第3話 そして偶然、『犬』を導き出す。


     『その笠を乗せるのは』


 2024年6月27日

 ふかふかのベッド、というよりはソファに沈んでいる感覚に近い。笠待はそのまま一週間の疲れを言い訳に寝過ごしたいと、そう頭を支配されかけた。


「うちのベッドはもっと固いか」


 しかし、無情な現実が笠待を夢から引き戻す。覚めるのは一瞬であった。高級な毛皮ソファの正体は、大きな狼。真下で寝腐っている巨体を揺らして起こす。獣臭さがないのは、笠待による日頃の手入れの賜物だった。


 そのとき笠待がいたのは病院であった。見渡す限り、光の当たらない白い景色が広がっている。所々扉の開いた病室から、わずかな光が漏れている。その光と常夜灯だけが、辛うじて視界を明るくしていた。何故自分がここにいるのか、笠待には検討も付かない。しかし、寝ぼけた頭が冴えるにつれて、知らない名前がフルネームで突然頭に浮かび出す。


「ねえ、仰丸起きて。陽田ひだ哉十かなと黑瀬くろせ十夏とおかって誰」


 仰丸はまだ周囲の状況に混乱しているようであった。いつもは笠待を起こしている仰丸の立場が逆転するが、目を覚ますのは当然仰丸の方が早い。


「あ?誰だそれ、知らねえな。ここどこだ」

「じゃあここに来る前のことで、何か覚えてることは?朝ごはん食べてたのは覚えてる?」

「覚えてるぞ、でもそっからの記憶はないな。飯に毒でも入ってたかな」

「は?」

「嘘だって…」


 自身が振舞った料理に文句を付けられた笠待は、不機嫌そうに仰丸を置いて歩き出す。怒りを露わにして、すたすたと歩いていく笠待。仰丸はそれをすぐに呼び止める。苦し紛れの謝罪をするためではなく、それには理由があった。


「おいちょっと待てよ、不用意に出ちゃだめなんだよな?」


 その言葉で笠待は足を止める。まるで自身が仰丸に忠告したかのように思わせるその言い回し。それは現状を打開する、何よりも重大な手掛かりであった。


「それどういうこと?何か知ってるの?」

「分からん、でも簡単に出ちゃだめなんだ…よな?」


 仰丸は知っている限りのことを事細かに話す。しかしその説明は要領を得ない。笠待の記憶に、病院の情報は全く存在しない。しかし、仰丸の記憶ではこの病院に二度は入れず、しかもそれを伝えたのは笠待だという。


 笠待は自身が持つ不自然な記憶と、仰丸のそれを照らし合わせ、ぐるぐると思索する。だんだんと思考が晴れていき、目が暗さに慣れてきた頃、他の記憶と結びつかない孤立している記憶がまた一つ浮かび上がった。笠待の記憶のうち孤立していたのは、どこかの誰かのフルネームと、ある一定期間に限定した記憶の条件であった。


「ねえ、他になんで覚えてるか分からないことある?出来れば病院のこととか、この状況のことだと助かるんだけど」


 笠待がそう尋ねると、仰丸は俯いて考えたのちに、はっと思い出したように顔を上げる。笠待は、期待の表情を浮かべて仰丸を見据える。しかし、その記憶はあまりに無用なものであった。


「なあ、あんまり記憶がはっきりしてねえんだけどさ、俺のこと犬って言った?」

 突拍子もないことを言う仰丸に、笠待はため息をついて俯いたまま背を向けた。


「お前が余計なことを覚えてきたことだけは分かったよ」

「おい待てよ!犬って…」

 笠待は期待はずれの記憶に呆れを隠そうともせず、再び仰丸を置いて歩きだした。


 病室の並ぶ廊下を抜けて開けたホール、その先にはがらんとしたナースステーションが見える。どれだけに進もうとも、靴が床を鳴らす音が響くだけであった。まるで頼りない灯りを持って洞窟にいるような、異様な静けさが広がっている。


「まさか笠待に起こされるとはな。それで、最悪な寝起きでどこに行くんだ」

「手がかりが陽田哉十と黑瀬十夏しかないから、とりあえずはその人たちを探す。その人たちも同じ状況かもしれないから、パニックにさせないようにしないとね」


 笠待自身の中に単なる記憶でしか存在しない彼ら。それを探すことが解決の糸口へと繋がると考えた。恐らく同じ状況であろう彼らをパニックにさせないように、笠待は考え、考え抜く。否、考えたようなふりをしている。

