終わりの涯てまで
ふう、と息をつき、握っていた台本をテーブルにぽんと投げる。
「改めて訊くけれど」とカレは言う。「なに、これ」
カノは冷静を戻して答える。
「劇中劇」
「劇中劇?」とカレは言う。「さっきは舞台の台本だって」
「だから、演目の劇中劇の部分だけ切り抜いてある台本なの」
なんだ、それは?
どうしてそんな手間のかかることを……は、劇中劇の部分だけ役者が交代する演出だったから、とのこと。たった一公演の素人劇だったから準備不足や不手際も多く、台本をいち早く製本にしてしまい、あとから校正の必要に気づいたのも、そういうことだった。
(いまカノの手元にある二冊の台本は、つまり校正前の方。)
「本人たちが楽しそうだったからさ、外から見てる分にも面白くって」とカノはふっと遠くに振り返る。「で、記念に貰っちゃった」
カレは白ワインを音もなく喉に通して、ふうん、と頷く。
「でもこれ」グラスを握っていない方の手でまた台本を引き寄せて、器用にペラペラとページをめくる。「劇中劇っていうけど、シェイクスピアでしょ?」
カノは、んー、とちょっと悩む。
「とは違うけど、最後らへんは意識的に『ロミオとジュリエット』に寄せてるね」
「全体としてはどういう物語なの?」
「スタンダールの『赤と黒』だよ」
「ん?」
「厳密には『赤と黒』を下地にした現代劇。現代劇でありコメディ。コメディでありときにシリアス。でもアレンジが効きすぎて色々と崩壊しかかってたし、そもそも素人芸なのがそれだけでシュールだった」
「本番も見たんだ?」
「一応、招待されたからね」
「つまり君は一度通しで見ているわけだ」
「カレンくんの方が味はあったかもね」
カレは苦々しそうに首を振った。あまり蒸し返されるのは健康を害する恐れがあってよくない。ようやく変な汗が引いてきたばかりなのに。
反対にカノはちょっと酔い心地に、どこかうっとりとしてた。映し出されるものすべてを愛すべき想うような、そういう視線をカレに送ってる。
僕の器用でないところまで認めようとする、その瞳。僕自身が失敗を認めきれていないから、そういうのは、ちょっとバツが悪い。
カレはページを繰りながら、さも何でもない感じを装って、
「スタンダールね」とつぶやくように話題を変えた。「むかし読んだっけな。たしかに、どっちも禁じられた恋愛がテーマといえば、そうだけど」
「どっちも?」
「だから『赤と黒』も『ロミオとジュリエット』も」
「ああね」とカノは言った。ほんのちょっと酔いが強めに出てるらしい。「でもカレンくんが『赤と黒』だなんて、珍しいね」
「有名どころはそれなりにかじったよ」
そっか、とカノは簡単に片付けた。カレの趣味や過去に興味がない、わけじゃない。そこを掘ってもすぐに終点の岩盤に着いてしまう。
「これ、つまり、ロミオ役はジュリアンなの?」
「ジュリアンって『赤と黒』の主人公だっけ」
カレはうなずいた。
「じゃあ、そうだね。主人公とヒロインが物語の途中で劇中劇を演じるってテイだから。で、そのときだけ演者を交代する」
「どっちも?」
「そう。二人一役が二人いる」
「ややこしい」
「シュール路線だからね」
「コメディでもあった」とカレは言う。「で。この役名は?」
「どの役名?」
「だからこれ」と自分の方の台本を見せて言う。「ロミオでもなければジュリアンでもない。現代劇用に直したってこと?」
「そ。というか本編には本編で別の名前があった。ジュリアンじゃなくて、なんだっけ。まあいいか。思い出してもなんの足しにもならないね。とにかくそれは 劇中劇のときの名前」
と、すると、観ている側は途中で演者が変えられて呼び合う名前まで変えられて……しばらくするとまた元の演者に戻されて……というのは……や。まあ。そうか。シュールレアリスムか。ずいぶん大胆だ。素人劇か。
