iii DO_立_NO_入_TC_禁_RO_止_SS iii

 この熱意はどこから生まれたか


 はっきりしてるのは、彼女はいつも暇つぶしの糸口を探してるということだ。

 その糸口を手繰ってゆくと、ときに思わぬ燃料を発見することがある。燃料は持ち帰ってもいいし発見場所から動かさなくてもいい。

 ただ、持ち帰って適切な部位に注いでしまった場合には、なにか面倒な推力を発生させることがある。取り扱いには十分気を遣わなきゃいけない。

 今回のケースはこれだ。

 つまり経緯はわかってる。僕がわからないのは、僕たちはできることなら人生に退屈はなければいいと感じているけれど、それと同時に、猛進的で不可逆的で生気に満ち満ちた、あらゆる意味での感動を伴うアポロ11号みたいな事蹟にも、直接は関わりたくない、という気持ちを併せ持っている。

 なぜなら、そういうエモーショナルだったりセンセーショナルだったりすることは、往々にしてスタンリー・キューブリックとエリア51にまつわる噂のような余計な付着物をも引き寄せる。

 ダラス事件の真犯人だとかイルミナティの本当の目的だとか――それら都市伝説の真偽はどうあれ、そうした付着物を取り除くにも莫大なエネルギーを要してしまう。

 何かの熱量というのは、そうやって指数関数的に増えてゆくものなのだ。ちょうどいいポイントの設定が、本当に難しい。

 だから僕たちは慎ましやかに、せせこましく、僕たち自身の定めうる境界線を決して飛び越えたりせずに、感情も行動もそのうちに収めて、こぢんまりと呼吸を続けることを、暗黙のうちに取り決めた。

 まあ、べつに、その線を越えたからといって違約金や刑罰が発生するわけでもないから、お互いの裁量でそこは自由にやったらいい。

 ……のだけど。そうはいってもこの件については僕は純粋に驚いた。

 この熱意はどこから生まれたか。

 今回のことは今までの閑話とはまるで種類が違う。僕はこれを本題に入る前に強いて言及しとく。青く、新鮮で、アボカドよりカロリーを蓄えているような種類の一件だ。

 でも勘違いしちゃいけない。「栄養価が高ければ体にいいはずだ」。そんなことはない。ただただ、胃もたれに襲われることだってある。

 つまり……僕は映画にそれほど興味がないから、僕流の喩えでいって、彼女が完成させた有形遺産(遺産といっても負の方だ)は、世間的にはこれはタル・ベーラが手掛けた芸術映画を鑑賞するのと大差ないといって憚らないと思う。『サタンタンゴ』、僕は途中で狂いそうになった。

 あるいは――その喩えが適当でない場合には――最寄りの文化会館で週末あたりに不定期に開催される小有名人の講習会かセミナーのようなものを想像してみるのもいい。

 理屈っぽいし、やたら長い。終わってみると「何がなんだかわからない」。

 僕が目を通した有形遺産も、おんなじだ。

 いうなれば他者の理解を考慮せずにどこまでも熱情一本だけで駆け抜けた自己満足の作品だ。この熱意はどこから生まれたか。いや、残されてたか。

 とにかく。

 僕はこれで一応の義務は果たしたと思う。

『警告はした』

 だから、これで続きを読んで「つまらない」と感じても、申し訳ないけれど、僕の知ったこっちゃない。キープアウトのゲートをくぐろうとしてるのは、君の足、それから君の意志だ。

《引き返すなら今だ。》

 だけど最後に一つだけアドバイスをするなら、そうだな……。

 事前にカフェインを摂ってたなら、本当にやめた方がいい。聞くに堪えないセミナーの唯一の希望は、僕たちに安眠の手立てが残されていることだからだ。


 *


 はじめに現象があった。

 僕たちが好んで使う表現を用いるなら偶然の一致とかシンクロニシティとかいう現象だ。それが最初のきっかけ。

 僕は子どもの頃からヒーローとか戦隊モノに興味を示さなかったし大人になっても反動を起こすこともなく過ごしてきた。僕にとって仮面ライダーとかゴレンジャーとかへの理解は幼少も青春も病めるときも健やかなるときも、いついかなるときもカフェ・オ・レとカフェ・ラ・テの違いみたいなところを超えず、ただ名前によって差別化されていることだけは知っている、そんな程度に留まった。留まっている。

