ドイル少年だって言ってる?
物に執着しない人でもなにか一つくらいお気に入りの道具はあるわけで、消耗品にしても同じブランドを購入し続けたり、長年使ってたりすれば、やっぱり特別な感情も湧いてくる。
愛着。というほどではないにしても。
カノの場合キーボードがそれだった。作業領域をデスクトップからラップトップに切り替えてからも、打鍵感の強いメカニカル式をわざわざ外付けで接続しながら用い続けてる。中でも89キー型でないと駄目だった。一般的な109キー型に比べてテンキー部分をまるごと排除したコンパクトさがメモ用紙や資料を広げるのに適してる。
でも89キー型なら何でも良いってわけじゃない。
キーの配列、サイズ、有無、といったあたりはメーカーやブランドによって異なるし、特に『エンターキー』と『右シフト』が無駄に幅を取っているのはカノ的にいって、しっくりこない。指が今のキーボードに慣れてしまってる。
おんなじに、打鍵音もずいぶん気に入っていた。夜の静寂にカタカタと鳴る音が神経を研ぎ澄ましてくれる。だから、もうこれじゃなければだめなのだ。
機能的なことでいえば、それよりも86キー型の方が好ましかった、けど、指と耳をなげうつことはできないし、第一86キー型はその業界でレッドリスト入りするくらいレアな生物だ。
カノの愛用する89キー型も、だけど希少性は高かった。それこそ彼女が愛用するシリーズもずいぶん前に生産が終了してしまい、もし買い替える必要が起こったらどこか小売店に頼んで中古品を取り寄せてもらうしかない。
大切に扱うしかない代物だ。現に長年使い続けてきた。カノにとってこの89キー型キーボードはいわば『相棒』とも呼べる存在で、そうした物には、つまり、特別な感情も湧いてくる。
専用工具、のほかに、クリーニングジェル、エアダスタースプレー、天然素材の化粧筆、アルコールティッシュ、布製のウエス、etc...あと天日干しの際にキーを並べておく容器……。
揃えるべきものは案外多い。年に2回から多くて3回、の定期メンテナンス(というよりクリーニング)の日が、またやってきた。
工程が一つずつ進んでゆくさまを、カレはキッチンカウンターの方から遠巻きに眺めてた。台に肘を預けてカプチーノを一口すする。
メンテナンスにはまとまった時間を要すからいつもは平日にやってしまうのだけど、今回は天気と気分が、カレが在宅してるときを狙撃した。
なにも知らされてなかったカレは、朝起き出してきて、急に思いがけない。だけどめったに見られる光景でもないし、だらだらと流れる休日よりは刺激もあった。食事までカウンターで済まさなければならなかったのは流石に窮屈だったけど、たまにはパブの真似で、そんなことも悪くない。
午前いっぱいを本体とパーツの掃除に費やして、午後にはベランダから天日干し用の容器が取り込まれた。まだ水気があるキーをウエスで一つずつ拭ってやる仕草にも、カノ流の特別が感じられる。文字のかすれたキーには丁寧にラベルシールも貼られる。
89の穴にそれぞれが差し込まれてく。
最後にPCを立ち上げて、レスポンスにおかしなところがないかを確かめる。チェック用のアプリケーションもあるけれどカノは古い人の癖で『新しいテキストドキュメント』に直接打ち込む。結局その方が手っ取り早い。
で、いよいよ間違いに気付いたのは、付属的な外周――『Alt』とか『半角』とか『ファンクション』とか――のキーを片付けて、実際に文字を入力しようという段になってからだった。
QWERTY、まずは上段、次にASDF中段。
下段まで到達して同じように一文字ずつ目で追ってゆく、と、なぜかVキーを押してcが出た。
「お?」
その横のCとプリントされているキーを押してみたら、こっちは反対に小文字のv。
「ありゃ」
ひとまずメモ用紙に書き記してチェック作業を続ける。c⇔v。ほかに間違いは見つからなかった、ので、CとVだけ専用工具で取り外して入れ替える。
やっと意味に気づいたカレが、端の方からくすりと笑う。
「ボタンの掛け違い」
「ま、ね。ボタンってよりキーだけどね」とカノは一旦その方面に返事する。「使わないんだよね。左下のあたりって」
「よく使ってると思うけど」
「そう?」
「コピー&ペースト」
「あー」
「というか分解前にスマホで撮っておけばいいのに」
だけどもう完了だ。そのためだけに起動したラップトップを、ひとまずテーブルの端に寄せ、ぐっと伸びをする。疲れたーと叫ぶ。地味だけど根気も神経もいる作業だ。
「カプチーノ?」
「ラ・テ」
香り立つ湯気。
コーヒーブレイクの最中にカノは思い出したように言った。
「ボタンの掛け違い」
「?」
「さっきカレンくんがそう言った」
