ああ。神さま。おねがい。

 ひっひゅろょって

 ソファからなにか聞こえる。さっきからずっと唸っているし、きっと季節が生んだモンスターだろう。

「なんて?」とカレはわざと訊いた。

 ひっひゅ。あららひいの

「ちょっと聞き取りづらい」

 ひっひゅ……ひっひゅ……ろょってぇ……

 堪えきれず、カノは急に「ゔー」と嗚咽した。からかわれてることを知った子どもが自分の力じゃ太刀打ちできないこともわかったときの泣き真似だ。

 このあたりにしておこう。

 カレはアザラシの写真がプリントされたBOXティッシュをカノのもとまで運んでやった。

 差し出されるとカノはしゃにむに食らいついた。自分の胃袋の限界を計れない子どもが手当たり次第にビュッフェの料理を取皿へ盛り付けてしまう、ように。

 手の訪問を待ってられずに顔の方から迎えに行った。

 ちーん! と、いうよりも、土砂崩れとトロンボーンの合奏みたいなどよめきをたてて、豪快に鼻がかまれる。一度息継ぎをして「ぐあぁ」、低く呻いたあと、もう一度同じ勢いでかんだ。

 それで一瞬恍惚の顔になった、けど、すぐに沈鬱に戻された。

「だめ。もう。ぎばっぷ」

 ソファに、ばたん。

 毎年のこと。例年のこと。スギではないらしいから他の人とは時期がちょっとずれるけど、とにかくこの季節の一定のあいだは、通年こんなのだ。

 だけど今年はもひとつ厄介で。

「納期、やばいんだよお」

「何度も聞いてるよ」とカレは言う。「それについては手を打っとかなかった君が悪い」

「それも何度も聞いてる」

 ずず。鼻をすすって返事する。こんな時にめらめらのド直球をぶん投げてこなくったっていいじゃないか、と不満をも露わにしながら。

 何年か前から症状がきつい。単なる鼻、だけじゃなく、熱、関節痛、体のだるさと重み。動こうと思っても動けない、し、必ず罹患する、という毎年の契約も精神的にくる。

 のに、案外と頭の方はクリアなのが、いやらしい。誰か寝ながらラップトップを打てて、しかも腕が疲れないようなのを発明してくれないものだろか。

 でも少なくとも603号室にそんな便利グッズは存在しない。起き上がっては休み、起き上がってはまた休み、を繰り返す。ちっとも進まない。捗らない。

「病院連れてくよ」

 というカレの申し出を断ったのも、だけどカノの方だ。幼い頃から通い慣れてるカレと違ってカノの方は根っからの病院嫌い、で、薬もあんまり好きじゃない。自然治癒を唯一神と崇める肉体信仰派の一人だ。

 第一、真面目さが納期を守らせるというよりも、カノの職業倫理は社会的信用を失墜させたくないこと、と、クライアントから愚痴ぐちされることの面倒さに支えられている、から、これと病院で診察されることとを天秤にかけ、てみたりもしない。

 その2つは分離して、平行して、どっちも嫌だ。

「納期……のょうき……」油断してるとすぐにくる。

 ああ、それさえなければ。

 いいやそうではなくて、なんでこんなものが残されてるのか!

「自業自得」とカレは簡素に言った。

 まったく本当に。返す言葉もない。

 大体のとこ話の主旨は夏休みの宿題とおんなじだ。通常は二週間くらい先を納期にした依頼ばかり請けてるカノだけど、いま手元に残されてるソレは一ヶ月先を納付期限と定めてた。

『ま、一ヶ月もあるわけだから』

 で先送りにし続けた結果、今がある。もちろん残りの期日が通常の依頼に並ぶ二週間を切ったところで本腰を入れるつもりではあった、けど、そこに優先事項の高い急な依頼が舞い込んでき、そして一週間を切ったころには、次にはこれ。毎年恒例の季節性アレルギー性鼻炎。

 数日を寝込んで、あんなに余裕のあった期限が、あと四日。期日当日を省けばあと三日。加えて今日を除けばあと二日。どれだけ体調が万全でも丸一日はかかりそうな作業量なのに!

