その笠を乗せるのは
α_troughy
第1話 Item: 地球原産 仰丸
『その笠を乗せるのは』
2024年 6月27日
大小不揃いな木々の隙間、そこから差し込む陽光は獣道を照らし出す。鬱蒼とは山の偏見を言ったもので、そこに広がるのは異様にも明るい青々とした景色。しかし、それでいて暗い雰囲気を醸し出している。そんな不思議な空間には、二本の脚で歩く大きな狼と、それを先導する女。不揃いで不思議な二人がいた。
「ねえねえ。怖い話聞く?聞くよね?」
振り向きざまに女が発した言葉は、同時に暗い雰囲気を壊そうとする気を纏っている。その矛盾がこの森自体の比喩のようにも思えて、しかし森に慣れ親しんだ狼の目には、そうは映らない。
「聞くって言わなくても話すだろ」
狼は気だるそうにしながらも腰を曲げ、その大きな体を女の背丈まで屈めて耳を貸す。ショートの黒い髪を振り回しながら前に向き直る女。そして、楽しそうに語り始めた。
『男はワンルームマンションから引っ越すことに決めた。男が選んだのはいわくのついたマンション。辺りを見渡すが、遊んでいる子供も、散歩をする老人も見当たらない。そこから見えるのはマンションを囲んだ生け垣と、自然に富んだ公園だけ。10階建てのそのマンションには人っ子一人住んでいやしない。しかし男は根拠のないいわくを差し置き、お金を優先する。ある意味で軽薄であった。
よりにもよって、最上階の端を選ぶ。誰もいないという優越感に浸るためであった。エレベーターは常に独り占め。もはやそのフロア全体が自分の生活領域のように思えて、男の日常は明るくなった。
引っ越してから3ヶ月が経ち、今までに不動産が宣ったいわくなんていうものは、一度たりとも起きていない。影を何かと見間違えることも、家鳴りに驚かされることすらない。落ち着いた生活に心が慣れてきた頃であった。
ある日の夜、がらがらのマンション、誰もいないはずのマンションから鳴るはずのない音がする。男は血相を変えて、玄関へと走り、玄関のドアを開ける。半身飛び出してそれを見た。男はすぐに引っ越したとさ。めでたしめでたし』
「…ていう話なんだけどどう?」
女は童話のようにその話を締めくくった。話の内容を整理する狼は、少しの沈黙の後に、一呼吸着いて口を開く。
「それの何が怖いんだ」
「うわ、反応薄。ちゃんと話聞いてた?」
女は怪談の続きを話すように続けようとする。さながら、皮肉を込めた発言を掘り下げられた人間のようにつまらなくしていた。しかし、器用に意地の悪いことをしているのかと言えば、狼はそのような器量を持ち合わせていない。時を同じくして、しかしその意を別に、つまらなくしている。
「この男は並みの精神をしていない。一棟丸々すっからかんのいわくつきマンションなんて、どう考えても呪いの塊の最上階の端に住んでる。どれだけ霊的現象を信じていなかったとしても、あまりに危機感がないよね?」
「俺は暮らすけどな」
「だからさあ、ちょっとは寄り添うのも大事だよ」
件の男と同様で、狼もまた、道理を理解する危機感を持ち合わせていない。それは何故か。それは単純であり、自身の強さという指標があってのことであった。なんとも単純明快な理由であり、しかし、多くの人間にとって理解しがたいものである。
「並みの感覚じゃ住めたもんじゃないだって」
「うーん」
自身の存在を天秤にかけ、何と比べても自分が優位であったことで生まれた侮りが、本来苦しむべき狼自身ではなく、たった今女を苦しめている。話の通じない狼に女は肩を落としつつ、言葉を崩して話を続ける。
「そもそも誰も住む見込みがないのに、まだマンションとして成り立っていることを少しは不審がるべきでしょ?」
「確かに」
狼が初めて好感触を示した。女はその隙間の縫い付けるようにして話を続ける。
