第5話 あいつは俺を馬鹿にする


     『その笠を乗せるのは』


 2024年6月27日


「陽田くん、君のせいで十夏ちゃんが閉じ込められていることがわかるかな?」


 陽田と笠待の間に空虚な時間が流れる。初め陽田は、自分が責め立てられていることに気が付かなかった。どこからともなく現れた笠待という女。何の事情も知らない、信用に値するかも怪しい女に自身が元凶だと決めつけられる。

 この病院に幽閉されているのが自分のせいだと突きつけられた。非難されると思いもしない陽田は、困惑で少しの怒りも沸き上がらない。


「ここにいるのは俺のせいだって言いたいんですか」

「そう言ってる。どうやってここに来たのかは知らないけど、最初は違っただろうね。でも、君の中に孤立した記憶がないことがその証拠なんだよ」


 笠待は鼻を明かしたように、やや挑発交じりに話す。しかし、陽田は話の先が見えず、明らかにこの状況に詳しい笠待に対して反論できずにいた。

 見透かしたような目をした笠待が話すのを、ただ聞いているしかない。


「陽田くんには友達の記憶がないって言ったね。それは悪いことじゃないよ。君たちはここに入る前に役割分担したんだから」


「そんなの何で分かるんですか。僕たちだって覚えてないんですよ?そもそも突然連れてこられてそんなことできる保証なんてない」


 陽田は笠待に当然の反論をぶつける。しかしそれを振り切るように、笠待は確信を持った目をして持論を語り続ける。


「私たちの記憶をもう一度説明しようか」


 笠待はポケットから取り出したペンと、どこからか小さい紙きれを何枚か用意して、ナースステーションへと向かう。カウンターに肘を付き、再び説明を始めた。


「私は記憶の条件、君たちの名前、仰丸の存在を憶えている。そして仰丸は、この病院に二度は入っていけないことと、私の存在を憶えている」

 カウンターに置かれた紙切れに、一つずつ記憶の詳細が書かれていく。


「仰丸は記憶の一つを無駄にしてしまった。私がここに来る前に仰丸のことを犬と言ったせいで、それを憶えてしまった。私にその記憶はないけど、しかし憶えていることに変わりはない。確実にここに来る前の記憶で、特徴的な事柄を持ち込んだ」

 笠待が紙切れを三枚掴み、陽田の目の前で見せる。


「お互いの存在、これは病院に来る前に特徴づけられた記憶ではない。それ以前から脳に焼き付けられた記憶だ。私たちは、ここで目覚めてお互いの存在に違和感を抱かなかった。いわば当たり前の記憶」

 存在と書かれた二枚の紙をポケットにしまう。


「そして、無駄に孤立した仰丸の記憶は役には立たない。だから要らない」

 犬と書かれた紙を廊下に投げ捨てる。


「残ったのは名前と病院と、記憶の自体の記憶。これで私たちは自分たちの意志でここに来て、何度もここから抜け出せない君たちを助けに来たことが分かった」

「何度も?何でそんなことが分かるんですか」

「十夏ちゃんの軽い足取りが証拠。おぼろげな病院の記憶がある。それはここを脱出するのに必要で、ここを一度脱していないと覚えることはできない。」


「君たちが、せっかく抜け出した病院にわざわざ入る理由は分かる?」

「友達を救うためですか」


「分かってんじゃん。でもここに二度は入ってはいけない。なぜか分かる?」

「…分からないです」


「最初とは条件が違うから。ここに入ってからの記憶を基に、新たに選ぶ記憶は信頼に値しない。今のように、記憶の条件を教えてもらえない状況だったら、疲労がたまり、まともに記憶することができなかったら、もうどうしようもないかもしれない。君は十夏ちゃんの存在は覚えておきながら、残り二つの選択肢を蔑ろにしたんだ。君は任されたはずの役割を全うできなかった」