「ま、明日の回復を祈るしかないね」

「治んなかったら?」

 弱音っぽい、甘えた声で言う。

「諦めて言い訳の用意」

 カレは突き放す。『どっちみち僕が助けられる案件じゃない』。

 そして、だから転ばぬ先の杖。そうしてみんな計画的に処理をする。こんな歳になってまで説教されるような事柄ですらない。

 静寂。

 ティッシュが引き抜かれる。ちーん!

 カレもべつに反省を促すつもりでもなかった。どちらかといえば不憫に感じている方だ。だからそれ以上はきついこともいわないで、ダイニングテーブルの方に引き返してった。

 スマホを再開し、検索サイトのニュース記事をさらってく。と、すぐにソファの方から声がした。

「かくて問題といえり、か」

 つぶやくように、だけど、音節のはっきりした聞き取りやすい声だった。

「何がなんだって?」

「なんでょもありません」

 ずず。すする。

 そんなに突き放さくたっていいじゃないか、とカノは「大人しく寝てろ」と暗に言われたせいで、ちょっとしょげる。

『影響を与える要因が一つだけなら、そんなのは問題とも呼ばないのに』。口に出せなくなったので代わりに心の中で思う。

 だってたとえば。とカノは言う。体の内側で。

 たとえば毎日必ず一本だけダイヤを乱すローカル線があったとする。

 通勤に通学に、寂れたローカル線とはいっても市民の大切な足だから、遅延はそれだけで確かに困る。けど、慣れてしまえばどうってことはない。

 待合室で待つ時間が予定の十五分から三十分に伸びたところで、「ああ、またか」程度のことだ。

 それが慣れた市民にも許されなくなるのは、その人たち一人ひとりに『受験当日』だとか『大事な商談の日』だとか『誘拐犯に指示されて身代金を運ぶ途中』だとか抜き差しならない事態が起こったときだ。

 でも『受験当日』だってそれ単体じゃなんにも「抜き差しならない事態」なわけじゃない。『電車の遅延』と『受験日』がハイブリッドに掛け合わされた結果、抜き差しならない『問題』的な事態に陥る。

 特に『問題』は、時間的な制約が強いほど、その深刻さを高める。

 受験生にとって『受験日』だから『問題』なのであって『受験』をいつ開始してもいいのなら、電車が一本遅れたところでなんであろう。そんなのは取るに足らない些末な事柄だ。

 で。私たちの日常だとか生活の中には、こういう、一見して『些末な事柄』に見えることが、実のとこ無数に、大量に、阿僧祇に、那由多に、転がってる。そのうちの『どれか』と『どれか』がハイブリッドに掛け合わされると『問題』に発展するのは確かなんだけど、そうなってみるまでは、どれとどれが結びつくか、わかんない。

 はっきりいって究極のところではそんなのは全部結果論だ。

 依頼を仕上げたあとで花粉症に倒れる、ことだって、一週間前には可能性として、あった。仮に現実がそうなっていれば私はいま『些末な事柄』だ。ただ過剰なアレルギー反応に横になっているだけ、に過ぎない。

 転ばぬ先の杖。そりゃ確かにそうだけど。

 でも厄災を未然に防ぐには相応のコストが必要で、杖は無限に用意できるわけじゃない。そして最も発生する恐れの高いものをリスクヘッジしたとして、最も発生する恐れの低いものも決して発生しないわけじゃない。

