ぱちぱち
くべるくべる焚き木をくべる。燃える燃えるめらめら燃える。
一瞬で燃え落ちて、灰。
よりも長く静かに音を立ててる種類の方が良い。今もカノはぱちぱちと木が爆ぜるだけの環境音に耳を傾けている。
世界を箱庭と断定する山々の落葉樹たち、がどれも赤や黄色に染まったせいで、ぐっと火への憧れを強くした。
庭の物置から竹ぼうきを持ち出して、垣根に落ち葉を集め、アルミホイルと新聞紙に包んだサツマイモ、と、ステンレス製の火ばさみ……頬にきゅうっと熱さがやってきて、吐く息は白く……
はあ。浮かばない。
目を開くだけであっけなく消える架空の世界。
あるいは暖炉と火かき棒のようなことも望んでみるけれど、どこまでいっても架空の線の向こう側のことだ。揺り椅子に揺られながら膝にブランケットを載せて編み物を続ける白髪のおばあちゃん的世界。
いわずもがな603号室はそれを叶えてくれない。そしてもしそんな家に住もうとしたら、一体どれほど背を伸ばさなければならないんだろう。環境音の動画再生、くらいの安価な代替行為で我慢する。
我慢する。我慢? や、違う。
『足るを知る』だ。
足るを知る。私の知る限りこんなに都合のいい言葉はない、とカノは思う。
本当に心から欲するものを得るために、代償、は払いたくない、から、『足るを知る』。身の丈にあうところで妥協する。
どんな言葉も捉えかた一つで善にも悪にもなる。『足るを知る』。義務がヤだから権利もいらない。そういうノブレス・オブリージュの裏返しみたいな意味にも使えてしまう。
ぱちぱち。爆ぜる。
動画で聴く、こんな程度でも、まあ、耳には心地いい。
でも本当のところは今日は往復1時間くらいの距離の城址公園まで紅葉狩り、の予定だった。そう遠くもないから(運転はずっとカレンくんだけど!)お昼を済ませてから出れば良いか、と考えてた。
サバのサンドイッチを味わいながら観てた地方局のローカル番組が、偶然にもその城址公園からの中継を始めて、そいつはもうとんでもない混雑っぷり、を新人アナウンサーっぽい女の子にレポートさせていた。
収録映像かな、と若干の期待を求めたけど、画面の右上にはばっちりLIVEの文字があった。
咀嚼の速度が無意識に早まってた。
「どうする?」とカレンくんは聞いた。
立錐の余地もない。というやつだ。有名な公園とは聞いてたけどあまりにひどかった。新人アナのためにわざわざそんな千尋の谷を用意して、放り投げでもしたかのような。
「見頃なのでぜひ」とスタジオに返す直前の一言が、紅葉に対してなのか人だかりに対してなのかもわからない。
私は歯型のついたサンドイッチをお皿の上に戻して、薄味に調整されたトマトスープで食道に流し込んだ。それから陶製のカップを、ことん、とテーブルに置いた。
一つため息をつく演出も忘れなかった。
「カレンくんが、どうしてもっていうのなら」
ぱちぱち。
見事に予定は流れた。
埋め合わせに別のところへ、という機転のきかない二人だから、それから三時間近く経った今も一向に動き出す気配がない。
新しい何かの代わりに、無為の時間をイタリアン・ピッツァみたいに薄く引き伸ばして、その上に退屈をトッピングしてやり過ごしてた。(本当は機転じゃなくて情熱が足りてない)。
カノ的にいえば『足るを知る』週末だ。
夕方がやってきて、そろそろ夕ご飯の準備をしなければ、という動機に迫られるのを、ぷつぷつと燻った感じで、待っている。
――テレビはあれからずっとつけっぱなしだった。二人とも観てはいないけど賑やかしにそのままなおざってた。ちょうど番組表の跨ぎで映像がニュースに切り替わる。
ぱちぱち。
前のプログラムと次のプログラムの隙間を埋める瞬間接着剤みたいな報道番組が、淡々と、今日これまでの出来事をさらってく。
イワトビペンギンの赤ちゃんが、どうの、総理就任後初の公式訪米が、どうの。無為の昼下がりに退屈のトッピングを、更に付け足してゆく。
ぱちぱち。
速報が告げられる。
『今朝◇時ごろ人気音楽グループ◇◇のリーダーとして活躍する◇さんが自宅マンションで倒れているところを同居していた家族が発見し……』
部屋からは遺書らしき手紙も見つかった。画面には悩み相談のフリーダイヤルが表示され、それはキャスターが読み上げる婉曲な言葉たちよりも、ずいぶん直接的に事件の全容を明るくしてる。
