正解は I Love You

「ここに●を書きます」

 百均に売られてる100枚1セットのメモ用紙を一枚引き抜いて、そこに点と呼ぶには大振りな、だけど丸と断定するにはすこし控えめな記号を描く。

「も一つおまけに」と言ってカノは、最初に描いたのよりも一回り小さい、今度は点と形容するしかなさそうな黒い染みを付け足した。

 ボールペンのお尻で、二つの記号が書かれたメモ用紙を、とんとんと小気味よく叩く。

「さ、訳してください」とカノは言う。

 カレはチェス盤の未来を読むような真剣な眼差しを注ぐ。腕組みをする。熟考。

 しばらく経って、

「お手上げ」とかぶりを振った。「正解は?」

「正解はI Love You」

 I Love You?

 ちょっと落ち着こうか。Iと、Loveと、You?

「それは、単語に対して丸の数が足りないように思うけど」

「なら『月が綺麗ですね』で」

 カレはもう一度メモ用紙の表面に視線を注いだ。何度見てもそこに刻まれてるのは大きいのと小さいのの二つの点でしかない。月が綺麗、というより、百歩譲って月と地球のミニチュアだ。

「なるほど」とカレは言った。「僕には難易度が高すぎる」

「でしょ。そう思うよね。私もそう思う」

「率直に言って、そんなことを言い出す人は頭がおかしい」

「そんなこと言い出す人だからね」とカノはボールペンでこめかみを叩きながら言った。「でもさ、ある場合においてはこれが芸術なんだよ」

 ある場合においては、ね。とカレは妥協の産物みたいな声で言う。

「これは、わかる人にはわかるものなの?」

「わかる人にはね。でも、わかると思う?」

「わからない」とカレは即座に答えた。

「そんなもんだよ。私たちの着想はいみじくもこの二つの点のようなものだけど、そのままじゃ混沌とした抽象の塊だから、それをどうわかりやすく具体にするかってとこに熱意や愛情を注ぎ込む」

「その熱情がレフ・トルストイの『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を生んだ。あるいはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』やアルベール・カミュの『異邦人』を」

「訴えたいことを原始的の原石のまま発表していたら、彼らは今現在の評価を受けてなかったろうね。それをどう加工して歩み寄るかの技能、または技能の獲得に、芸術への盲目的な犠牲が見出される、し、だから巧みであるほど他者から敬意も払われる」

「でも、原始的な状態でもわかる人にはわかるんでしょ?」

「そうはいっても芸術は一握りの人にだけ開かれた選民文化ってわけじゃない。そういう時代もあったし、それは現代でも一部に認められるけど、それはまかり違っても歩み寄りをやめることの免罪符にはなりえない。というか、なってはならない」

「高尚と難解は似て非なる」

「決定的にね。だけどそれならどこまでもわかりやすくすると、今度は陳腐に収まってしまう。芸術というより、それはペンギン用の解説書に近い。もしくはアオミドロのための赤本」

 ふうん、とカレはスムースに息を吐く。

「カノンさんも、結構苦労してるんですね」

「私はしてないよ。私はそこまで犠牲を払ってないもの」

「そう?」

「才能もそれほどだし」とカノは曖昧な仕草をした。「だけど世の中にはいるんだよ。才能のある人が。才能だけを頼みにして、返って才能を腐らせてしまうような人たちが。あまりにもったいない」

「なるほど。そうして世の中に大小二つの点描が溢れてく」

 ちらっと見る。ハッキリとは答えない、けど、表情は肯定を示してる。カレは続ける。

「君はさっき、それを頭がおかしいと言ったけれど」

「ま、意図的にやってるようなのは、ね」

 アラビカ豆の使用が謳われた中身を飲み干して、空の紙コップに月と地球のミニチュアをくしゃくしゃにして放り込む。一方がそういう合図をとると、ダウンジャケット特有の衣擦れの音を小さい周囲にばらまきながら、二人は席を立った。

「やっぱ酸味強くて苦手」

「コンビニのって、大体こんなだよ」

 ダストボックスに押し込んでイートインを後にする。絵画展の帰りだった。


「ここに◯を書きます」

 百均に売られてる100枚1セットのメモ用紙を一枚引き抜いて、そこに丸と呼ぶには大振りな、だけどミステリーサークルと断定するにはすこし控えめな記号を描く。

「も一つおまけに?」

「今回は要らない」とカノは言った。それからボールペンをお気に入りの製図用のシャープペンシルに持ち替えた。ペン先で用紙をこんこんと叩く。「ちょっと不細工だけど、これを数学的に完成された一つの真円だと考えて」

「その豆大福みたいな丸を?」

 だから不細工だって断ったよね、とカノはぐっと睨む。

「失礼」とカレは笑いながら言った。「続けて」

「この円は私が考える社会の縮図なの」とカノはあっけなく気を取り直す。「円の内側が一つの社会を表して、ちょうど円の正中――つまりど真ん中ね――が、その社会の最も規範的で最も平均的な場所を示してる」