カレはそれ以上気にしないことにした。
「それで、これ、ヒロインはどっちなの?」とカレは訊いた。
訊かれたカノはきょとんとした。
「どっち?」
「ヒロイン二人いるでしょ」
「どっちが?」
「こっち」
「どっち?」
「ねえ文学少女。君はシェイクスピアは読んだことないのかい?」
「ああ。『赤と黒』。ヒロイン。二人?」
最初に家庭教師として通う家の町長夫人、と、修道院編の次のご令嬢の方の、とカレも詳しい名前を思い出せずに言う。
「おお。おお」と湧き上がる記憶に驚いて、カノは言う。「お嬢様の方。お嬢様の方。そうそう。秘書だか会計士だかの真似事で仕える家の。ちょっとサイコな末娘」
サイコなね、とカレは適当に同意する。
「ジュリエット役なんだから、立場的にお嬢様のほうしかないでしょ」
「禁断の愛ってことでは、どっちも同じだと思うけど」
「っていうと、カレンくんは、『赤と黒』のヒロインは、あの夫人の方だと考えてたの?」
「僕はべつに、どちらでもよかったよ」
「よくないよ」とカノはちょっと楽しさを抑えきれないみたいに言った。「だって、お嬢様がヒロインだから、最後の闇堕ちが面白いんじゃない」
「闇堕ち?」
「あれ。闇堕ちでしょ?」
「闇落ちっていうか」
「合ってるよね?」
「アレをそう表現するのが違うんじゃないかという意味で」
「なんだ。じゃあ合ってるよ。闇落ち」
「譲らないのね」とカレは苦笑した。
「そんなことより別の作品とごっちゃになってるかと思った」
「筋自体は合ってると思うよ。闇落ち」
「カレンくんの方が譲ってないみたい」とカノはくすりと笑う。
カレは頬をぽりぽりかいた。
「や、いいけどさ。だけど、君がそんなアフォリズムで古典を表現しようとはね」
「だって、明らかに精神病んでたような印象だったと思うけど」
「まあ、頭は抱えてたね」
「そうそう。直喩的に」
「足は運んでなかったみたいだけど」
「意味がわかると怖いんだ」とカノは笑った。
とりあえずそこまでは付き合った。
本題に戻して、カレの言い分は、古典文学をそうやってデフォルメに扱ってしまっていいのか、ということで、なにか人間が簡略化されてしまっているような気がする、し、そうした人格描写を受け取るほど僕たちの理解は実人間の実心理から遠ざかってく気がする、とのことだった。
難しいこというね、とカノは笑う。そして言う。
「デフォルメだから当然だよ。ディテールを削ぎ落としてるわけだから。そうしてわかりやすいところだけを伝達物質として残して次に受け渡す。生物本来の遺伝構造とやってることは似てる」
「だから肯定されうるべき行為だと、カノンは考える?」
果皮の甘みと渋みが鼻孔で混ぜ合わされる。こんな安物の白ワインでも今は奇跡的な融合のように思われる。
カノは少し考えた。
『そもそもお嬢様の闇堕ちに、どんな実人間的の実心理的な作用があったんだっけ?』
で、頑張って思い出す。
削ぎ落とされたディテールを肉付けし直す。
「お嬢様の闇堕ちには先祖の伝承が深く関係してた」とカノは契約書の要項を端から読み上げるみたいに、たどたどしく、言った。「彼女の一家が、没落しかけてたこと、と、お嬢様自身が家族から疎まれてたという事実も、あった」
「だから先祖の物語を心の拠り所にしていた」
「ジュリアンとの『禁断の愛』も、お嬢様自身、許されざることと、おそらく心のどこかでは理解してた。していながら、それでも自己肯定の材料として、ここでも伝承を持ち出した。禁断とは勇気なのである、と」
「引くに引けなかった、けど、そういう強情を張り続けてるうちに……」
「本心から伝承と自分とを同一にしてしまう」
「そしてジュリアンの悲劇が起こされる」
「闇落ち。」
けれども結果だけが取り沙汰される。その方が刺激的だからかもしれない、とカレは言う。闇堕ちの背景に何があったかは実のところ彼らには重要ではなくて、それよりも短い言葉で物事を断定する、まさしくアフォリズムな態度に、みんな興奮を覚えてる。
