笠松が死ぬ直前に言っていた、こだまという人物の特徴とまったく一致していた。

 肩の下まで下ろした長髪を手で梳かしながら、仰丸の反応を窺っている。


「ねえ、なんかあったんでしょ?まっさらだったこの紙にメッセージが出たってことは、十中八九私に向けられたものだよね。緊急で助けが必要なら私にこの命令を出すのはおかしいよ。間に合わないから」


 陰から動かない女に対し、仰丸は不思議と笠待と似たものを感じていた。言い聞かせるように話しかけるその様は、意地の悪い質問をする笠松を想起させる。

 そう思えば思うほど、自身の感情をせき止める何がが決壊して、何か不明なものに精神を蝕まれる。


 仰丸は街をどれだけ走り回っても息が切れない。しかし、立ち止まって女と対峙してからは、確かに息を上げていた。

 ただ心肺が音を上げているのではない。起きたことのない身体の不調を皮切りに、仰丸の精神は完全に崩れ、思考を放棄しないという笠待との約束を破る。


「…助けてくれ」


 仰丸がそう発すると、女はやっと陰から出て仰丸に歩み寄った。鋭くも敵意のない目をした女。仰丸は女から視線を切り、膝をつくと視界はだんだんと地面で埋まっていった。

 灰色に埋まっていく視界が鬱陶しくて、それでも前を向くことができない。


「聞いてるよ、困ったときはペットを引き取ってくれって」


 仰丸は疼く足を鎮めるように、その場にしゃがみこんだ。何に追われるわけでもないのに、脳内は逃げ出したい気持ちでいっぱいであった。

 身体は寒気を感じさせるほどに震えている。その姿はまるで溺れて衰弱した猫のようであった。女はすっかり仰丸の傍まで近づき、白い指で仰丸の頭に触れ、優しく撫でた。


「大丈夫」

 女は仰丸に何かを問うことはなく、その場で落ち着かせるように寄り添っていた。


 アレルギーのように、拒否反応で震えている大きな身体を包むように抱き寄せる。仰丸の身体は、長身の女であっても覆いきれるものではなかった。しばらくしてその手を離し、仰丸が自力で起き上がるのを待つ。

 仰丸はむくっと立ち上がると、女の方に向き直った。


「ゆっくり聞かせてね?」

 仰丸は颯爽と歩き出す女を見て、その後をついていく。その背は腰先まで伸びた髪で隠されている。

 ただ悠然とどこか余裕のある雰囲気で、しかし何者も寄せ付けない緊迫感を放っていた。


「ついたよ」

 世間一般の大きさをしたドア。普段、窓を出入口としている仰丸は、玄関という当たり前の存在に気付かされた。

 仰丸はドアの前で呆然と立ち尽くし、入れないことを目で伝える。女は分かっていたように何も言わず、指差しで家の裏へと誘導する。庭へと回ると、家の裏にはシャッターが下ろされており、仰丸でも屈めば入ることができるサイズであった。


 素通りせざるを得ない玄関にはこれといったものはなかったというのに、裏口には黒鷺占霊所という看板が掲げられている。まるでここから入るのが正規である、というような構造であった。


 シャッターが勢いよく上がる。粗雑な玄関を抜けた先は、一変したような空間が広がっていた。家具は黒を基調に揃えられ、シャッターが景観を阻害している。

 女の身なりを見ても、かなりの意識があることを感じさせた。


「座っていいよ」


 女が指したのは、糸くず一つ目立たない黒いソファ。仰丸は自身の毛がついてしまうという懸念を払拭して、柔らかい材質に腰を落とす。女は仰丸が座ったのを見ると、向かいに座った。

 二人掛けのソファは仰丸がちょうどよく収まるサイズで、ふかふかとした感触は仰丸にとって新鮮であり、それが逆に仰丸に不安感を募らせた。


 木製のテーブルには何のためか、罫線の入っていない、まっさらなコピー用紙が重なって置かれている。恐らく何かを書くためであろう、そう連想させるように黒いボールペンが重石になっていた。

 仰丸は目線を下に向けていると、女から声がかかって、顔を上げる。


「何があったか教えて?」


「…お前誰なんだ」

 仰丸はまともな応答をしない。女は口をつぐみ、出掛かったため息を抑え込む。少しの間を空けて、自分の身を明かし始めた。


「私は黒鷺くろさぎこだま。君のことをどうこうする気はないよ。ただ、話に聞いていた様子じゃなかったから何があったのかなって。まだ落ち着かないならちょっと休憩する?」