 答えが出たような仕草の後、笠待は仰丸に向かって、じっとした視線を向ける。視線に気が付いた仰丸は、笠待が言いそうなことを予想して露骨に嫌な顔をした。


「ここからの道は私を乗せて、四足歩行で行こう」

「嫌に決まってるだろ!犬と一緒にするんじゃねえ!お前やっぱり、さっき俺のこと犬って言ったな…」

「さっきがいつかもわからないんだよ、じゃあせめて肩車してよ。歩くの疲れるから。というか狼も本来四足歩行でしょ」


 笠待も仰丸も渋々といった様子で互いに歩み寄り、暗い病院の中で歩みを進める。長く続く廊下を歩くが、いつまでも景色は変わらない。シンプルな病室のドアが無限に並んでいる。慣れたと言えども、夜目の利かない笠待は仰丸にその進行を委ねていた。何か持っている物を探ろうとしてポケットを漁ると、案の定スマホが出てくる。しかし、それと一緒に出てきたものがあった。


「仰丸、今何時か分かる?スマホの電源が点かない」

 仰丸は頭上のずうずうしい女に答える。


「俺が分かるかよ。スマホなんて小さすぎて使えないし、腕時計だって人間サイズしかねえんだからよ」

「お前の腕に合う腕時計なんてもはや掛け時計だろ。仰丸は仰丸しか持っていない時計があるじゃん」


 見えずとも伝わる笠待のにやけ面が仰丸の頭に浮かぶ。しかし、笠待が言う時計について、仰丸は全く心当たりがない。すると、笠待は意地の悪い言い方でそのヒントを伝えた。


「仰丸、お腹、空いてない?」

「あぁめちゃくちゃ腹減ったよ、全然死ぬほどじゃないが」

「朝ごはん食べたって言ったよね?」

「…食べたな」


 笠待は仰丸の顔の前にヒラヒラと一片の紙を見せる。その紙切れには”食べるな”という言葉が書かれていた。


「今のお腹の空き具合はどう?どれくらい絶食してると思う?体感で」

「これは…人間から身を隠して洞窟に籠っていたときと同じ空腹感だから…ざっと二日間だな」

「つまり、私たちは食事に毒を盛られたわけではなく、襲撃を受けて気絶させられたわけでもないってことだ。丸々二日間も気を失っていて、私がこんな元気なわけがないからね。それに私はお腹空いてない」

「私にも仰丸と同じように不自然な記憶が二つある。一つはさっきも言った通り、陽田哉十と黑瀬十夏という名前の記憶。もう一つは、私たちの記憶に関する記憶だ」


 笠待の淡々とした説明に、仰丸は頷くばかりであった。仰丸は無意識に頭を大きく振り、その説明の度に笠待は仰丸に振り落とされそうで、早々にその説明を切り上げようとする。


「私たちは3つの記憶を選んで憶えておくことができた。全く浮かばない3つ目の記憶はお互いの存在だろうね。矛盾を持ち込んでいないと抜け出すのに苦労しそう」


 当然いるはずの相方が隣にいたところで、何も不思議なことはない。その実、笠待は仰丸を下敷きに寝ていたことを不審に思わなかった。お互いが離れ離れになってしまうという可能性を考慮した上での選択、というのが笠待の予想であった。

 現状の解決まであと一歩。しかし、その後の結論をあえて言わず、簡単には教えないことが笠待の悪い癖であった。


「さて、問題です。私たちは私たちの意志でここに来たのか、それとも連れてこられたのか、どっちでしょう?」


 仰丸はいつも通りに笠待の問いに頭を悩ませる。考えるまでもなく答えは決まっている、もちろん笠待についてきた自身の意志である。しかしそれは、人間に打ち負かされるわけがない、すなわち連れてこられるわけがないという自身の強さの指標から導き出された、いわば侮りの結論。

 日頃から生来の強さを過信せず、それを判断基準にしないこと。それが笠待との約束であり、自身の決別であった仰丸は首を捻った。同時に笠待の身体が傾く。


「…ヒントくれ。どの記憶が関係あるんだ?」

「偉い子だから大ヒントをあげよう。三つの記憶は自分の身を守るために選んだもの。私たちが望んでここに来たなら勿論そうだし、咄嗟に連れていかれたなら尚更だよね。だけど陽田哉十と黑瀬十夏の名前が必要だった理由ってなんだと思う?」


 仰丸が結論を導き出す。無論、それが自身の意志でないことは分かっていた。しかしその上で、仰丸は人間的に、彼らを想うことに決めた。


「俺らがここに来たのはそいつらを助けるためだったから。ここに来たのは俺たちの意志だ」


 自分の関わらない人間を助ける義理はない。そも義理という考え自体が、仰丸の中にははっきりと存在していなかった。しかし、それを理解しようと歩み寄ることが大きな一歩であり、笠待が居なければ成り立たない成長である。


「正解、じゃあ早速探しに行こうか~」

 笠待は仰丸の頭上から無造作に頭を撫でる。仰丸は嫌な心地はしなかった。


 と、いつもなら笠松に流されるところであった仰丸。しかし今回は違った。


「お前、腹空いてないってことは、やっぱり犬って言ったのさっきじゃねえか」

「あ」


 仰丸は頭を滅茶苦茶に振る。笠待の身を軽んじるその行動は、笠待が飛んで行ってしまったところで助けに行けばよいという、強さを指標にした行動そのものであった。

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