 つらつらと、笠待の言葉が陽田に与えるのは無力感だけである。


「…そんなの…どうしろっていうんですか」


 自身も分からないことを言い当てられた陽田に、何かを反論する余地はなかった。ただ愚直に、笠待に対して策を乞うことしかできない。


「ごめん、言い過ぎた」

 笠待の声はそれまでの圧を込めたものから、柔らかい雰囲気に戻っていた。


「私に君を責める権利はない。あるならその権利の持ち主は十夏ちゃんだけだよ。私は十夏ちゃんに言う気はないし、十夏ちゃんも君を責めないと思うけどね」


「そうですか…」


「ここまで言ったのは十夏ちゃんについて話したかったからなんだ。私が声かけた後、十夏ちゃんの手が震えていたの気付いた?」


 依然として落ち込んだ様子の陽田に、笠待は希望を抱かせるべく本来の目的を語り出す。それはこの状況の解決に繋がること。


「気付きました。明るく振る舞ってたけど、本心では怖がっていたんですかね…」


「十夏ちゃん、私たちと別れるときまでずっと震える手を押さえてたよ。パニックになってる。さっきみたいなこと十夏ちゃんにも話していたら、おかしくなっていたかもしれない。だから陽田くんに話すしかなかったんだ」


 陽田は真剣な眼差しをしている笠待を信じ、その弁解が仕方のないことであると受け取る。その表情に正気を取り戻し、笠待の話に意識を向ける。


「十夏ちゃんって精神的な病気を患っていたりする?」

「俺が知る限りは持ってないです。何ならいつもはもっと明るいんですよ。驚くことはあっても平気な顔してて、今日のは流石にイレギュラーというか、あんなに怖がるんだなって」


「そっか、じゃあここに来てからしたこと、細かく教えてくれる?」

「全部ですか?別に大したことはしてないですけど…」


 陽田は自分たちがしたことや、身に起こったことまで細部を話した。病室前とナースステーション、それぞれ別の場所で目が覚めたこと、ナースステーションで合流して水を飲んで休憩したこと。そして現在に至るまでを説明しようするのを、途中で笠待が制止する。


「待って、病室入ったの?十夏ちゃんだけ?」

「はい、覗くだけだから一人で十分と言われて。様子は伺ってましたが特に変なことは起きてないはずです」


 陽田が気付いた時には、笠待は自身の手の中から二つ折りの紙を一枚、さっと取り出して開いていた。


「もしさ、病院に友達がいなかったら心置きなく脱出できるってことだよね」

「すぐにでも」


「記憶に制限が掛かっている以上、ここは入った人が抜け出せなくなる状況が望ましい建物。人を探しているこの状況だからこそ、閉じ込めるにはある程度の記憶の保持が認められた方が良いことは分かっている」


「しかし、抜け出せてしまう。もし君たちほど友情の結束が固くない場合、見捨ててしまうだろう。人を閉じ込めるには罠が足りないよね」

 陽田は笠待の言いたいことを、それとなく察する。


「十夏は病室に入って何かがおかしくなってしまった、ということですか」


「病院らしく、病人は安静にしておくべきだからね。十夏ちゃんはラッキーな方なんじゃない?」


 笠待は、病院に人を閉じ込める機構が二つあると見立てた。一つは記憶の制限。一切の記憶を忘れさせるのではなく、断片的に覚えさせることで侵入者の想像を膨らませる。今回のように一人行方不明者がいれば、延々と貧相な記憶で院内を彷徨うことになる。


 しかしこれでは、場合によっては簡単に脱出できてしまうと笠待は考えた。もっと人の精神や身体に影響を起こす仕掛けがしてあると。それが無数にある病室である。陽田の話では、病室には誰の気配もない。しかし、そこにいた患者が治療に奮闘したであろう痕跡はあったという。黒瀬が入った部屋には点滴や松葉杖などの医療用具はなく、そこには備え付けの家具に、ベッドがあるだけだった。


 だんだんと薄弱になっていく記憶、それが生み出したものは行方不明の友達という虚像。笠待の乏しい医療知識では、判断しかねるものだったが、それを陽田の言葉で結論付ける。


「恐らく十夏ちゃんは精神病を患った。重度か軽度かは分からないけど、その部屋の病人がそうだったんだ。そしてもう分かってるかもしれないけど、行方不明の友達なんかいない。またどこかの病室に入ってしまう前に合流しよう」


 確証もなくどこかからの知識で成り立った結論は、陽田にはやけに論理立って見えて、有無を言わせず笠待の後を付いていかせた。腕を振って走る笠待の手には、先刻持っていた紙が握られている。風で揺れるその紙には、”入るな”と書かれていた。




 仰丸は黒瀬と並んで歩く。いつも以上に歩幅に気を使って、無限に続く道を進んでいた。黒瀬には気を張った仰丸を気にしている様子はなく、至って楽しそうに仰丸に話しかける。


