第2話 馬鹿であり、トラウマであり、また狼。
『その笠を乗せるのは』
2024年6月27日
空腹にあえぐ仰丸は、腕をだらんと垂らした姿はハイエナを演じているようであった。アピール絶やさずにただ山中を歩いており、すたすたと歩く笠待とペースを同じく保っている。
笠待であっても人心は持ち合わせているようで、その隣で軽食を口にしたりはすることはなかった。そして時々、仰丸が咆哮を上げる。
「なあ腹減ったぞ!いつまで食べれねえんだ!」
「わがままだな、一週間食わずに生きていけるくせに」
屁理屈をこねる笠待。しかし、仰丸はなおも食らいつく。
「空腹は感じるだろうが!もう二日だぞ?それに食ってのは元気を与えてくれるもんなんだ。命をつなぐためだけのものじゃない」
「よくも私の受け売りをぬけぬけと…飯のことになると良く喋るな」
何を言ったところで仕方がないことを悟り、嘲るように過去の笠待の言葉を掘り返す仰丸。散々不平を漏らしていながらも、腹の減りを誤魔化すための努力はしていた。仰丸は遠い目をして、そこに山の景色を映している。
久しく自然に戻った仰丸は、本能というべきか、癖というべきか、登山道を離れた山中でも人の気配の警戒を怠らない。
木々の隙間から麓が見える。見晴らしが良く、一面が緑で、笠待の側では中々見られない光景であった。その上見つかりにくく、隠れて過ごすのに最適で、仰丸が暮らす上でこれ以上ない場所である。景色を眺めるうちに想いに耽り、独り言を呟いた。
「どっかに隠れ家でもあればいいな」
仰丸がふとそれを口にする。
「絶対に見つからない隠れ家があるらしいよ、入ったら出られないっぽいけど」
「何だよそれ」
「山頂まで登れば絶対に見つかる。そこを住処にすれば見つからないけど出られない。誰かに入られてもそいつも出られない」
「…」
なぞなぞのような答えに判然としないまま、笠待の後ろをゆっくりとついていく仰丸。痺れを切らし笠待に問いかけようとしたが、それは見越された。
「たとえ隠れ家が見つかっても、本人が見つからなければいいってこと、私もまだどんなのかあんまり分かってない。皆も良く分からないって言ってたし」
「へぇ…」
その答えは仰丸にも合点がいくものであり、仰丸自身が求めるものでもあった。しかし、その考えは安直であり、笠待の言葉で認識を改めることになる。
「例えばヤクザの抗争とか。もし組長さえやられなきゃいいならそこに入れちゃえばいい。もしそこに敵が入ってしまっても、誰も出てこられないから生死は誰にも分からない」
「なんだよ…ちょっと良いなって思った俺が馬鹿だったな…」
仰丸が更に肩を落とす。
「シュレディンガーの猫みたいだね」
「なんだそれ?」
「シュレディンガーの狼」
「よく分かんねえけどやめてくれ…」
二人は仰丸の姿を晒さないよう、獣道とも形容しうる、少なくとも登山道ではない道を歩いていた。すると突然道が無くなり立ち往生する。本来なら遭難していたところであったが、この事態を想定して仰丸がついていたようなものだ。
仰丸は笠待担いで無理やりに道を作る。自分のフィールドだ、通れるならそこは道だ、そう言わんばかりに難なく障害を飛び越えていく。それは確かに笠待に勝ちうる、数少ない要素だった。
「事前に分かるの珍しいな?いつも突然見つけて、戦うか解決するかだろ?」
「いつもは当たりを付けてるから、出現するエリアがあるんだよ。今回は建物だし、大きすぎて先に仲間が見つけちゃった。それに最近のニュースと一致したからね」
平坦な道になり、笠待は降ろされる。
「へぇ、よく一人で行くの許可されたな」
「戦闘とかじゃなかったら一人で行くよ。そもそも仰丸が正式に仲間になれば、何の問題もないのになあ」
「俺が人前に出るの苦手なの知ってるだろ…」
「馬鹿だったりトラウマだったり忙しいなお前、狼だろ。皆耐性あるって」
小一時間歩き続けてようやく視界が開ける。目的の隠れ家があった。木々の高い背丈を、更に越している大きな建物。隠れ家という認識でいた仰丸にとっては、それが大きすぎるようにも感じた。外観は古ぼけた病院。ここ数年の建築には見えず、年季の入った古びた外観が、人を寄せ付ける魅力を放っている。
「ん…?」
目が良い仰丸には、時に見たくはないものまで捉えてしまう。仰丸には、遠くからでもそこにいる老人がはっきりと見えていた。古くぼろぼろな外壁に見合わない綺麗な真っ白い服と、毅然とした姿勢で入口付近に立っている。何かの紙をわきに抱え、考え事をしているようだった。
そして時に仰丸は、それが自分にとって都合が良いのか、悪いのかを判断するという能力に欠けている。視線の先の不都合に気付けない仰丸は、まんまと笠待に報告した。
「おい笠待、あそこに誰かいるぞ。俺見られるのまずいんじゃないのか」
仰丸が呆気に取られた様子でその男を指差す。
笠待は誰かがいることを知っていたかのようで、仰丸の腕を引っ張りながら一直線にその老人へと向かっていった。
「おい!俺人間の前に出れねえんだって!!頼むよ!」
「まあまあ」
「お前!俺が吹き飛ばせないからって腕にしがみつくな!おい!聞いてんのか!」
「まあまあまあまあ」
気が付くと、仰丸はその老人の前まで来ていた。男から向けられるであろう奇異の視線に肩をすくませる。しかし、老人は仰丸をあまり見つめることはなかった。
それどころか仰丸を連れた笠待を目を丸くして見ている。
「すみません、うちの犬が狂犬病みたいで診て欲しいんですけど」
「うちに獣医はいませんが」