「どうかした?」
「最近のでは一番の警句だなあ、と」
そりゃどうも、とカレは二杯目のカプチーノを飲みながら返事した。
カノは、
「ボタンの掛け違いによって人は真実を遠のかせてしまう」と続ける。「キーボードとキーの関係を真実と事実に見立てたってわけでしょ。とっさにしては良い思いつきだったよね」
そして百枚1セットのメモ用紙を一枚引き抜いて、ユニボールの極細ボールペンをすらすら走らせる。
「なんだか興奮してるところ悪いけど」とカレは眺めながら言う。「僕にそこまでの深い意図はなかったと思う。たぶん」
後づけだって構わないよ、とカノは簡単に言う。
メモ用紙にはたった一行、こう書かれた。
『キー(事実)を掛け違うとキーボード(真実)が正常に動作しない』。
相変わらずの、と感じてカレは首をひねる。
正常に動作しない、というのなら、この圧縮言語が将来的に正常に動作することはあるんだろうか? その時々に感じた想いや考えを封印するのなら、もっと多くの言葉で補強しておかなければ、成立しないように、カレには思われる。
「未来の私がどう受け取ろうと未来の私の勝手」
「たとえ現在とは考えが異なっても?」
「すべてを保存するなんて無理だしすべてを伝えるのも無理だから、ね」
「そう」
とカレは言った。じゃあ、こういうメモを取る行為自体、カレにはちょっとよくわからなくなってきた。ただ、今回はそれよりも、もう一つ気になるところがある。
「キーボード(真実)って、そこに書いてあるけれど」
「そのようですな」とカフェ・ラ・テを飲みながら言う。
「でも、もしもキーボードという規格品、あるいは完成品を真実とするなら、それは常に一つの状態、一つの答えしか受け付けない、というようなことになってしまう気がするんだけれど」
「それが?」
「カノンはそう考えている?」とカレは言う。「つまり……僕は真実とは人の数だけあるというような認識なのだけど」
ほあ。カノはぽかん、と。カップから口を離したばかりだったからかもしれない。とにかくぼんやり兼じぃっと、カレを見る。
「それは解釈という言葉と履き違えてるのでは?」とカノは緩やかに言う。カレの方は即座に、
「や、履き違えてるとかではなくて、解釈そのものだよ」と答える。「要するに真実は人それぞれの解釈によって形を変えるというか」
おお。
そういう考えも、あるのか。と驚きを露わにする。
「でも、それだとすると、変えようのない一つの答えのことを、カレンくんはどう言い表すの?」
「そっちが事実だと」
「事実?」
「事実。僕にとってそれはキーではなくキーボード」と念を押す。「というのは事実というのは断定された情報のことを指す。情報自体は曲げようがない、から、これは変えようのない一つの答えといえる。
だけどその情報をどう受け取るかは人による。つまりここに解釈が発生する。解釈のフィルターを通した先のことが真実だ、と僕はこう考えてる」
こう突きつけられてカノはうろたえた。事実=情報というのは、確かにそうには違いない、けど、それをして真実が多面的であるというのは、どうなんだろう。いささか早計、ではなかろか。
よりもカノの頭には、レフ・トルストイの説く『バクテリアと爪』の喩えがふぁさっと浮かんだ。
我々は地表だけを観測して地球を無機物だと定めるが、バクテリアが人間の爪だけを観測し研究を続けたら彼らは人間を無機物と定めるだろう
それでちょっとくらっとした。
「いいかいカレンくん」
真実はいつもひとつなんだよ。ドイル少年だってそう言ってる。
「ドイル少年?」
カノはそれには取り合わずに続ける。
「例えばこの場所にドイル少年がタイムスリップしてきたとします」
ドイルくんがいつの時代の子かはどうでも構わないけれど、まあ、おおよそ500年前から飛んできたものとします。
少年はこの時代に着くなり私たちの部屋に降り立ち、室内に閉じ込められた。おそらく部屋から出ようと思えば自由に出られるけれど、そこんところは設定上の問題だから、理解して、飲み込んで、その上で気にしないこと。
「部屋には私たちを含め、ドイル少年以外、他に誰もいない」
テーブルの上には(今はもう完成してるけど)メンテナンス途中のキーボードと、それに本体から外された全てのキーたち……カレンくんいわくボタンたち、が、散らばっている。
つまり私が言うところの1つの真実と89の事実が、転がっている。
ドイルくんは十六世紀の人だから当然キーボードなんて知らない。見たこともない。ただイギリス人だからアルファベットは知ってる、ので少なくとも特殊キー以外のボタンに書かれてある文字の意味はわかる。