 だからスーパーマンとウルトラマンの映像がほとんど同時かつ連続的に僕たちの目に飛び込んできたのは、まさしく偶発的な現象だった。

 どうしてアメリカのマーベル・コミックを代表するヒーローと日本の円谷が生んだヒーローが時同じくして僕らの双眸に映り込んだのか。いや、今となっては理由も忘れてしまった。ただそういう現象があった。

「スーパーマン」と僕は言った。「ウルトラマン」

「考えてみたらどっちも『超人』なんだよね」

「そう。僕もいまそう思った。日本語に訳すと違いがなくなる」

「世の中には『オーバーマン』なんてのもあるみたい」

「すごいね。世界中の翻訳機にそれらの違いを試験させたらどうなるだろう」

「わからないけど、確実にいえるのは電気代の無駄」

 僕は肩をすくめた。そういうんじゃないらしい。

「でも、スーパーマンか」

「どうかした?」と僕は気を取り直して訊いた。

「べつにウルトラマンでもよかったんだよね」

「?」

「スーパー・マーケットかウルトラ・マーケットかみたいな話でもあるかな」

「ますますわからない」と僕はますますわからなくなりながら言った。

 命名権における神秘性についてだよ、とその時カノンは答えた。

 それからカノンは遅くもなく早すぎもしない適切な口調で、こんなようなことを述べた。


 **


 クラーク・ケント扮するヒーローがスーパーマンだった、ので後に誕生した和製ヒーローをウルトラマンと命名した。

 とするならば、もしもアメリカを代表するヒーローの方が先んじてウルトラマンと名乗っていたら、ハヤタ隊員の方は、やっぱりスーパーマンと名付けられてたんだろか。や、きっとそうなっていただろう。

 だけど現実のウルトラマンはというと、彼の名前は前・東京オリンピックで用いられた「ウルトラ難度」という流行語に由来していて、だから、スーパーマンとウルトラマンの名前があべこべになってたとしたら、なんだか全然エピソードに面白みが欠けていた。

 それより私はこう考える。実はそれらの偶然は必然によって起こされているんだ、と。

 つまり胸にカラータイマーをつけたヒーローのユーモラスな誕生秘話を約定するために、それより30年も前に生まれたヒーローの胸にSマーク(Uマークではなくて!)がつけられたんだ、と。

 その世界では未来の事項が過去の決定権を握ってる。

 や。もしかすると過去とか未来とかさえ、ないのかもしれない。存在しない時間の中に事象だけが何枚も畳なわって存在してて、バインダーのファイルを整然と羅列するように、体系的に、並び替えられている。

 誰によって? 神さまかもしれない。

(ついてこれてるかい? 僕はこの時点で諦めそうになった。でもカノンは続けた。)

 あるいは――それとは全然関係ないけれど――いわゆる取引所やバザールを「超える」規模だから、大型食料品店はスーパー・マーケットと名付けられた。

 じゃあ、そのとき、ウルトラ・マーケットやオーバー・マーケットやスーパー・デューパー・マーケットという代案は、一体どのようにして棄却されたのか。まかり違えば私たちは夕食の買い出しに向かう際に「ハイパーに行ってくる」と宣言する羽目になっていた。

 もちろん彼らが棄却されたのには、言葉の「構成的に」とか「法則的に」という理由もあったかもしれない。じゃあ、それなら『iPhone』ってなんだ? なんで『i』が小文字なんだ? 頭文字は大文字ってのが英語文法のルールだったんじゃないのか?

 だけどみんな先進的だと感じた、し、ある時期には多くの商品や概念がこのアイデアを模倣した。ルールなんて無用じゃないか!

 初めに現象が出現してそれに言葉を与える際に、その命名に規則性とかいう基準は大して重要じゃない。けどややこしいのは、元々の規則・法則に従ってるものもある。だから頭が混乱する。混乱する、けど、言葉の可能性とか神秘性をも同時に感じる。

 だけどそういうことを有史以来繰り返してきたおかげで、言語は全体として統一感を失ってる。それは他言語同士を照合してもそうだし、一つの言語の中にあっても、言語というのは必ずカオティックさを帯びさせている。

 そして、もしもハイパー・マーケットという名称が(仮に)文法的にありえないとしても、このカオティックな存在は、それさえも一旦名付けられた暁には、彼に一定の名誉と称号を与えて、無理にでもこれを世間に認めさす(まさにスティーブ・ジョブズが打ち立てた偉業のように)。

