生え変わらないから永久歯
なるほど。
幸福とは神さまの手に余る超然的なもの、か。
なるほど。
あのときは簡単に請けあったけど、こういうふざけた事態に見舞われると、ああ、本当にそうなんだな、って思う。
運命はあるのだ。
花粉症をおして滑り込みで納期に間に合わせたのが二週間ほど前のこと。のちに快復すると、カノは喜びに任せて、それからの一定の期間、尋常ならざる依頼の請け方をした。
とにかく仕事が、作業が、打鍵の音が、楽しくて仕方なかった。それは興奮と集中の極地に達している日々で、それでいて冷静さも兼ね備える、特殊性に彩られた日々だった。
具体的には実働五日で一ヶ月分の収入を得た。クライアントの評価もいつもと変わらない(下手に上々だと後が悪い)。
ところが次の週に突入した瞬間に緊張の糸が、ぷつん、と。同時に今度は流行性の腸炎にも罹った。その年のは強烈で、またしてもカノは倒れた。
病院には意地でも行かない。
それに今度のは前回的にいって『些末な事柄』だ。追われる納期は一つもない。ただ眠っていればいい。
ので、むしろ運命をひしひしと感じる。
運命はあるのだ。
誰かが未来のテリーヌを、すとん、すとん、と切り落として、Aの事象とBの事象に取り分けた。だからちょうど一月分の収入を稼ぎ終えたところでストップがかかったわけだ。見事な調整力じゃないか。
でもちょっとやりすぎだ。
やりすぎというのは、症状が、きつい。前回の花粉症どころの話じゃない。ソファまで、リビングまで、這い出すのもしんどい。
寝室の天井をぼうっと見る。
運命。
これが運命ならなぜ私はこんな辛い目を背負い込まなきゃならないんだろう?
手を伸ばしたい。けど伸ばせない。掛け布団が重いせいで。天井に触れられない。触れられない天井が遠い。
急な不安に襲われる。
よく、人はお酒に飲まれると本性が出る、なんていうけれど……そういうことは病気のときもおんなじだ。お酒のときはお酒のとき、病気のときは病気のときで、別々の性質が、じゃばん、と表れる。
生まれつき心がタフな人は……熱に浮かされたって、家族の食事を用意したり、出勤の支度にかかったり、する。でも普段が単なる強がりの人は、あっけなく寝込み、聞こえよがしに咳き込んでみたり、する。同情を買いたがる。
カノも(言うまでもないけれど)後者の側の人だった。同情を買う代わりに、人肌を恋しく感じるタイプだ。
でも、カレは出勤中で、今はいない。
天井はあまりにも高いし、周りの音もいつもより遠い。しん、と静寂に包まれている。
なんだか、誰もが私の症状を知っていて、知った上で、無視を決め込んでいるかのようだ。そう思うくらい音がしない。みんな私から遠ざかってる。隔離されている。隔絶されている。一人ぼっちだ。
無性に悲しくなってくる。泣きたくなってくる。泣くにも体力が要るから泣くに泣けない。余計に泣きたくなってくる。
うわん。
部屋に誰か入ってくる。ドアが開く。カレだ。帰宅したばかりのスーツを羽織ったままのカレンくん。姿を見ると、また泣きたくなってくる。
抱きつきたい。けど感染したら悪いから抱きつけない。甘えたい。けど。
目が覚める。夢だ。
室内の明るさからいってまだ昼で、603号室には私一人しかいない。夢なら抱きしめときゃよかった。ああ。手。握りたい。
もしカレで駄目なら誰でもいい。いや、隣室のサトウさんとかヤマカワさん(実際どんな名前かは知らないけれど)とか、は、想像が生々しくてキツい、けど、もっと私にとって匿名的な、ガンジス川で沐浴するおじいさんや、ニューヨークで活躍するストリートダンサーなら、誰でもいい。
いまこんなふうに熱に浮かされて寝込んでだけいる私は生きてるんだかどうなんだかよくわからない、から、私とは違う体温を感じて、生きてる証を感じさせてほしい。
そしてそんなときには彼らの方から抱擁してくれるより、私の方から、体に無理をしてでも抱きしめにいきたい。
衣服越しの背中。
両腕を回して届かせた大きな背中。
その分厚い皮膚の下に流れる血潮と脈動を、かすかに想う。想うだけ。指先には感じられない。感じられなくていい。感じてしまうと生命が強烈過ぎる。