『人気絶頂の』、『24歳という若さ』、『ご冥福を』
ぱちぱち。
断片的な言葉がカノの耳にも入ってくる。
(だけど、そもそもこの人は誰なんだろう。亡くなって、初めて知った。)
ぼんやり視線を注いでいると、カレが詳しいことを教えてくれた。
「へえ」とカノは何度かうなずく。
よれば、亡くなったその人は以前から奇抜な言動が目立つことで知られ、ソーシャル・ネットワークのアカウントも過去に数えきれないくらい炎上したし、その度にネットニュースの見出しを飾ったりもした。そうして特定の界隈の注目を常に浴び続ける人だった。
(遺書には、そうした炎上や誹謗中傷に耐えらない旨が、あった)
「相当有名だと思うけど、知らない?」
「この人のこと? それとも炎上のこと?」
「どちらかといえば、どっちも」
「じゃあ、知らない。どちらかといえばどっちも」とカノは言った。「世界中の9割の人は、この人のことなんて知らないと思うよ」
「そりゃ総人口の割合から言ったらね」とカレは苦笑した。「なんだか、やけに辛辣だね」
カノは首を振った。
ぱちぱち。爆ぜる。
「毎日誰かは亡くなっている」
「だけど自らの手で、というと、意味合いは変わってこない?」
「それを不憫と思うなら、そうなる前に世界中の失業者を救ってあげなよ」
そんなことはぜんぶ手に余る。膨大な情報が距離を均一にしてしまったせいで、私たちは日々、遠く遠くの死までこの身に感じざるを得ない、けど、その死はあまりに遠く、直接的に私たちには関係を持たない、し、干渉だってしようがない。
『足るを知る』だ。情報がある特定の物理的距離を超えて隔たるようなら、その先のことを私たちは、感情を分離させた空間で受け止めるしかない。それは同じ国内のことでも、実際的に、私とその人が他人であるならば。
「至極ごもっとも」とカレは言った。「だけど、らしくないね」
「らしくない?」
「カノン的じゃない」
「どんなのが私らしいの?」
カレは少し考えた。「なんというか、愛がない」
「はっきりいうけれど」とカノは不満たっぷりの顔で言う。「これ、事件それ自体がばからしいよ。炎上が嫌なら黙っていればいい。黙るのが嫌なら中傷なんて気にしなければいい。黙るのも嫌だけど炎上も嫌だ、なんて、どんなワガママなんだ」
「だからといって中傷行為を是認するということもできない」
「何かアクションを起こせば様々なリアクションがある。そんなの当たり前。当然そこには反論も。だって、万人が納得するなんて、不可能なんだから」
「老夫婦とロバのジョークのように?」
「そう。そういう当たり前のことに対して、身の処し方も知ろうとせずに無茶をしようという人たちが、結果として、こういうことになる。だけどさ、こんなこと、一体どう悲しんであげたらいいの?
命には尊厳がある、とは思うけど、同じ命でもダーウィン賞みたいなことだってあるんだよ。こういうのはちょうどそれとおんなじだ。度胸試しに命綱なしでビルの屋上を渡り歩いてるに過ぎない。失敗して転落しても、愚かな若者の嘆かわしい行為、でしかない。決して悼ましい死ではない」
カレは肩をすくめた。
「君は、独創的な部類の人の味方だと思っていたけれど」
「もちろん味方だよ」
だから過ぎ去って事実と化した事柄より、まだ手の加えようがある未来のために、こういう意見を持ち続けてる、とカノは言う。
悲嘆は物語的で心地良いけれど決して抜本的な解決になりはしない。
「だけどカノンの意見だと、精神的に強靭でない人は自己表現を諦めろ、ということになってしまいそうな」
ぱちぱち。
そんなことはない、と首を振る。
「ソレが当人にとって自己表現の在り方だというのなら、ビルを飛び越すことはいい。ただその際にしっかり命綱をつけましょう、というだけのこと。強いか弱いかではなく、やり方が間違っている」
「やり方」とカレは言う。「僕には命綱が何を指しているのかわからない」
「だからさ、万人を納得させるなんて、無理だということ」
「?」
「文句言ってくるやつは無視しましょう」、簡単にいえばね、と付け足す。
「その心構えというか、理解というかが、命綱?」
カノはうなずく。カレは反対の動きをする。
「それは口で言うほど簡単ではないよ」
「簡単だよ。だってそういう文句や中傷は、大体のとこ不特定多数の匿名な人が行ってるわけだから。匿名の人間の意見なんて(少なくとも独創性を表現したい人たちにとっては)聞く価値ないからね」