 だから余計に言葉は、言語は、混沌としてしまうし基本的に歯止めはきかせられない。


 **


 このときはこれで終わった。

 それよりもそろそろ「デラックスまで」夕食の買い出しに向かう時間だった。なんだよデラックスって。

 まあいい。

 夕食の相談やら何やらで、僕たちの閑話はあっけなく宙に消えてった。食後に再び蒸し返されることもなかった。

 だから僕は翌日にもなると本当に何もかも忘れた。

 カノンの方ではこの閑話を引きずってただなんて、三日後にソレを発見するまで想像もしてみなかった。まるっきり、だ。

 帰宅すると珍しくカノンの靴が玄関から一足消えていた。スニーカーではなくサンダルの方だった、から、まあ近くのコンビニくらいかなと踏んだ。あとになって実際その通りだったと判明した。

(でも行き先はべつに重要じゃない)

 ダイニングテーブルには起動しっぱなしのラップトップが佇んでいた。遮光カーテンが閉じられて、そのうえ部屋の照明も落ちてたから、くっきりと四角く、そこだけ闇が切り抜かれてるようだった。

 僕にとっては誘蛾灯の効果になって、なんとなく吸い寄せられた。

 テキストエディタと、そこに並ぶ文字。

 ネクタイを外しながら眺めるそいつは残滓と呼ぶにはあまりに力強く、誘蛾灯の効果そのままに、僕の体は触れた瞬間にショートした。

 それは僕を相手にしてじゃ消化不良だった思いの丈を、存分に吐き出したかのような言葉たちだった。帰宅後のルーチンも忘れて、思わず食い入った。


 *


 さて、ここまでが前置きだ。

 つまりここからがキープアウトの先だ。

 長い前置きだったとは思うけど、そういう通過儀礼なくしてこの先には立ち入れない(立ち入る価値があるかは、どうあれ)。

 で。僕はこの先のことに手直しを加えようだとか、僕なりの解釈を挟もうだとか、そういうことはあえてしないつもりでいる。

 僕が見たままの原文を、そのままに。

 というのは僕は校閲も添削の作業もこれまで経験したことがないし、軽はずみに手を加えたら返って恐ろしい弊害や齟齬を生んでしまいそうだから。それよりも作り手の意思を尊重する。

 第一ここからはキープアウトの先のこと。どこにどんな遺留品が潜んでるかわからない。現場は判断が下りるまで宛然としておくのが鉄則だ。

 じゃ、テープをくぐろう。場外乱闘を決め込んだレスラーみたいに、ゆっくりと、どっしりと。

 ここで引き返したほうが身のためだと、僕は思うけれどもね。


 ***


 言葉は無律法と無秩序に生産される。

 市場を超える規模だからスーパー・マーケット。これはウルトラ・マーケットでもオーバー・マーケットでもスーパー・デューパー・マーケットでもよかった。副詞である連体であるといった理屈は後から釈明しているに過ぎず、現象に名称を付与する際に言語学者は用をなさない。

 こうした性質のため言語研究は常に事後的な性質を帯び、それは歴史学や民俗学に似通う。けれども決して地質学や地理学とは誼を通じない。言語は体系化するにあたって不規則的なカオティックの一面を認めないわけにいかないからだ。

 聖書にいわく「始めに言葉ありき」。言葉とは混沌そのものである。

(僕はこの序文を見るにつけ、これが数日前の会話を基に構築されたのだと判断した)


 言葉の混沌性について面白いのは、言語を解釈しようとする人がしばしば言葉のカオティックな面を認めないばかりか、その解釈中にも矛盾を孕ませているケースがある点だ。

 たとえば日本語の二重表現という問題がある。

 頭痛が痛い。馬から落馬。

 これらのイディオムは好意的に解釈した場合、前者は「頭痛という症状」が看過できないほどの「痛み」を発生させること、後者は意図的な「下馬」ではなく不慮の事故として「落馬」と形容したいかもしくは「有機的な乗り物」の上から「正しい姿勢で着地しなかった」ことの包括的な意味として「落馬」を用い「馬から」は「その乗り物を限定」する目的として、ともに成立されている、と説けるかと思う。