「この男が持つ霊への信憑性は薄すぎる。信念に近い。それは存在していても全く問題がないと思わせるほど。そんな頑強な男が何かを見てすぐに逃げ出した」
女はついに話が通じたことに嬉しくなり、その場で立ち止まって再び狼に向き直る。狼が歩みを止めてその場にしゃがみこむと、不適に笑って狼の顔を覗き込んだ。
「さあ、何を見たでしょうか」
わくわくと答えを待つ女とは裏腹に、理解が及ばずに困惑する狼。人間が盲信する霊の存在、生活が脅かされる不安、狼にそのような懸念を理解することは、到底叶わない。そのとき考えていることと言えば、何で女が満足するか、どうすればすぐに解放されるかということであった。
「男が見たのは霊じゃなかったって言いたいんだろ?」
長く付き添った人間の癖。種族は違えど真意には気付いていた狼。
「いわく物件にそんな態度取るんだから、霊くらいじゃあ、ね?」
「じゃあ化け物か何かだろ」
「どんな化け物なのかな」
頭ごなしに答える狼に、女はわざと含みのある言い方で返した。飽き飽きしていた狼は、頭に浮かんだことを全く精査せず、至って興味のない様子で適当に返す。
「そりゃ化け物と言ったら、熊とか猪じゃないのか」
違うとは思いつつも、苦し紛れな答えを出す狼。
知らないとは分かっていても、マーク式だからとりあえず書くという学生のようであった。そんなもので居を移す決意をしないことは、狼である彼にも分かることであった。すぐに逃げ出すか、その時だけ部屋に籠れば良いという返答が来ることは容易に想像しうる。しかし女は、適当にこなす狼の態度に気づいていたのか、話は核心へと迫っていく。
「どんな人でも未知は怖いんだよ。未知の生物ってだけで怖いし、身の危険を感じる。だけど感じる恐怖はそこまでだよね?」
「そこまでって、十分だろ」
「その化け物が大男だろうが、大熊だろうが、逃げられればなんとかなると思ってしまう。地球原産という侮りを無意識に持っているから」
女は狼の反論を無視して続ける。
「男が見たものが未知の存在、例えば宇宙、もしくは私たちの知らない遥か地底、海底から来た存在であると知ったとき、その恐怖はとどまることを知らない」
「命を落とすだけじゃ済まないかもしれない。地球と同じ、もしくはそれ以上の知性を持っているかもしれないというどうしようもない恐怖。歴史がその知性の非道さを物語っている」
狼への苛立ちを言葉にしたかのように、止まらずに話し続ける女。狼はいたたまれなくなったのか、女の両肩を揺らして無理やりに長話を止める。
「おいおい、結局何が言いたいんだよ」
女は狼に振り回されながら、笑いかけるように問う。
「君は宇宙人と化け物どっちなんだろうね、
仰丸をじっと覗き込む女は、見透かすような悪い目をしていた。まるで仰丸のことを全てを知った上で訊いているかのように思わせる、意地の悪い目であった。仰丸は女の様子に態度を崩さず、姿勢を正して歩き始める。
「知らねえよ」
「仰丸ってどこから来たの?どこ出身か知らないの?」
「知らん」
「宇宙から飛んできたんじゃない?尻尾にタグつけてあげよっか、宇宙産って」
「知らねえ」
突き放すような仰丸の態度に、女は黙り込む。静かになった女を不審に思って仰丸が振り返ると、女はいじけたように早歩きを始めた。勝手に話を始め、そして突き放すようにして終えた女は、仰丸にとって意味の分からない、それこそ未知そのものであった。
「おい、
「これから死ぬほど怖がられればいいんだ。せっかく助けたのに突き放されたらさぞ辛いだろうなあ」
仰丸はその後をゆっくりとついていく。ゆらりゆらりと、その後をついていたはずであったのに、仰丸はいつの間にかそれを追い越している。
「どんだけ早く歩いても俺の方が早いぞ」
仰丸は笠待に追いつき、笠松の顔ほどの大きさのある手、厚い皮膚で覆われたそれを頭に置いた。笠待はそれを払いのけても、まだぶつぶつと悪態をついている。