 ただし発生したらどっちにしろこう言われる。「なぜ危険とわかって対処しなかったのか」。そんなこといわれたって『些末な事柄』だ。どうしろってんだ。

 ほら結局、結果論だ。

 私は優先事項の高い依頼の方はきっかり処分した。まあ……それでも確かに、すべて片付けておくこと、が理想だったのは間違いないけれど。

 はあ。

「テリーヌ食べたい。テリーヌショコラ」

「今から?」

「やっぱいい」

「欲しいなら買ってくるよ」

「いい」

 いっそ現実がフランス料理のテリーヌみたいにならないかしらん。

 すとん、すとん。

 現象を切り落として、いくつかのセパレートにして、そうして『こっちの世界』にはAを、『あっちの世界』にはBを、って、取り分けられないものだろか。

 納期。

 花粉症。

 それは別々の世界の私が個別に対応している事柄なのだ。

 もしくは。

 ずず。

「お湯がさあ」、ティッシュを二枚、引き抜きながら言った。

「白湯?」

「お湯」

 ちーん!

「沸かそうか?」

 カノは首をふる。

 もしくは。

 沸騰したお湯を誤って腕に浴びてしまう。

 急いで水で冷やしても、もう火傷は治らない。

 沸騰したお湯を冷水でぬるま湯に戻す。腕に浴びる。火傷にはならない。

 お湯。腕。冷水。

 やってることは同じなのに順番を入れ替えるだけで結果が異なる。

 要は順番だ。

 そういうことを、やっぱりセパレートしたテリーヌの世界で、簡単に入れ替えたり、できないもんだろか。つまり『転ばぬ先の杖』なんてことはキリがないんだから、事態が発生した後に、患部を切り分けて、順番を変えて、対処する。

 きっと人類が余剰次元に物理的に干渉できる時代では、そういうことだって可能なんだろう。

「じゃあ。なんでいま私たちには、できないの?」

 一通り聞き終えて、カレはこめかみをぽりぽりかいた。

「カノンさん」

 厳かに、椅子ごとソファに振り返る。続ける。

「君は困るとSFに頼る癖がある。現実を見なさい。あなたの現在はあなたの怠慢にある。そしてなによりも」

 そこで息を溜める。ぐっと腰を落として、膝と膝のあいだで手を組む。

「あなたは神を信じなさい」

 神さま?

 カノは驚いてその名を口にした。カレンくんは大真面目だ。

 ちーん!

 とりあえずかむ。

 急に、どうしたんだこの人は、とカノは(それなりに自分を棚に上げながら)思う。カレは、バチとかエマとかオマイリとかは信じるけれど直接的には信仰を持たない、いわゆる平均的な日本人的な無神論者だ。

 なら、自分がそうでないことを、なぜ私には希求する?

「神は量子力学よりも人を幸せにするからだよ」

 本当に?

「よし、じゃあ、神を信じるとして、だよ」とカノも一旦請け合う。

 だけど世界中の多くの人が神さまを信奉する中で、どうして私に幸福が与えられるというの? まかり違っても信仰心の度合いによるわけじゃない。そんなら修道士や神父さんが最も幸福になってなきゃおかしい、し、アトランダムにピックアップされるのを待つんだとしたら、そんなのは宝くじより望みが薄い。

 つまり神を信じても私が幸福になるはずがない。

「ところが神は人間だけじゃなく動物や虫たちまで愛しておられる」

 とカレは言う。

 ? ? ?

「神は万物を愛してる。いつだって君のことはしっかり見てるんだ。君に信仰があろうが、なかろうが、無関係にね。君を見守っている」

「じゃ、信じなくてもいいじょぁん」

 くしゅん。ずず。

「ただ、神は僕たちを公平に見守っているけれど、平等には、その限りじゃない」

 というのは幸福という概念は、実のところ、神にさえ手に余る代物なんだ。なぜならそれは僕たちが生活する上で勝手に次から次へと振り分けられてゆくものだから。

 たとえば、あるオスライオンが繁殖期を迎えたとする。その年の彼の性欲はなぜか例年より高かった。それで多くのメスと交尾した。でも構いはしない。十分な妊娠期を経て、メスライオンたちは多くの子どもを生んだ。可愛い子ライオンたちだ。本当に可愛い。だからみんな幸せだ。