 けれどもそんな回りくどい解説を用いなくても、これら多重表現の問題は、切磋琢磨、紆余曲折、不撓不屈、これらの四字熟語を並べるだけで片がつく。切磋は「切り磨く」意味であり琢磨もまた似た意味を持つ。紆余と曲折も不撓と不屈も、ともに前二字と後二字とを類語にする。深謀遠慮、唯一無二。もしくは身体、把握、永久……、類似した字義を合わせて一つの熟語となす成句は日本語中に挙げ出せば枚挙にいとまがない。

「馬から落馬」を好意的に迎えている場合に彼ら既存の熟語があまねく私たちの味方となってくれるのは言うまでもないが、前者を多重表現だからと非難指摘する場合に、では後者の強調表現を備える既存の成語とはどの様な区分けがされるのか。多くの論者はこれに答えない。もしくは「馬」の字が連続使用されていることに論調の突破を見出すか。その前に聞いてもらいたい。我々は皆々共々に多々諸々これを云々。

 思うに日本人はとにかく物事を強調したがる種族なのかもしれない。「一番最初」「先ず最初」「最も初め」、初めという状態に一番も先ずも最ももあったものではないが、何か接頭語を用いて「The First」であることの語気を強めないと気が済まないらしい。そもそもこの段落冒頭の「思うに~かもしれない」も変だ。推定と推定で本文を挟んでいれば、これも文章全体として多重表現である。こういう文章構成は今日の言論空間にも多く散見される。

 けれども日常においてこれら文法上の矛盾が矛盾と感じられないまま平然と使用されるのは、決して私たちがこの言語に不慣れだからではない。細微な矛盾を看過する反面、特徴的に文法が無視された文脈には論理性を超えた直感が鋭く作用する。この超能力は近年では南米の奥地でよく発現される。特にはアマゾンで品定めをしている最中に。

 閑話休題。日本語であって日本語でない文章を察知する能力は、私たちが母国語に長けている証左であり、反対に細微な矛盾を矛盾と感じないのは、この言語感覚が無意識のもとに強く働いているためである。この無意識は日本人の民族性と融和して、一つ一つの間違いを正すよりも内容を咀嚼しもしくは同調することに強く目標を定めている。

 そのための手段として強調表現が用いられ、これは本文の内容をより明確にすることで論旨に親和性を与え、同調の働きかけを容易にする狙いがあるように思う。

 これが日本人の選択した言語感覚であるならば、言語の体系化や整合性、あるいは瑕疵や正誤の指摘といったことは、学術や研究の場面には必要でありつつ、いわゆる実地いわゆる俗世間でのことは[聞き役と話し役の双方が意思の疎通を叶わせているあいだは]どんな使われ方であれ自由にしておくべきように思う。また、このことは極端には、私たちが日本人である以前に、言語の本来的な役割を考えても明らかだ。正しい文法を用いても「意味」とそれに付随する発信者の「意思」ならびに「意図」が伝えられなければ言葉は用いられる必要性がない。

 この点でいうと「的を『射る』のか『得る』のか」の様な問題は、間違いであるとされる『得る』を使おうが使うまいが『的を』との連動をもって十分に本来的の意味(≒正鵠を射る)が伝わるし、「代替」を「だいたい」とするか「だいがえ」とするかといった慣用読みの問題や、誤謬と公是が混在する「敷居が高い」、「力不足」といった語句に対する問題も、結局は全体の文脈を読めばそれで済む話である。

 また、最後の問題に関して、これの注意喚起に辞書の見出しを紹介する場合がある。前文の「敷居が高い」でいえば「未分不相応の場所」ではなく「粗相をして顔向けしづらい」ことを指す、といったように。が、折に触れて正しい意味を学んだとして、使用時に相手に間違った意味で捉えられてしまっては、やはりその時点で言語コミュニケーションの意義を失う。このため誤謬が世間に入り混じった後に正しい意味または用法を敷衍しようという行いには何らの有用性も有効性も見出だせない。

 そうではなく誤用を指摘して当該語句を本来の一元化された状態に戻したいとするのでも、一旦変化が生じてしまったものは二度と源流に遡行するはずがない。「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」。

 これは、そもそも使用を避けるか、聞き手の場合には簡単に受け流す――もし捨て置けない主要な点だったら婉曲に質す――などの対策を講じるべき問題であって、字義を修正するところに視点の重量を加えるのは見当違いの方策といっていい。