 黒鷺が正体を明かしたことで、不安定な仰丸の心は大きく揺さぶられる。いつもの、自身のテリトリーから動こうとしない引っ込み思案なその思考は、既に仰丸を押さえつける効力を失っていた。

 黙り込んでいた仰丸が、堰を切ったように話し出す。


「…笠待が…殺された」

 仰丸が発したほんの一言。それがその場の空気を一変させた。


「調査に行こうとしたら…笠待が寝たまま起きなくて…突然起きたと思ったら今度はその場所にすぐ向かってくれって。怪異に狙われてるっていうからやられる前にやろうとしてたのか。でも建物に入ったら、もう笠待には男が張り付いてた。俺がそれに気づく前に…笠待はそいつに潰された…」

 黒鷺はそれを信じられないように、目を見張ってただ聞いている。


「…それほんと?」

 黒鷺はスマホを取り出し、おもむろにどこかへと電話を掛ける。独特な着信音が流れた後、電話の相手が応答する。

 黒鷺はスピーカーにしたそれを、仰丸にも聞こえるようにテーブルに置いた。


「もしもし、晴~」

「こだまか、急にどうしたの?」

 仰丸は自身の耳を疑う。その場には二度と聞けるはずがない、そう思っていたはずの声が響いた。


「今暇してて、何してるかな~って」

「ちょうど怪異倒し終わったとこ。変なの来たけど合真が吹っ飛ばしたよ、綾もいる。もう終わったけどそっち行く?」


「いやこのあとお客さん来るから大丈夫。ちょっと時間空いたから電話しただけ~じゃあまたね~」

「勝手だなあ…じゃあね」

 笠待の乾いた笑いは、電話が途切れる音とともに消え入った。


 仰丸と黒鷺、両者はテーブルを挟んで目を合わせる。信じられないものでも見たかのように、目を見開いていた仰丸とは反対に、黒鷺はにんまりと、ただ仰丸を落ち着かせるための笑みを作っていた。

「生きてた」

「そんなわけねえだろ…俺の手に笠待の血がついてんだぞ…!しっかりこの目で…」


「わかってるよ。見間違えたんじゃないの~?なんて言わないよ」

 仰丸は黒鷺の言葉に呆気に取られる。


「確かに晴は死んだんだろうね。私は仰丸を信じるよ」

 仰丸は、そんな黒鷺を見て口を閉ざした。その目は決して笑っていなかった。


「この世界に生きてるから信じられるんだけどね。でも晴にそんな力があるのは聞いたことがないなあ。それに生き返れるなら、このメッセージの意味がないからね」

 黒鷺は紙切れをひらひらと揺らしている。仰丸は呼吸を落ち着けると、不思議に思うことを口にした。


「さっきから晴ってなんだ…?」

「知らないの?下の名前。笠待 晴っていうんだよ」

「知らねえ…そんなんで呼んだら笑われちまうよ...」

「晴いじわるだからね」

黒鷺は、笠待と仰丸の関係性を思い浮かべて、落ち着いた笑みを取り戻した。


「生き返るところは見てないんだもんねえ…晴がやられたあとはどうなったの?」

「笠待は黒鷺に会えって、さっきは止まったのはたまたまだけどな。よく見れば笠待の言った特徴と一緒だった。あとは」

 仰丸は笠松に貰った紙切れ、端が錆びた血で染められたそれを黒鷺に見せる。黒鷺は不思議そうな、また感心しているような表情でそれを手に取る。


「数字…?笠待って日本語以外も出せたんだ」

「初めてだと言ってた…せっかくだから俺にくれてやるって」


「なんか関係ありそうだね、202409042115 46-37-2 505か。普通に解読するなら最初は2024年9月4日21時15分だけど…」

「分かるのか…!?」

 仰丸はテーブルから体を乗り出して、自身の頭で全く解けない暗号を瞬時に解いた黒鷺に詰め寄る。

 黒鷺は少し驚いたような素振りで半身引いた。


「まあ最初の羅列はよくあるやつだからそんなに…多分大事なのは後ろの46-37-2と505だよ。住所とか推察はできるけど、とりあえず分かるのはここまでかなあ」

 黒鷺がソファに体を預けると、仰丸もテーブルから身を引き、ソファに体を沈ませた。黒鷺は悩むようにして天井を見つめている。

 笠待であったならば、笠待が持つ能力があったならば、このようなものは瞬時に解決していたかもしれない、と心の中で嘆く。そんな当人を巻き込んだこの問題は、世の未解決問題に匹敵している。