「いみじくもそこが中心点」

「弓道やアーチェリーの的みたいなもので」とカノはうなずく。「真ん中に近づくほど、その社会における価値観や感性や、あるいは思想とかの、ハイスコアに近い」

「仮に数値化できたとして、ね」

「厳密には、偏差値の正規分布を円で(もしくは放射状に)表した、といったほうが正しいのかもしれない。ま、いいよね、そのへんは」

「お好きに」とカレは好意的に笑う。

 続ける。そしてこれは私の勝手なイメージだけど、とカノは断って、

「昔はこの円のあらゆる範囲に人がいた。けど」

「今はそうではない?」

「情報の氾濫が人格を共振させる結果となった、ような気がする。簡単にいえば『いいね』の数だけ『わたし』と『あなた』が『おんなじ』になった」

「共感に安心を得る時代だからね」

「そうして、円の真ん中に、真ん中に、とみんなが集まってきた。『いいね』、真ん中に、『いいね』、真ん中に。はい、どんどん詰めて、真ん中に、真ん中に。

 で。個体の数は昔と今でほとんど変わらない、けど、密度と分布はずいぶん変わった。ベルカーブの中央値だけ極端に人口比率を高くする」

 この中心では(豆大福の真ん中を、トン、とシャープペンシルで叩きながら、)自然発生的に特定の空気感が形成され、そして暗黙のうちに、みんながその空気感に合意する。

「同調圧力」

「という呼び方もある」とカノは言う。「逆の見方をとれば『いいね』で構成されてるから、ある人たちにとっては心地良い。右も左も『わたし』と『おんなじ』なわけだ。安心する。ほっとする。たとえ『わたし』が間違ってても、周りの『おんなじ』が合意してくれている。心強い」

「それがときに数の暴力になるわけだ?」

「そ、だね」とカノはちょっと考える。(想定してたよりカレの理解が早い。ほんのり軌道修正の必要を感じる。)「暴力かどうかはともかく、中心から外れたところに居る人たちは生きづらい、から、彼らも徐々に宗旨変えをする。古い考えから円の中心の新しいにすり寄ってゆく。『おんなじ』になってゆく」

「まさしく秩序の仕組みだね」

「そしてその秩序は必ず停滞を生む。右も、左も、上も、下も、すべて『おんなじ』になってしまった、から何も変化が起こらない。決まりきった秩序の日常。だんだん飽きてくる。なんだかつまんない」

「だけど秩序の中からは刺激は生み出せない」

「そう。そう。だって、考えること、も、ひらめくこと、も、みんな『おんなじ』だもんね。『いいね』によって『わたし』と同化した『あなた』が作ったものは、当たり前だけど『わたし』の想像を超えてこない。だけど『わたし』の考えに似てるから安心はする。『いいね』と思う。また一歩みんなが中心点に近づく。『おんなじ』が強まる。何度も繰り返す。停滞。倦怠」

「僕たちの生活がそうであるように」

「決定的に違うのは、彼らは倦怠の理由に気づかない」とカノは言う。「自分で自分の首を締めているということに。つまりそこから抜け出すには『ちがう』を受け入れなければならない、ということに、気づかない」

 この空白に点在する人たちを、と、豆大福の外側に近いあたりを、製図用のずっしり重厚感のあるシャープペンシルで適当にコツコツと叩きまわりながら、「受け入れなければならない」、カノは言う。

「それは彼らにとって勇気の要ることだよ」

 すくなくとも『わたし』の価値観とは『ちがう』わけだからね。とカノは同意する。円の中心から遠ければ遠いほど、ね。

「遠いほど、その人は社会から奇人や変人の類に見られるわけでしょ?」

「それを『認める』ことはできないよね。『認めない』ことで『わたし』はその社会に自分の正常さを投影できるわけだから」

「勇気がいる」とカレは繰り返す。

「でも彼らを認めないことには、この世界はどんどん退屈になってゆく」

「つまり、アリとキリギリスのアリのようにね」

「アリのように?」

「偉大なバイオリニストを餓死させて、娯楽を失った苦しみを、次の夏に知る。労働は娯楽抜きには耐えられないことも」

「イソップの?」

「イソップの」

「そんな話だっけ?」

「僕がむかし読んだのは、そういう結末だった」

「子ども向けじゃないよ」とカノは笑う。「いずれにしろ」

 カレンくんがいうように私たちはパンのみにて生きるにあらずだし、労働と娯楽に喩えたのも軽妙だ、それらは概ねバランスの問題で、豆大福のあんこと皮のどちらか一方が正しいということはない、と私は考える。

 だけどこれだけは断言できるのは皮には皮の役割がある。彼らに常識とか秩序とかを追求することは彼らから――ひいては私たちの世界から――独創性を奪うのと同義だ。彼らは社会秩序と『おんなじ』でなくてもいい。

「だろうと思うよ」とカレは言った。

 カレは会話のある時点から、これが以前の閑話と地続きだ、ということを思い出していた。絵画展の帰りに交わした月と地球のミニチュアに関する考察、もそうだけれど、それより遡った秋の、外出の予定が流れた日に交わした会話。

 サバのサンドイッチの、というよりもサバに塗りたくられたマヨネーズの、つんとした匂いまで蘇る。

 君はあのときも。

「大衆の非難には耳を貸すなというような意見だった」

「きっとどこを切り取っても考えは変わってない」

「その在り方は君自身の中に停滞を起こすと思うけれど」

「しょうがないよ。変えられないことはどこにだって在る」とカノは言う。「この豆大福からも豆が除けないみたいに」

 シャープペンシルで黒い粒をいくつか書き足す。

 それは偶然か、それとも意図してか、すべて円の外側に、しこりやできものみたいに描かれた。カレはぼんやり見ていた。

 見ながら、そのうちのどれか一つがカノンなんだろな、と、ふとひらめいた。

 それで特に考えもなくこうつぶやいた。

「いつか君たちが円の中心になれれば良い」

 カノは一瞬ぽかんとして、次にはちょっぴり遠慮がちに笑った。

 やめてよ、と気持ち困ったみたいに言う。

「私は今のとこ『ちがう』でいい。『おんなじ』は、ちょっと怖い」

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