 むしろこの点を加重したい人々は、意識的にか無意識にかは別にして、もとから征服欲を抱いたような人種であり、彼らは会話を会話とみなさず世の中のことをおしなべて優越感を得るツールの一つと考えている節がある。すきあらばマウントを取ろうと手ぐすねを引く悪しき人格・風習が、この点における最大にして唯一の問題だ。〈いいから会話をしろ。〉

 そうした人種とは別のところで心の底から言葉の誤用や変貌を嘆く人があったとしたら、その人は今すぐ窓を開けて外の景色に触れるといい。そこはかつて青い田園だった。もっと昔には未開の大地だった。

 単語や慣用句や成句の保全に努めたいと考える人は、言語の中に寺社仏閣や至聖所を建立し、そこで原理主義の祈りを(――日本人の場合には)「たおやめのひねもすなんちゃら」と唱え続けるしかない。ただし祈祷中に清少納言の魂が霊廟に現れし際には、あなたの用いる言語をもまた彼女は嘆くだろう。

 私たちの足元に広がる大地にしても、地球は数十億年という長い歳月に漸進的もしくは一切の休息なく地殻変動を繰り返している。言語のみならず文化とは常に何かしらの変化を伴うものであり、私たちは実際上も言語上もパンゲア大陸の地面を踏んではいない。

 茅葺き屋根と田畑からなる日本の原風景に憧憬を覚えるのは結構だが、その姿も自然天然とは程遠い人工物であり眼前の高層建築の林とはただ材質が異なるだけである。かつ自身がそうした変化のさなかに居、またその近代的なる恩恵を受けていながら新しい変化には不満を抱くというのは、これはもはや冗談か道化の類と思われて仕方ない。

 更にいうと、もしも貴方の願う保全が達成された暁には、地球が地殻変動をやめればそこに住む生命を道連れにしてしまうのと同じく、言語もまた文化をその胸に抱きながら永眠することとなる。社会的な活動が漸進的に営まれながら言語だけ規程の線を超えないということはありえない。

 もう一つ別の角度からこの点を述べると、こうした字義の変化は日本語にも他言語にも山ほど存在する。試しにどの辞書でもいいから複数の意味を持つ見出し語を適当にいくつか抜き出してみるといい。解説文の中に「転じて」の枕詞を容易に発見できるはずだ。なぜ「転じて」いるのか? 過去の人が意味を拡大または歪曲したためである。あるいはその誤用が人口に膾炙しなければそんな解説は起こり得なかった。それらの意味が既成事実となった今になると、私たちはそれらを一切疑うことなく享受する。これと同じ口で誤用を指摘している人があるなら、この点からもその人は笑い草だ。

 もしも言語の中のこうした「転じ」る作用を基本的な形態とは別の特殊なものと定めて、この例外を学究の中に認めようとしない人があったとしたら、彼らはおそらく言語を無機的な物質であると勘違いしている。もしくは形而上〈心〉を宿した有機物にも一般論が通用すると思い込んでいる。

 言語は生物であり有機生命体を一般論に当てはめて論じることは不可能だ。

 まず言語が命を持っていることは、これが常の変化を有する動体であることからも簡単に説明がつけられる。またこの変化の影響を直接的に人間が担っている点からも、その土地の人類文明とその土地で用いられる言語を一つに結びつけて、鼓動ある生命とみなすことには、決して論理の逸脱を発見しないと思う。

 某氏は言語が生命的であるとした上で「成長期の子どもが昨年より身長を伸ばしたからといって『前回のデータと違っている』と指摘する人はいない」とも言及する。[誰だっけ。要出典。]私はこれをもう一つ拡大して、言語には怪我も病巣も発生して、それさえも生命の変化の内側だと考える。言語を無機質と思い込んでいる人にはこれが矛盾や瑕疵に映っている。実際はただ生体の中で起こり得る真っ当な反応でしかない。

 そうと理解してなお私たちは、物質が急激な変化を起こすとき、こちらもそれに付随する何かしらの反応を示さずにいられない。仮にその変化が正常なことであっても成長痛のような痛みを発生させるし、そうした反応は変化の度合いに比例して大きい。言語のいわゆる「誤用」「変貌」への不満は、そもそもの変化が著しいことに対する、こうしたアレルギー反応のようなところから起こされているものとも考えられる。

[次は有機物に一般論が通用しないのくだり。接合思いつかず。後回し。]