「ねえ、仰丸さんって狼なんでしょ?やっぱり足って速いの?」

「あ、ああ。まあ人間には負けないな」


「凄いなあ、笠待さん乗ったことあるって言ってたし。離れすぎて合流できなくなったら困るから、って笠待さんに止められちゃったけどね」

「…ここを出たら乗せてやらないこともないぞ」


「本当!?約束だよ!」


 小指を差し出した黒瀬。しかし、その手は震えていた。手を出すことに躊躇している仰丸に、黒瀬は不思議そうにしている。


「…どうかしたの?」

「なあ、俺のこと怖いんなら正直に言っていいんだぞ。すぐに笠待の方に向かう」


「え、怖くなんか…」

 黒瀬は自分の手が震えていることに気付くと、どこか物悲しそうな表情で笑い、それを後ろ手に隠す。


「…違うの。なんかここに来てから気持ちが落ち着かなくて。哉十が平気そうだから大丈夫だって自分に言い聞かせてたけど、どこかでもう耐えられなくなったのかも」


 黒瀬は酷く震えた冷たい手で、もう片方の手を押さえている。目の前で悲しそうにしている人間に、自身が出来ることは何か、人間にしてあげられることは何か、仰丸にはそれが全く分からなかった。笠待のように気の利いた言葉で慰めることは出来ない。そうして考えているうちに、黒瀬の目には涙が浮かび始める。


 今にも取り返しがつかなくなりそうな様子に更に困惑する仰丸。そして咄嗟に、黒瀬が胸に抱えていた震える手をそっと握った。

「ほら、手繋いでやるから。頼むから泣くな」


 柄にもなくぎこちない笑顔で、黒瀬の顔を覗き込む。人間と骨格が違う仰丸の笑みは、見る限りでは威嚇と遜色なかった。しかし、黒瀬の顔から悲しい表情が消えたことで一息つくこととなる。そのまま手を繋いで再び廊下を歩き始めた。


「笠待に見られてなくてよかった…きっと数ヵ月はバカにされる」

「あはは、仲良いんだね」

 黒瀬は先ほどには見られなかった、屈託のない笑顔を見せる。


「ねえ、仰丸さんはこんな優しいのに、何で人と会うことが怖いの?」

「ん?それはなあ…」


 陽光の差し込む山の中腹。仰丸は腹ごしらえのために木々をかき分け、獲物を探す。しかし、目にするはずのないものを見て身を翻した。


「俺が山中を歩いてたら人間の子どもがいたんだ。そこは山の中心の方だったから、そんなところで人間なんて、それも子どもなんて見たことがなかったから急いで隠れたんだ。頼むから気付かないでくれと思っていたんだが…」


 仰丸の思いは届かず、何かがいることに気付く女の子。仰丸が隠れた方へと迫る。仰丸はそこから動くしかなく、その存在が明らかとなると女の子は更に興味を示す。


「山は危険だってのに、少しも怖がらずに俺のことを追いかけやがるんだ。小さな子どもだからな。何か起こる前に少し姿を現してやろうかなと思った」

 音のする方向を見失った女の子に、仰丸は後ろから近づいて声をかける。嬉しそうな甲高い声で振り向く女の子。出てきて良かったと思ってから数瞬。


「ぎゃあああああああああ!!!!」


「だいたいこういう女の子は俺みたいなのを怖がらないで、近寄ろうとするのが普通なんだろ?そう思って出てきたのに、絶叫して倒れやがったんだ…」

 黒瀬は仰丸の悲しそうな顔を見て、思わず笑う。


「それは可哀想だったね。喜んでもらおうと思って前に出てきたのに」

「酷い話だろ?その子は人目につかないようにこっそり山を下ろしたが、それ以降人前に出られなくなった俺の身にもなってほしいぜ」


 隣で笑っている黒瀬に、困惑した様子の仰丸であったが、自身の苦い経験が吹き飛んだように感じていた。依然として空虚な廊下であったが、それに反して黒瀬の手の震えはもう止まっていた。