間接的、かつ、能動的、なそういう方法で、どこかより隔絶されてしまったこの遠い遠い世界にも、私以外の存在が存在することを確かめたい。
もっと理想をいえばそのまま誰かの体温と私の体温とを混ぜ合わせてコロイド状に溶けて、そういうことを別の人とも次また次に繰り返して、やがて一つの大きななにかに融合して、考えることも思うこともすべて理解し合える、誤解も争いもない宥和的で鷹揚とした一つの存在に……。
ふっと目が覚める。
『ボーマン船長』、『スター・チャイルド』、『2001年宇宙の旅』
気づけば寝てしまう。
起きぬけに目の前を行き過ぎる言葉の数々は、いつもなら覚えてもいないような固有名詞たちだ。夢は色んなことを掻きむしる。
や、病床のことなんて、全体夢に違いない。
ずいぶん部屋の明るさも落ち着いた。見つめる天井が、もう夕方らしい。無為に一日また一日が去ってゆく。動けないから目をぱちくりする。
これじゃ『2001年宇宙の旅』じゃなくて『ジョニーは戦場へ行った』だ。
「おはよう?」と疑問符つきのカレの声を聞く。
横を見るとベッドに腰かけていた。
あまりにも大きな人影、なのにまるで気付かなかった。手は掛け布団越しにカノの腹部に触れている。感触までようやく気がついた。
考えるより先に目が潤む。
優しそうな手に、そっと自分の手を重ねる。喋るのも返事するのも辛い、けど、腕を布団から出すのも、辛いには変わりない。でも力の抜けた手で、必死に手を愛撫する。大切に。慎重に。
だって本当に大切なことだから。
「なにか口にした?」
まだ帰ってきたばかりなんだ、とカノは思う。カレはワイシャツを着たままでいる。ううん、と小さく首を振った。
「食欲は?」
小さく首を振る。
「そう。ま、食費が浮いていいよ」
食費。
聞くと、のっぺりした無から、シームレスに悲しみに変化する。
上から見下ろしていたカレがうっすらと微笑んだ。
「クリームシチューにしようと思う。胃に優しそうだから。いい?」
うん。の代わりにうなずく。
それじゃ大人しく待っているように、といってカレはベッドを離れた。手が手から離れる。
その手が部屋のノブにかけられたとき、カレの背中に、表象しがたい声が当てられた。猿ぐつわを咥えた人のうめきとでもいうか。
「どうかした?」とカレは振り返る。
潤んだ瞳がこちらに向いている。
ほんのちょっぴり間があって、ありがと、とかすかに空気が揺れた。
カレは簡単にあしらってキッチンに向かった。
しばらくすると魚貝と野菜とミルクの、シチュー特有の匂いが漂ってきた。
暖かい匂いだ。優しい匂いだ。
起き上がって様子を見に行きたいけれど、まだまだリビングがはるか彼方に感じられる。
匂い。そういえば匂いも遠く離れてた。
いわゆる五感の中で最も強烈だという匂い。というと、匂いを感じなくなったとき、私たちは一つ何者であるかということを失わせてしまうのだろか。そして、というと、匂いを感じたとき、私たちは一つ何者であるかということを蘇らせるんだろか。
見つめていると、なんとなく天井が近づいてくる気がする。優しい匂い。
でも……あんまり近づきすぎると、またちょっと遠ざかる。行き過ぎたかなと思うと、また戻る。距離感が安定しない。ゆっくり行ったり来たりを繰り返すのが、月で跳ぶトランポリンみたい。
ふわっと漂う。やっぱり優しい匂いだ。
風邪ひくと、いつもこんなだったな。とカノはふと思い出す。
ずっと穴の底に落ちてゆく感覚。身体が伸びたり縮んだりする感覚。ふわふわして私が私じゃなくなる感覚。足と頭がどんどん遠くなってゆく感覚……。
まるで『不思議の国のアリス』のようだった。
そういう名前の症候群があることは後で知った。ただアリスとおんなじことが私の身に降り掛かって、このまま眠れば、私も不思議の国に行けるような気がしてた。そういう子ども時代だった。
穴の途中の小瓶を掴むシーンを、何度も何度もイメトレして……。
『ハートのジャック』、『メアリ・アン』、『チェシャ猫』、『ダイナ』、『ルイス・キャロル』、『三月ウサギ』……