 たとえば、はるか天文学的かなたの昔に日本人のステレオタイプと呼ばれていた、メガネ、出っ歯、首掛けカメラ、みたいなことは、確かにそういう人もあったかもしれないけれど、当時からしてそんな姿がスタンダードだったわけではないし、仮に一部に当てはまる所があっても全ては当てはまらないということもある。おそらくは部分的一致が多数派だった。それならばかつての日本人はステレオタイプという一般論に対して「部分的例外」の集合体だったともいえる。けれどもこの部分的例外を無数に寄せ集めると(複雑なベン図を想像してもらうとして)その中央に「一般」が形成される。

 現代でも日本人といえば、真面目、時間に正確、機械工学に強い、謙遜、奥ゆかしい、慎重かつ優柔不断、同調的、と、その特徴がいくつも挙げられる。が、この全てに合致する日本人はどれほど存在するのか。反対にこの全てに合致しない日本人は遺伝的に日本人であっても日本人たり得ないのか。

 そんなはずはない。

 例えば江戸時代には金銭を扱う商人たちは権威階級の最下層に置かれて忌まれ、同様に、染物や食肉加工に従事するものもその臭気のために人非人扱いされた。彼らの精神的実態は私たちが武士道やかつての大和精神を語ろうとするときにも「一般」でないからとして強いて無視される。しかしいずれもその時代にその土地に生きた日本人であり、かつ彼らなくしてはその時代の社会運営が十全には達成され得なかったことを鑑みるに、彼らはただ社会通念上の、もしくは統計上の例外というだけで、ただしこの例外も、現に呼吸をし思考する生命として実在しているからには、空理空論のために私たちの現実から取り除くことはできない。

 私たちが個々に心を宿している限り、私たちがそれぞれの思考や思想に従って人格のいずれかの点でその国民性と例外であるのは当然であり、一般的に語られる日本人像に「一般」という言葉の許容する範囲で一致する日本人は返って少ないかもしれない。それでありながら私たちは部分的例外をなして一般の一部を支える。けだし一部であって一般論の中で私たちは途端に例外的存在にも転じる。学術的な同意を得るために仮想的な議論の上で一般論が用いられることは正当である、が、この一般論を実社会に適用しようと転換することには特別の注意が必要である。

 それでも一般論をもって実社会が語られるなら、私たちはその対策としてまず心を失い左右で一切の違いのない工業製品と化さなければならない。それが人道的や技術的に不可能であるというのなら、一般論の扱いはやはり学術的な場面に留めるべきである。でなければそれは最大多数の最大幸福を約束する代わりにそこから省かれた人の大いなる災いとなって、とりわけその人が「正しくありたい」と考えている場合には、相当の苦悩を当事者に押し付ける。しかし「正しい」とはなにか?

 言語の場合この苦悩が特定の単語を襲わないだけましかもしれない。それを使うものだけが一般や正しさを包括する概念に苛まされる。


 特定の言語における変化にはその時代の精神性が現れる。現代にとりわけ見受けられる意見は横文字・カタカナ語の夥しい氾濫といったあたりに帰結して、グローバルなシーンで求められる一方、それを良しと思わない人たちの中からは文化や思想の西洋化――それに伴う伝統の退廃――を危惧する声があがる。

 双方の意見はともに理解できる。不変は停滞を招いて衰退に発展し、これを避けるためには、事象には常に任意の方向へ進んでもらうのが好ましい。ただし物体が一旦坂を転がりだすとその動きの調整は難しく、過剰に速度が出ても私たちはそれを止める手立てをもたない。ただ事故の予感を覚えながら見守るしかなく、保守派の論調はこのとき発生する不安に概ね要約される。また革新派の方では不変と衰退の関連性を御旗とする。

 この問題は坂を転げる事象の速度を人が(または神であっても)調節できない点にある。そのため中道派の仲介にも議論は尽きない。が、それよりも大元の問題は、保守たる慎重派がまだ起きてもいない事故を過剰に不安視するところにあるように思われる。

 ある場合において事故という現象はそれが起こされたあとにいわば事後対応をするものであり、事前に善後策を講じておくことは良しとしても、それを未然に防ぐような行為は周辺の様々な可能性をも潰してしまいかねない。それよりも危険だと知りながら甘んじてでも自主性を重んじなければならないことがある。ちょうどJ・D・サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』の末文で訴えていたように。