依然、落ち着いた様子で答える老人に、自身のペースを乱さない笠待。
「そうですか、ところで」
「交通事故でここに運ばれた
笠待の言葉に眉をひそめる老人。笠待の言葉は当然のように嘘であり、彼らは事故に遭っていない。そして病院に掛かってもいない。笠待は老人の出方を窺っていた。
「陽田さんと黑瀬さんなら見舞いにうちにいらっしゃいましたよ。ご友人が事故に遭われたとか」
他人事のようなその説明は、医師の言葉だとは到底思わせない。笠待は目を濁すことなく、医師のような老人に視線を向ける。
「やっぱり、じゃあ失礼します」
ずかずかと院内に進もうとする笠待。段取りを聞いていない仰丸は、どうすればよいのか分からず焦っている。一方で老人は動じることなく、一言で笠待を制止した。
「ここを知った上で来てますよね、あなた。この病院を知ってからここに来るまで、どれくらい掛かりましたか」
「2日」
老人の問いかけに、笠待は正確に答える。
「当院について多少ご存じのようですが、この中は、病院のことを知った瞬間から入る前までの記憶を三つしか覚えていられません。よく考えてから入ってください」
男はなおも毅然とした態度でそれを言い放つ。この男の忠告に仰丸は口を挟まずには居られなかった。
「どういうことだ?おとといまでの記憶が抜け落ちたままでこの中に入らなきゃいけないのか?」
「違うよ、三つまで覚えていられるんだよ。この病院を知ってから今までの期間のことのうち三つを除いて全部忘れるってこと」
笠待は老人の目を見たまま、仰丸を制止する。
「インフォームドコンセントってやつかな?怪異のくせにね?」
「そういったご時世ですから」
老人は柔らかい笑顔を浮かべている。
「ちょっと作戦会議」
「お待ちしております」
老人は一貫した態度のままで会釈をした。
笠待はまたしても仰丸を引きずるようにして、老人から引きはがした。その間も、仰丸は必死に頭を回す。一昨日から起こったすべてのことのうち、三つまでしか覚えていられない。3食の献立を覚えてしまったら、昨日何を食べたかは思い出せない。
仰丸の頭は未体験の想像でいっぱいになった。
「どういう意味か分かった?」
「朝、昼、夜飯を覚えたら、お菓子は何を食べたか分からないってことか?」
「お菓子を食べたこと自体忘れると思った方が良い。自分が誰か分からないような記憶喪失になるわけじゃないけど、この病院を知らない状態で入ることになる。だからって病院のことだけを記憶したら出られないからね。入った瞬間、何故そこにいるか分からない状態になるのは避けられないかも」
仰丸は理解したような、していないような顔をしている。
「もちろん、あのおじいちゃんを倒すだけじゃ?」
「だめだな!!!」
「そう、閉じ込められてるからね」
仰丸は一つを理解して、全てを分かった気になっていた。しかし、それ以上のことは笠待の役目である。笠待は覚えるべき三つの記憶を、仰丸の代わりに指定した。それは覚えやすいように、そして注意深く記憶を限定する必要があった。
”昨日の出来事”などと大きく括ってしまうと、それはおぼろげに、もしくは一部分しか覚えられない。その推測の元で、記憶は最重要事項にのみ限定された。
「もし失敗しても私たちは出られる、けど二度目はない。そうなるとあの子たちには自力で出てもらわなければなくなる。けどきっと無理」
彼らがどれほどの期間、そこに囚われているのかは不明であった。そしてこの機を逃してしまえば、ここで一生を終える可能性すらあった。
必ずこの一回で助けるという覚悟と、入念な準備が必要となる。
堂々と歩く笠待と、その後ろを遅れてついていく仰丸。仰丸は3つの記憶のことだけに集中していた。そんな様子を見た笠待も仰丸に構うことなく、自分の記憶に集中する。病院に近づくと、依然老人は入口の前に立っていた。
「ずいぶんお待ちしました。決心がつきましたか」
「決心も何も私たちもお見舞いに行くだけですから。元気にしてるかな」
「容態もとっくに安定しています。きっと元気にされているはずですよ」
医師を装ったその言葉は、ずいぶんと薄っぺらい。見え透いた嘘の応酬の間にも、仰丸は指を折りつつ、それだけを考えるように小さく丸まっていた。しかし、目の前の老人はそんな仰丸の様子を見逃してはくれなかった。
「ところで、あなた狼ですよね?」
老人が突然話しかけたことで、仰丸が体をびくっと震わせる。
自分が眼中にないかのように振舞っていた老人が、何の動揺も感じさせない態度で自分に話しかけている。そんな状況に意識を引っ張られた。
「あ…?あぁ、狼だ。人の言葉は話せるが。動物だったら入れないか?」
その独特な集中の姿勢を保ちつつも、老人の前に出てやや自慢げに語った。老人は屈んでいてもなお、自分よりも大きな仰丸を見上げて言葉を返す。
「いえ、問題ないですよ。しかし…先ほどそこの方が『犬』とおっしゃっていたものですから。ただ気になりまして」
男が発したたった一言。それが仰丸の集中を一瞬途切れさせた。
「おい、笠待。さっき犬って…」
「早く行くぞ仰丸!このヤブ医者が…」
仰丸は丸まった姿勢のまま笠待に押され、吸い込まれるようにドアをすり抜ける。その感覚は新鮮なもので、空気で出来た壁をすり抜けるような感覚であった。しかし、そんな感覚もそこに足を踏み入れた瞬間、きれいさっぱり忘れ去ってしまう。次にその感覚を得るのは、そこを脱するときである。
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