「俺の話をまともに笑い飛ばしてくれたのは初めてだ。ありがとうな」

「笠待さんは?すごい笑ってそうだけど」


「腹抱えてゲラゲラ笑ってたよ。そして散々俺のことを馬鹿にしてきた。この嫌な思い出を忘れられさせてくれねえ」

 嫌味を込めた言葉とは裏腹に、楽しそうな仰丸の口角は上がっている。


「やっぱ仲良いんだね」

「あいつは俺の、初めての友達だからな」


 手を繋いだままの仰丸と黑瀬に、背後から声がかかる。振り返ると笠待と陽田が走ってきている姿があった。仲が良いことを茶化されつつ、笠待の話を理解した仰丸はその手を引きながら、そして黑瀬に引かれながら、病院の出口へと向かった。


「あれは何をやってるんだ」

 黒瀬を背に乗せて走る仰丸を見て、唖然とする笠待。


「約束らしいですよ。ここ出たら乗せるって」


 ジェットコースターの絶叫を聞いているかのようで、陽田も同じく遠い目をしていた。気付く間もなく姿を消した二人、陽田はそれを見たと同時に自分も、という浅はかな考えを消し去る。


「陽田くんもやってもらえば?」

「勘弁してください」

 黑瀬を乗せた仰丸は、颯爽と二人の前に姿を現す。


「こんなもんでいいか?」

「うん、めっちゃ楽しかった!」


 黒瀬はすっきりとした笑顔でいた。様々な感情が入り混じった、陰りのある表情は今や見る影もない。本来の黒瀬を目にしたことで、仰丸にも自然な笑顔が戻る。再び握った黒瀬の手は既に暖かいものであった。


「一緒に下山してあげたいけど、私は誘拐犯になってしまうし、仰丸は見世物になってしまうから」

 笠待はそう言い、古ぼけた看板の立つ小道を指差す。


「この小道に従って歩いていくと、舗装された道路に出て山を下りられる。そのまままっすぐ警察に駆け込んで、誘拐されたとでも言いな。私の仲間が何とかするから、何を聞かれても『記憶がない』で大丈夫」

「本当にありがとうございます。何から何まで」

 お礼を言う陽田。疲れがそのまま表情に出ている。その隣では、黒瀬が深々と頭を下げていた。


「二人ともスマホ持ってる?あ、充電ないか」

「いや、病院出たら復活しました」

「よかった。私の番号教えておくから、また何か変なことが起きたらすぐに連絡して」


 二人は笠待の注意をよく聞き、下山を始めた。黒瀬は木々に姿が隠されるまで、看板に身を乗り出してまで手を振り続けた。そんな黒瀬であったが、陽田に連れられて大人しく歩き始める。それを見届けた笠待と仰丸も帰路についた。


「なんとかなったな。あいつらちゃんと下りられるかな」

「珍しく人の心配してんじゃん」

 いつもの調子に戻った笠待が仰丸をからかう。


「ちょっとは人間に慣れた?言っとくけど、十夏ちゃんはまだ易しいからね」

「任せろ。笠待も泣きそうだったら俺に言えよ?手繋いでやるからな。それじゃあな、また後で」


「うん、また後で」


 笠待と仰丸はいつものように別れる。笠待はすぐに、道の先で人影を見つけて手を振る。今日はどのような言い訳をしようかと考えていると、その影は何かに気付いたように笠待の方へまっすぐに走り出した。その距離はまだほど遠く、向こうからの声は聞き取れない。何をそんなに急ぐのか、判然としない笠待はゆったりと歩いていった。


「そんなに急がなくても…今日も怒ってそうだな」


 薄ら笑いを浮かべながら言い訳の類を考える笠待に、ようやく声が届く。


「先生ッ…!逃げてッ!!!」


 その必死な視線は笠待の背後へと向かっていた。悲鳴にも近いその声を聞き、笠待は咄嗟に後ろへ振り返る。そこには白衣姿で包丁を携えた男が、すでに眼前に迫っていた。到底この世の人間ではない、異形を思わせるような男の顔を見て、笠待の全身に冷や汗が巡る。恐怖で握った拳からは、涙のように紙切れが溢れる。

 もうどうしようもなかった。


 医者の風貌には似合わず、包丁を腹部に刺す姿に由亥は言葉を失う。


「綾…」


 笠待は鮮血を散らしながら、消え入るような声で由亥の名を呼び、地面に倒れる。笠待が握っていたたくさんの紙、"避けろ"と書かれたその紙が、笠待を中心とした血だまりに浮かんで赤く染まる。


 先生の最期。閉じられた目からは涙が流れていた。白い紙が赤く染まる。


                            2024年6月27日 失敗

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