 というのは歴史的にいって、私たちは現代の言語が抱える問題と同様のケースを、過去に少なくとも二度、経験しているはずである。

 仏教が伝来したときにも梵語や漢語に眉をひそめる公卿が存在したはずだし明治維新爾後の新語造成時代にも心中穏やかでない文豪が少なからずあった。ところで現代の我々は当時の外来語に対して、彼らが抱いた感情と同じものを覚えられるだろうか。

「玄関」「我慢」これは元々仏教用語だった。これを大和言葉ではないとして憤ったことがあったろうか。「哲学」「宗教」これは明治時代に新たに訳された造語である。西洋を起源とするから危うい言葉だと訝ったろうか。いや、いずれも単なる成句としか映らないはずである。なぜならそれらは、過ぎ去って歴史が確定した後に私たちが観測しているものだからだ。

 この時代の卒然的な外来語の氾濫(に見える風潮)は「神道を滅亡させる恐れ」がある仏教伝来時代のことと何も変わらない。けれども仏教公伝が倭人に何をもたらしたか。そして文明開化は日本人の生活をどう変えたか。この点の冷静な観測と発見とそれらを統合した論理があるからこそ、現在に生きる人は6世紀のことも19世紀から20世紀初頭にかけてのことも、もちろんそのとき輸入された数々の語句に対しても、基本的には平易に飲み込めている。その現在に生きる人が、現在の状態を激情をもって非難したり肯定したりするのは、とりもなおさず仮想的にも現状の最終点が可視化されていないためである。

 私たちは現状、結果の明らかになっていない事柄に想像の産物を付与して是非を問うているに過ぎない。過去は断定され現状は憶測され、そうして一つの基準に異なる立場のダブルスタンダードが用いられている。

 この予測に人は「抑止力」や「自浄作用」といった理屈をもっともらしく当てはめる。当てはめ、我々こそが正しいのだと義憤的なことをいう。

 そんな感情が沸き起こったときは、次は窓の外ではなくパソコンのキーボードを見るといい。これにはQWERTY配列という無秩序な規格が横行している。タイプライター時代に速記を防ぐためだったという説が流布しているけれど、それならなぜ電子機器化した時点をもって改善されなかったのか。当時の人々が苦痛を払うことを嫌って「前例に」ならい、今日に至っても未だ据え置かれたままでいる。あまつさえ普段はこの配列に違和感も感じない。どちらかといえば無感覚的に受け入れている。

 原始の不条理は、その原始の門の税関を通過した時点をもってどんな種類でも認められてしまう。そしてそうなったら、あとは歯止めがきかない。もし歯止めをきかせたいなら税関を通過したそれら一々を訴えるのではなく、そもそもの税関の在り方と、そこに従事する人々の精神を喚起すべきである。優秀な麻薬犬と検査機を有していても職員に腐敗と怠慢が横行していたらどうすることもできない。

 つまり目先の言葉が云々ではなく、その言葉に何かの悪しき方向性や精神性を思うなら、より抜本的・根本的な、道徳教育の是正といったところに建設的な議論を広げるべきである。それ以外のことは悦に入りたいだけの自己満足に過ぎず、もぐらたたきのように脊髄反射を繰り返していても何をも生みださない。


 ――結局、ハイパー・マーケットだろうがオーバー・マーケットだろうが、それが最初にゴールテープを切った瞬間に道理は引っ込む。

 言葉は無律法と無秩序に生産されるのだ。

 始めに言葉ありき。引用してみたものの、これも私にとり疑わしい。こんな些末で様々なことに逐一目くじらを立てている方が馬鹿げているのかもしれない。

 私も。世間も。


 ***


 この熱意はどこから生まれたか。

 包み隠さずいって僕は半分も理解できたか怪しい、し、カノンの言い分のどこまでが正しくてどこまでが間違ってるか、みたいなところもわからない。

 というよりも『言語』にかこつけてあらゆる方面に無差別攻撃をしているようにも見えるこれは、カノンの頭の中の混沌をそっくり表してるようで、あまりにとりとめがないし、さっぱりだ。

 ただ、なんとなく気持ちはわかる。

 カノンはいつもどこか世間を批判している風だけど、ほんとのところは世界中で行われているあらゆることを受け容れたいと思ってる(カノンの口癖を思い出せばわかるはずだ)。