「んー。ねえ、晴が死んだときに誰か見たりした?合真あいまってやつとか、強そうなやつなんだけど」

「そんな強そうな人間は見てないが…女の子は見たぞ。俺のことを睨んでたから俺が殺したと思ってるんだろうな…」

「…それってどんな子?」

 黒鷺の真剣味を帯びた目が仰丸を見据える。それが重要であるとは思っていなかった仰丸は、必死に記憶を遡り、その特徴を思い返す。


「髪を肩くらいまでまっすぐ下ろして…背は…笠待よりは大きかったな」

「その子どこかで見覚えない?」

「どこかで、というかもう何回も見てるぞ。昨日も見た。笠待と山で別れた後に、迎えに来た子だ」

 黒鷺は考え込むような素振りをして、自身の腿で頬杖をついた。


「それなんか引っかかるね…今、晴と一緒にいる由亥ゆがい綾ちゃんって子なんだけど。晴は自分が死んだことは覚えていなくて、その場にいた仰丸は覚えている。綾ちゃんはどうなのかな」


「そいつにに生き返らせる力がある…とかか?」

「綾ちゃんは何の力も持ってないよ。もし何かに目覚めたなら綾が気付くと思うから。でも現状だと綾ちゃんに何か関係があるとしか言いようがないよね」

「…」

 何もかもが不確定な、異質な状況での推察は、仰丸の頭がパンクを皮切りに終止符が打たれた。


「まあ、笠待が生きてるならなんだっていい」

「そうだね、でも解決するまでは晴のとこには帰れないよ。うちに泊まっていいから。こんな状況で晴の元、ひいては綾ちゃんの近くに帰すのはまずいし」


「俺は全然山で過ごせるが…いいのか?」

「せっかく毛並み整えてるのに山帰ったら晴キレるよ」

「…世話になる」

 小言を並べる笠待の姿は、仰丸にとって想像に難くない。

 黒鷺の提案にすんなりと乗った。そして数十分前に見た何時間にも思える悪夢は、本当は夢であったのではないか、という錯覚に陥りかける。

 しかし、頭の中でぼんやりとしていた笠待の姿が、今はっきりと浮かんだことで、仰丸は現実を見つめ直す。


「なあ黒鷺は、笠待の仲間なのか?」

「友達だよ、中学から仲良くなってそれからずっと一緒だね。というか晴から私の話聞いたことないの?周りのこととか」

 仰丸は、笠待に聞かれたトロッコ問題なるものを思い起こす。


「でたらめなことを言うやつの話は最近聞いた気がするな」

「それは合真、他にもたくさんはいないけど仲間がいるよ」


「仲間ってのも引っかかるが、黒鷺たちは何をしてるんだ?毎日色んな所に行って、化け物だったり変な人間倒して、何をするわけでもなく満足して帰る。何のためだ?人間を守るためか?」

 仰丸はこれまでの疑問を、一つに纏めて目の前の恩人にぶつけた。

 既にその表情からは不安感が抜けきっており、完全なる好奇心が仰丸の心を突き動かしている。一方で恩人はというと、その疑問に肩を落としていた。


「…本当に何も聞いてないの?」

 その落胆は仰丸ではなく、笠待に向けられたものであった。


「ああ、教えてくれなかったし、俺には関係なかったから」

「よくそれでついていってるね…仰丸ぐらい強かったら教えてもいいだろうに」

 その様子はさながら仲間はずれにされた生徒がいて、それを宥める先生がいる放課後の教室。

 窓から夕陽は射さしておらず、二人を照らすのは心地の良い陽の光であり、おおよそ想像される放課後の様相は呈していない。


「簡単には説明できないかなあ…膨大だから」

「なら人間のことを学ばせてくれ」

「人間のこと?」


「あぁ、俺は人間のことを知るために笠待と一緒にいた。あいつがいなかったら誰からも知ることができない」

 再会が叶うとき、仰丸が養った微かな人間の部分が抜け落ちていれば、笠待が落胆するという未来は明らかであった。

 今までに教えたことが無駄であったと、不平を漏らすことであろう。しかし幸運にも、仰丸の前には師事するに値する人間がいる。それに、笠待に近い人間といえど、どう違うのか。仰丸の知的好奇心はくすぐられた。


「いいよ、うち結構人が出入りするから」

「助かる」

「でもお客さんビビるから隠れててよ」

「…言われなくてもそうする」

 新たな隠れ家を見つけた仰丸は、落ち着かない空間に気を揉みつつ、どこか親近感の湧く黒鷺に興味を持ち始めた。


「まあ今言えるのは」

 黒鷺が笠待と同様の悪い笑みを浮かべる。


「このままじゃ日本がヤバい~!ってとこかな」

「ふっ」

 仰丸は黒鷺の腑抜けた言いぶりを、自身の暗い感情とともに笑い飛ばした。

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