その興奮に錯覚させられて、彼らは僕の意見とは反対に、真実アフォリズムこそが実人間の実心理を表すと、信じ込む。
「文学が徹底した人間心理の研究をやめてしまったのは、つまり、そんなことをしても無意味だと諦めてしまったからだ。たった一言のアフォリズムに『悪霊』の重厚なセンテンスはいともたやすく屈服してしまう」
「悪霊?」とカノは言った。「ドストエフスキーの? そんなのも読んでたんだ?」
「いや。僕は読んだことはないけどね」
「なんだ」とカノは笑った。「文学が心理研究から身を引いたのは、心理学の台頭があったからだよ。それに『赤と黒』だって結局はフィクション、実人間の実心理じゃない。『悪霊』もね。または『ロミオとジュリエット』もね」
かもしれない、とカレはゆっくり答えた。酔いに背中を押されていることは自分でも承知していた。いつもよりちょっとブレーキが効かない。
「そんな人たちを見ると僕は無性に悲しくなるんだよ」とカレは言った。どこかに途中の言語がすっ飛ばされている。
カノはそれに婉曲に、デフォルメが悪いんじゃない、と答える。
どんな道具でも良いとか悪いとかは結局は使い手の問題だ。上手くなければ使わない方が高い成果を挙げてしまうし、間違っていれば害にもなる。デフォルメだとかアフォリズムも、それとおんなじ。道具が悪いわけじゃない。
「そして悪い人、間違った人は、決してなくならない。それも個性だもん」
「ソレと理解している人間だけが扱い方を知っていれば良い?」
「辛辣にいえば、ね」とカノは言う。「だから、理解の及ばない人たちに一々目くじらを立てても、意味ないよ」
「わかってる」とカレは言う。「飲みすぎたよ。ふっと思いついたことがすぐに口を突く。そんなこと今まで感じたこともなかったようなことまで」
「若いなあ」とカノは笑う。
「青いんだ」とカレは自分から訂正する。「ワインは、やっぱり、来るね」
でも本当は若くも青くもなくて年を取りすぎたのかもしれない。
液晶の時計を見る。小さくため息を吐く。
カノが『もう一杯いかがです』とワインの瓶を持ち上げる。カレはそれを手と首で遠慮する。
「明日も忙しくなるよ」
「そ、ね。お開きとしますかあ」
「気の若さだけじゃ勝てない」
603号室で行う最後の晩餐だった。けれどもなんだか当たり前に行われるいつもの光景のようだ。
それは(いつか語ったような気がするけれど)二人の拠り所が土地には無いためだった。
明日にも明後日にも603号室に彼らは住んでるし昨日にも一昨日にも603号室には住んでいなかったともいえるし、つまりそういうことに自己の本質を求めてないわけで、あっけなく就寝までの通過儀礼を果たして、二人はベッドに横になる。
体を倒すと急に眠気が強まった。
朝からの心地よい疲労、アルコール、いつもより管の巻かれた閑話。眠りのお膳立てとしては、これ以上ない。
眠りに落ちる前にカノは訊いた。
「そういえばヒロインの名前なんだっけ」
「カノン」
そうじゃなくて原作の。
「なんだっていいじゃない」とカレは言う。「朝になったら忘れるよ」
「じゃ、闇落ちの子」
「それでいいよ」
ほっぺたをさすって、言った。
実際にもカレはマチルドの名前を思い出していた。カノはそのことをわかってた。そのあともしつこく3回くらい訊いたけど、結局教えてくれなかった。
熱が引いてみると、なんであんなに興奮してたのか、自分でもよくわからない。
ただ、そういうことが恥ずかしいというわけでもなかった。
『まともに返事したら、また後が長い』。
そのうちに二人のもとに夢がやってきた。
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