 だけどなにかを受け入れようとすればするほど、僕たちはそれと比例した数の、多くの反対意見を目にしなければならなくなる。たとえば此岸のたった一人の少年を救うために、対岸から寄せる無数の憎悪を浴びなければならないようなことが。

 基本的に愛に根ざした行為というのは、こんなことばっかりだ。抱擁する数より突き刺してくる数の方が指数関数的に多くなる。

 そういうことに、ときに疲れてしまう。

 だからどこかでガス抜きは必要だ。きっとカノン自身どうしようもなくなってこんな作品を生み出した、のかもしれない、し、もしかすると今までも定期的にこういう憂さ晴らしはしてたのかもしれない。たまさか今回は僕が発見してしまったというだけで。

 矛盾、というより、板挟みを解消するための手立て。

(どこにも発表する気のない文章なのは、見ればわかるから。)

 でもまあ、いい。

 それよりもとにかくエピローグだ。なにであれ、とりあえず始まりと終わりが用意されてば、それなりに格好はつく。と思う。

(さっさと終わらせよう。)


 *


 僕が始まりから終わりまで読了した直後のことだから、コンビニにしては長かった。とにかくカノンが帰宅した。

 玄関の開く音がして、部屋にも、パッと明かりがつく。

「おかえり」

 と僕は待ち構えた。下手に見なかった振りで過ごすより、その方が後々面倒にならないと感じた、し、やっぱりそういうのは不誠実だから。

 ただいま。

「飲みもん切れてたんよ」とカノンは言った。

 向こうも別段いつもと変わったところのない様子だった。途中で封を開けたらしい飲みさしのボスのブラックコーヒーをかざしながら、言っていた。

「もう詰め替え終わったの?」

「あるよ」とカノンは言った。「単にこいつが飲みたかっただけ」

 そう。

 どうも『作品』はこれで一応の完成を見てるらしい。最終ピリオドを打ったときの高揚感、みたいなことがあったんだろう。僕にはよくわからないけれど。

 それよりも、ね。

「訊いてもいい?」

 と僕は言った。カノンは会話の手順を短くして答えた。

「単なる暇つぶしだよ」と。

 少なくとも仕事だとか依頼のために書かれたものではない。明確な事実として僕が知ってるのは、そこまでだ。質問を投げたのはご体裁に過ぎないし、その中に多少含まれていた興味も、『作品』そのものに対してより、カノンがどこまで開襟してくれるかの方だった。

 、

 。

 ニュアンスで僕たちは適切な距離を測る。

 テキストエディタはカノンの手によって保存され、閉じられた。ファイルはCtrl+XとCtrl+Vの操作によってさっきとは別の、下層の下層の、も一つ下層のフォルダに移動させられた。

『SENTENCE』という最上層の親フォルダから連なる無数の子フォルダたち、と、その集合体は、まさにカノンの頭の中身そのままって感じのカオスさで、底の底にまで移動させられた『作品』は、だから、おそらくもう二度と開かれることはないように思う。

(カノンもそれでいいと感じてそんな場所に投げ込んだ。)

「なんだかもったいないね」

 と僕は言った。『作品』の完成度よりも、熱意の結晶という、努力賞的な意味で。

「暇つぶしに代価なんか求めてないよ」とカノは言った。

「かもしれないけれど」

「ま。いつか私が死んだとき、誰かに発見されるくらいは、願っとく」

「いつか死んだとき」と僕は言葉をなぞる。「宮沢賢治やフランツ・カフカみたいに?」

「そ。それでまかり違って世間をあっと驚かせられたら、面白そうだね。驚かせられたらだけど」

 僕はやっとスーツを脱ぎながら言った。

「生きてるうちに有名になりなよ」

 カノは白い歯をむき出しに笑いながら、言った。

「やだよ。人前に出るなんて恥ずかしい」

「夕ご飯は?」と僕は聞いた。

「お好み焼き」

「フライパン?」

「と思ったけど、ホットプレートでさ、一緒に、焼こ?」

 なんだかちょっと可愛らしかった。

 僕は普段のカノンに『女の子らしさ』みたいなのは、特に求めてるわけでもないんだけど、でもこのときはホッとした。

「いつか私が死んだとき」

 その言葉が耳にこびりついていた。

 僕は無理に微笑んで、目の前の現実に合わせた。

 そうだよな。何事にも終りはある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る