ふいに、懐かしいメロディが再生された。
たぶん何かの連想だった。連想でその曲のタイトルが思いついて、思いついたら即座に脳内に鳴り出した。ある時代、ある季節を切り取った、5歳くらいのカノが当時猛烈に聞かされた流行曲だ。その最も特徴的なフレーズが繰り返し繰り返し流される。
(15秒しか知らないからエンドレスにそこだけリピートされてる。)
カノは、なんだか胸をずきりと刺されたように、痛くなった。そのあとでぎゅっと締め付けられた。
悲しい思い出にまつわる曲、というわけではなかったのだけれども。
それよりは曲自体の問題だった。
ガラスのように繊細で、鋭くて、触れれば傷つくし相手も壊してしまう、けど、それでいてどこか力強さも備えた、そういう、日なたと陰影をないまぜにしたメロディの曲だった。
本当に幼い頃に聞いた曲だ。5歳。まだ音楽に興味を持つ前のことだ。つまり初恋だってまだだったお年頃。
そういう純粋な、あまりに純粋な、濾過したり堰き止めたりするものを持たなかった幼心に、この曲はダイレクトに染み入って、そして心の奥の奥の、最も深いところに、強烈に当時の時代感覚を植え付けてった。
ちょっと逆説的ではあるけれど、幼いカノからすると、その歌によって世界は作られていた。(それくらい世相を反映した曲だった。)
だから今でも、メロディを聞けば、当時の時代感覚を思い出す。
時代。あまりにも懐かしい時代感覚だ。
でも、そのうちに恋を知って、音楽に恋を代表させるようになって(言い換えれば自我が芽生えて)、段々と『私』の世界が広がってゆく、と、いつしか音楽は時代を構築してくれなくなった。
この(いまエンドレスに再生されているこの)曲以外にも、時代感覚を生んでくれる曲は幼い頃にはたくさんあった、のに、気づけば全部なくなった。
そうではなくていつからか逆になった。『音楽に合わせて時代感覚が作られている』錯覚から、『時代感覚に合った曲を聞く』私に、真っ当に変化してしまったのだ。
いつの頃からそんなパラダイムシフトが起こったんだろう。いつの間にかだ。自然とそう受け止めるようになっていた。そしてその前と後では、音楽の持つ意味の方は明確に変わってしまった。
青春時代に何度も再生した曲はたしかに大切だし当時のあの人やあの人たちのことも思い出したりする、けれど、ここまで胸を締めつけられたりしない。それよりはうっとりした気持ちになる。私がかつてそこに実在したことが証明されているような、そんな気持ちだ。
幼い頃に聞いた曲たちは、そうじゃない。その時代、私はそこにいない。いなかった。
ただ観測者として時代感覚を観ていた。時代感覚という大きなものを観ながら、なんなら私と時代感覚とが一つだった。自分というものがわからないから世界と私とに区別がなかった。
だから……過ぎ去ってしまって二度と戻ってこない時代感覚と私とが同一だったから……あの日々の曲に、こうも胸が傷つけられる。幼い日々に感じていて、いつか失ってしまった世界。
失ったことさえ忘れてた。それも、ずいぶん前に。
そして今では音楽はただ聴くものになった。良い、悪い、気にいった、気にいらない、そういう判断基準しか用いられない概念。
そうじゃない時もあったのに、いつの間にか平坦になった。あまりにシームレスに変化するものだからいつからそうなったのかもわかんない。平坦に。のっぺり。無。
ああ、そうだな、考えてみたらそんなことばっかりだな、とカノは熱に浮かされながら思う。匂いとメロディに懐かしさをかき混ぜられながら思う。
こんなふうに全身が疼くことだって、しょっちゅうあった。特に膝の裏からふくらはぎが、ずっと、痛くって、「背が伸びてるんだよ」なんて言われても、そんなら身長なんて止まってくれて良い、って、そう思うくらい痛かった。
歯だって、そう、いつもぐらついてた。あっちが抜けたら今度はこっち。無理に抜こうとして「やめなさい」ってよく叱られた。
だって気になるんだもん。
「奥の方で折れたら歯医者さんに行くことになるよ」
本当に?