AのボタンはAを表していてBはBを、だ。でもそれ以上のことはわからない。わからないからテーブルの上をよくよく観察して推し量る。
少年はキーボードに着目する。器の表面に無数に空いている穴に、どうもボタンがピッタリはまりそうな気がする。
実際にやってみる。その通りになる。
適当に持ち上げたAのボタンを適当な穴に押し込んだら見事にカチリと噛み合った。ドイル少年は思った通りの結果を得られてすこし喜ぶ。
ところが、だ。
「言い忘れてた(という設定にしておく)けど部屋にはキーボードとボタン以外にモニターもある。キーボードが打鍵されたとき文字が表示されるモニターだ」
そこに、パッとGの文字が浮かぶ。
ドイル少年は何事かと思ったけど取り敢えずもう一度ボタンを押してみた。2つ目のGが出る。押してるボタンはAなのにGしか出ない。何度も何度も。GGGGGGGGGGG。
もしもドイルくんが勘の働く少年だったなら、差し込む穴を間違えたのだと、気づいたかもしれない。でも彼は幼かった。見た目も頭脳も子どものままだった。だからよくわからなくなって、今度はモニターに表示されている方の、Gのボタンをテーブルから取り出した。
そしてまた適当に穴にはめてみた。押し込むと、次はなんとAと表示される。
AAAAAAAAA。
「わかると思うけれど単なる偶然だよ。奇跡的にAとGを逆の穴に差し込んでしまったの。でも」
ドイル少年はそこでひらめいた。
『なるほど(この機械がなにであるかは未だに不明、わかったもんじゃないけれど……!)とにかくこの機械はA→GでありG→Aなんだ』
さて。
「キーボードという製品を知っている私たちからすると、彼はあまりにも可哀想な少年だ。事実の取り方を間違えた結果、真実に到達しない」
「それは解釈を間違えただけだよ」
カノは断定的に首を振る。
「でもキーボードはA→Gでも機能する」
「?」とカレは言う。「そうだよ、間違った解釈でも機能する。だから真実は人の数だけあるんじゃないか」
「そうではないでしょう?」とカノも言う。「間違った解釈の先にあるのは間違った結論だけ。Aのキーを押してGが表示されるなんて状態はキーボードの規格として正常とはいえないんだから」
「でも機能してるなら、それも一つの形態として認めることはできる」
「それは……」
言いかけたけど、ふと思い立って、やめた。
「まあ。いいか。カレンくんがそういう詭弁で良いっていうのなら」
「詭弁?」
カフェ・ラ・テに、一息つく。
A→Gも一つの真実だ、なんて、そんなのは不便でしかないし狂ってるとしか思えないし、そもそもの設計すら無視してる、けど、
だとしても一つの真実、一つの正解だと信じたいなら仕方ない。
『事実を積み重ねた先に到達する美しい一つの解こそ私には真実の唯一的な骨格に思われるけど』
「多様化の時代だよ。解釈は広げないと」
「だとしても真実の形は変わってないはずなんだけどね」とカノもそこだけは譲らない。
「変わるよ。僕たちが変えなくても世の中が変える」
「単に解釈の仕方を変えてるだけだよそれは」
解釈は、むしろ真実の先にあるものだ、とカノは考える。バクテリアが私たちを無機物だと考えるのは、単に事実の考証が足りてないだけで、それは誤った認識だ。決して新たな真実、ではない。
事実と事実と事実と、さらなる無数の事実と、を照らし合わせた先に一つの真実が存在して、その真実をどう解釈するかが人それぞれだ、というなら、話はわかる。つまり。
私たちが有機物であることを発見する。AをAに正す。そうした上で、でもやっぱりA→Gの方が楽だった、というなら、それはそれで構わない。
それこそが解釈だ。
だって、もしそれぞれの解釈の積み重ねを認めさすことが真実だというのなら、じゃあ、裁判ってのは、単なる意見交換会なのか? 徹底した事実の考証による適正な真実、を法と照らし合わせた上でどう解釈するか、がそこに課される使命じゃないんだろか。
まあ、だけど、いいか。
私はトルストイは偉大だと思うけれど、そのトルストイにしたって間違っていた。いわんや爪の主成分はケラチンでありタンパク質であり無機物じゃない(そんなことが『バクテリアと爪』の本質じゃないことは重々承知してるけど)。
世の中に正しい真実を発見するのがこれだけ困難ならば、解釈を真実と混同する世界があったとしても、ま、いいか。
カノはカフェ・ラ・テをぐいっと飲み干して、忘れていた最後の作業、取るに足らない些事に手を伸ばす。
(たまのドリップもいいけど、やっぱお気に入りのインスタントコーヒーが一番ですな)と思いながら、
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