 でもその裏で、とあるガゼルの群れが集団パニックを起こしてた。どうしよう。。と。

 どんなに些末で、一見すると他者に影響を与えないと思えるような、そういう種類の幸不幸にも、必ず何かの干渉力が働いている。それが生命全てが抱える共通の命題だ。これを否定することは生命そのものを否定することになる。

「だから神も幸福という概念そのものをどうにかすることはできない。噛み砕いていえば生まれついての幸不幸みたいなことは、どうにもならない。それは一旦受け入れるしかない」

 神に可能なのは、そうした中で、明確な意図をもって、公平に、誰かに幸福を与えるということだけだ。そういうことなら神にも可能だ。

「それはちょうど氷という物質が、本来は自然界で生み出されるものなのに、人間も製氷機を使って作り出せてしまうことに似て」

 幸福は氷。神の手を離れた超然的なものだけど神にも操作できるもの。

「だから、カノンさん、君がそうして納期に悩んでるのは、ひとえに神を信じなかったからにほかならない」とカレは言う。「神を信じて、神に恥じない行いをすれば、そんな不安には襲われなかった」

「だからそれょは」

 ちーん!

 ずず

 も一度かむ。かんである間にカレが続ける。

「神は、日頃の行いをいわば加点式にして、ある閾値(いってみれば合格点)を突出したような生命だけを評価する。極めて公平に。差別なく」

「なるほど」とカノは言う。「そゆことね。カレンくんが神さまだなんて、おかしいと思ったよ」

 要するに。そいつは努力論の言い換えなのだ。神を信じて日一日を感謝と懸命に費やせば、おのがじし幸福はやってくる。その幸福は神を信じたゆえの恩寵なのだ、と。

「君の善良な行いが君を幸福にする」

 なら初めからそういえばいいのに、とカノは思う。

「君はどちらかというと運命論者だからね」

 ぜんぶ計算ずくか。

 ……でも。まあ。そだね。わからないでもない。『運命』も『努力』も結局はどちらも『幸福』って価値観が根底にあって、そして多くの人は自分がライオンじゃなくてガゼルに生まれたことを、不幸だと嘆いてる。実際に不幸かどうかは別にして、確かにそれは運命だ。生まれた時点で捕食対象として決定づけられている、けど、努力によって脚力を身につければ、ひとまず、ガゼルとしての天寿を全うするくらいは、生きられるかもしれない。家族に看取られて、慎ましやかだけど確実な幸福は、あるかもしれない。

 ま、結局ライオンの脚力には勝てなくて、ちーん! ということも、あるだろうけど。でも可能性は努力によって生まれる。

 ただし努力で全てが叶う、というのは馬鹿らしい。そんなわけあるか。そんな意見は私たちの過去にある膨大な遺伝的(生物学的)歴史を愚弄しすぎてる。努力で補えないことのために私たち生命はいくつもの種類に分化していったんだ。

 けど、全ては運命によって決まってる。それもどうかと思う。カレンくんのいうように、私はどちらかというと運命論者ではあるけれど……。

「神は、日頃の行いを加点式にして、評価する」

 カレの言葉を思い出す。

 ずず。

 何かが垂れてくる。紙よいずこに。

「あー」

 頭はクリアだ。けど、やっぱり健康のときよりぼんやりしたとこがある。身体がこれだけいうことをきかないんじゃ、そうもなる。

 あごをぐっとあげて、上下逆さまの世界で遠くのカレを見る。もうすっかりテーブルの方に体を戻してる。

「ねえ、カレンくん」とその後姿に呼びかけた。

「やっぱテリーヌショコラ買ってきて」

「本当に?」

 テリーヌショコラ。いや。このあたりじゃ駅チカくらいにしか売ってなさそうだ。さすがに気が引ける。

「甘いのならなんでもいいや。頭に栄養回したい」

 くすりと笑う。スマホをホーム画面に戻して椅子から立ち上がった。

「じゃ、ついでに夕食の買い出しも済ませてくるよ」

「スーパー?」

 うん。とカレはうなずく。

「ポイントもつくからね」

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