まあ、いまさらどっちでもいいか。
とにかく。毎日いろんなことがあった。明日がいっつも待ち遠しかったし、だけど一日は終わってほしくはなかった。
ああ。私はずっと子どものままでいたかった。どうして大人になってしまったんだろう。中学生や高校生のころには、もうそういうことも、当たり前に受け入れてたように思うのだけど。
でも、そういうのはさ、私の前で「早く大人になりたい」なんてうそぶいていたあの子やあいつだけ、勝手になればよかったの。だって私はこんなこと望んじゃいなかった。一生キッザニアで働いてたかった。
だって、ほら、結局予感していた通りじゃない。どんどん平坦化されてゆく。どんどんつまんなくなってゆく。
人生は歳をとるほど飽きるように作られている。そんなこと子どものころからわかりきってたことだ。そして実際そうなった。もう膝裏も痛まないし歯も生え揃ってしまった。
待っていても変化は起こらない。
じゃあ無理に娯楽や興味を追求しようというのも、疲れ果ててしまう。そこまで一つのことに熱中できない。悲しいけど、私はそういう種類の人間だ。
ねえ神さま、もしくはウサギくん、その懐中時計を貸して?
それ、時間を操れるんでしょ、だから、ちょっと針を巻き戻して、いや、だいぶ遡って、そんでおしゃぶりつけてた頃に帰るから。その後で時計は壊しておいて。時を止めといて。
恒久的に。
だけどカノは、ああ、と気がついた。涙がこぼれた。
ココットの中身を大きな木のスプーンでくるくる混ぜている最中に、気配がした。
見るとパジャマ姿のカノがいた。部屋の入り口にもたれて、今にもその場に倒れそうになっている。
『ま、すぐに夕食だし』とカレはココットの角にスプーンをこんこん叩きながら、冷静に思う。『それまでソファにでも寝かしつけておこう』
だけど肩を貸そうとしたところに抱きつかれた。抱きつかれて気づいたことには、カノが泣いている。
「カノン?」
中腰の、というよりは、膝を折り曲げた、ちょっと無理ある姿勢だった。病人だからということはわかるけど、余計辛そうな体勢だ。
カレの肩甲骨のあたりに腕を回しながら、みぞおちよりちょっと上のあたりに顔を埋めてる。くぐもった声でカノは言う。
「……じゃダメ」
「うん?」
「インドのおっさんじゃダメなんです」
そう。インド人じゃだめなのか。とカレは思う。
シチュー。カレー。や、どうもそういうことじゃないらしい。じゃあどういう発想だ? で、何がダメなんだ?
まあ、やめとこう。熱でおかしくなっている。いつもより。
だけど。
とカレは、どうにかカノをソファに寝かしつけて、思う。
いま熱のせいで表に出される、弱くて、脆くて、幼くて、甘えたで、でも人懐っこくて、おっさんじゃダメという言葉とは裏腹に世界中の人を愛して回りたいと感じているような君が、どこか冷たくて、スれていて、世間と僕たちとをすっぱり分離しているような普段の君を、絶妙なバランスで僕の心に繋ぎ留めている。
わかってるのかな。そういうこと。
(いいや、わからないほうが美しくていいか)とカレは思う。そして自分もカノにとってそうあればいいなと、ふと感じる。
寝顔を見ると、太陽みたいなあったかな感情が湧いてくる。
いたずらにおでこを撫で続けてみる、と、くしゃみが不発に終わった仔猫、みたいな難しい顔をした。声まで仔猫そっくりだ。
「煮込み終わったらご飯だよ」とカレはキッチンまで退いた。
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