「とにかく、私が言いたかったのはどんなに強い仰丸でも、未知に遭遇したときの心構えはしておくべきってことだよ。この話はちゃんと覚えておいてね」
「...」
「おい、お前に言ってるんだぞ」
「分かった」
仰丸がたとえ何かを言葉にしようとも、それにそのものに意味はない。理解はしているが、実行しないという子供の戯言のようなものであった。
「なあ、笠待は何が怖いんだ」
仰丸は話を聞いている途中で、ふと気に留まったことを思い出す。さも体験談かのように語られた奇妙な怪談。その話をする笠待自身は、何に恐怖を感じるのかという疑問が浮かぶ。
「ん~?そうだなあ」
笠待の話の根幹である、人は本能的に既知よりも未知を怖がるという性質。その恐怖から逃げ出すという選択をするのは本能的で、ある意味で冷静な証拠である。逃げる選択が正しいのか、正しくないのか、その判断が揺らぐから未知は怖いのだと、笠待はそう語っていた。
「仰丸は私にとって未知であり、既知だ。私は仰丸については何も知らないが、私は何よりもお前を知っている。仰丸が持つ恐怖も知っている。だから仰丸は怖くない」
「そうかい」
笠待は一連の話で、もしや仰丸が傷ついたのではと感じていた。慰めの意味を込め、仰丸へ抱いていることを話す笠待。
しかし、当の仰丸はその意図を理解しないどころか、件の産地の話すら気にしてはいなかった。お互いの心の内に気付かないままで、笠待は話を続ける。
「その上で私が怖いのは、既知が未知に変わることだよ。私は話の男もそれを見たのだと思っている」
仰丸にとって、笠待という存在は知らないことだらけの未知そのものであった。何のために様々な場所に足を運ぶのか、その実は怖いはずなのに何のために怪異を倒すのか。しかしそれを差し置いても、仰丸にとって笠待は未知ではなく既知である。笠待自身の心の表層を守る恐怖。それを仰丸に話す表情は柔らかく神妙であった。
「びっこたっこ」
「なんだそれ?」
「いつか聞くと思うから、覚えておきなよ」
森の明るい雰囲気はやはり異様で、彼らを飲み込んでいった。
鳴るはずのない音で、俺の心臓は止まりそうになった。静かな廊下に響く足音が、不思議なほど俺の部屋にまで聞こえてくる。俺は反射的に玄関へと急いだ。裸足でコンクリートの冷たさを感じながら、体の半分をドアから出す。
その先には、何もいない。見えるのは二部屋の空室分の廊下と、エレベーターがある左方の空間。いつも通りの風景だった。俺はほっとして、工事か何かの音だとして片づけた。気を取り直して部屋に戻ろうとする。俺の視界の端で何かが動いた。
恐る恐る、ドアから顔を出すと、エレベーターの方から体を半分出してこちらを見ている人の姿が見える。俺はその顔に覚えがあった。
「紗南」
俺は彼女の名前を呼んで手を振った。紗南も笑顔でこちらに手を振っている。しかし、その距離感に違和感を感じる。俺の部屋からエレベーターまでは10mと少しほどで、いつまでも手を振るほどの距離ではない。さっき姿が見えなかったのはエレベーターの前にいたからだろう。しかし、何故足音が響いていたのか。俺も紗南の方を見続けているが、いつまでそこにいるのだろうか。
上がっていきなよ。この言葉が喉から出る直前、咄嗟に口ごもった。何故か紗南からは目を離してはいけないと、直感的にそんな気がした。
「びっこたっこ…」
この地には方言に由来する怪談が存在する。小学生の頃、俺はクラスの奴と肝試しに行ったこともある。必ず半身の状態で現れるそれ。
何でここにいるんだ。駅の跡地だったのか?
奇跡的にその生態を知っていた俺は、部屋に引き返して朝迎えると引っ越した。
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