ぱちぱち。
カレは今度は首をかしげた。
「共有とか共感とかを求める人たちからすると、一般の意見は重要のように思うけど」
「そう? だけど一般の人と共有とか共感とかできる感性のどこが独創的なの?」とカノはさらっと言った。「他人と違うから独創的なのに。だから――何かを表現する人の中で、共有とか共感とかを重要に感じる人は居ても良いと思う、けど――その人たちは表現者であっても独創的な部類ではない。彼らは彼らで好きに双方向性を求めたらいいけれど、いま私がここで想定している人たちとは決定的に人種が違う」
なるほど、とカレは一先ずうなずく。
「独創的な人は一般の人と思考や思想が大きく異なる」とカレは言う。「とすると、必然的にその言動には、一般の人の中傷が集まるようになる」
「そだね。で、さ、そういう中傷を無視したらいい、というのは、だって『不特定多数』だとか『匿名』だとかの人たちは、そういう状態を義務づけられてるわけだからね」
「義務づけられている?」とカレは顔をしかめた。「匿名性について言及してるんだよね?」
「そだよ」
「僕はそれは権利だと思うけど」
「匿名性が?」
「だってプライバシーを保護することは権利のはずでは?」
聞いて、カノはちょっと釈然としない。
「したいと思ってすることはね?」と相手の理解度を計るように言う。「だけど、したくないと思ってもし続けなくちゃならないことは、義務でしょ?」
したくないと思ってもし続けなくちゃならないこと。匿名が?
「僕は匿名というのは個々人が選択してるものだと思うけど」
「や、だって、世間的に無名の人が、どうやって有名になるの?」
もちろん犯罪とかそういうことを除いて。真っ当な、つまり、正攻法で。とするとその場合は何かしらの成功に保証されなければならない。
「そういう成功を勝ち得なかった人が『匿名』でいるわけでしょ。じゃ、これは、選択でも権利でもなくて義務と要求じゃない」
得られずに、脱したくても、脱せられないわけだから。
ぱちぱち。
「そりゃ、さ、実名を明かす程度のことなら、権利的に可能だよ。だけどその名前に一体どれだけの価値があるんだろ。名前を明かしても世間に認知されないことは『匿名』と同義ではないのかな?
そして、もし彼らの言葉に一つでも聞く価値があるのなら、彼らはすぐにでも『匿名』のベールを脱げるんだ。それができないから、彼らは匿名性の義務を負い続けてる、と、いうことは、彼らの『誹謗中傷』や、あるいは『意見』には、決して聞くに値する金言は、含まれてない」
「少なくとも独創的であろうとする人にとっては、ね?」とカレは注意深く訊く。カノも注意深くうなずく。
だから無視しよう。好きにやればいい。とカノは言う。
「それは犯罪の温床のような考えにはならない?」
「なったとしても、それは道徳の問題。私は独創的な人の味方ではあっても非道徳的な人の味方ではないからね。好きにやった結果、身を滅ぼしたとしても、そんなの知ったこっちゃないよ」
「や。だから、みんなそれを止めようとして意見する」
「悪女の深情けといいまして」とカノは言う。「物の道理がわかってない人ほどやたらに道理を押し付けようとするものだよ。結局それも『匿名』的のなせるワザであってさ。どうあっても彼らの意見には従う価値がない」
いや。
ぱちぱち。
「言葉なんて吐いた瞬間に嘘になる」とカノは言う。「それに、一つの言葉で全ての状況に対応することも、できない」
だから私は、犯罪を奨励してるとか、あるいは、匿名性の言葉も集合知となれば価値があるはずだ、とか、そんなとこの議論は、どうでもいい、やめにする。
匿名人間の中傷なんて無価値の凝塊だ。
あなたはそれをまともに聞き入れるべきではない。
必要なとき、必要な人に、この言葉を響かせられれば、それでいい。
ぱちぱち。
爆ぜる。
「だけれども」とカレが静かに口を切る。「匿名人間が無価値の凝塊なら、僕たちのこの会話も、唾棄されるべき内容なんだろね」
「本来そうあるのが理想なんだよ」
めらめら燃えて灰になる。カノはそっと目を閉じた。
ぱちぱち。
架空の焚き火で暖を取る。
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