リペア・オア・リビルド
♪ いつのことだか思い出してごらん
その歌詞に代表されるように過去のことはそうしようと思えば簡単に思い出せるものだと信じてた。「もう昔のことだから所々忘れてしまっているが」こんなセリフが飛び出したらいつも安っぽさを感じたし名作だと謳われても疑った。つまり「部分的にしか覚えてない」という設定は都合の悪さをくらます創作上の体裁でしかない。安易にそう決めつけていた。
それは私の記憶がそうではなかったからだ。多感の若さと興味があらゆる記憶を私の脳内に縛り付け、覚えていられないことはなかった。
横長の□いコルクボードに無数の△や◇や@といった図形が貼り付けられていて、新しくやってきた≡や✝はその末尾に自動的に貼り付けられてゆく。かつては記憶に対してそういう感覚をもっていた。
だから突然▼の記憶を語る必要に迫られた際も、私はそれをコルクボードから引き抜くだけですらすらと答えられたし、上下左右に貼られてある図形との位置関係から、時系列まで明瞭だった。
それに、図形ということなら記憶一つ一つはちょうど◎のような性質でもあった。中心の●に最も印象的な事件が据えられていて、●を大きく囲った◯の中に、その出来事に関する様々な周辺情報が詰め込まれていた。交通事故のあった横断歩道にカルガモの親子が何羽いたかという下らない数字まで鮮烈だった。
もちろんもっと幼い頃の記憶になると別だ。1歳の記憶はたった1回くらいしかないし2歳の記憶もたった2回くらいしかない。でもそれは元々覚えていなかっただけだ。
つまり私が嘘だと感じていたのは、その瞬間には「この目で見た」と自信を持って請け合っていたのに、時間とともに薄れさせてしまった、そういう種類の記憶に対してだった。
老いれば忘れる。そんな単純なことなら私だって想像できた。だけどそれは火曜日に履いていたスニーカーは何色かとか9月に何回雨が降ったかとかの些末な出来事に限定されると思い込んでいた。
思い込んでいたのはブレザーや校章バッジで着飾っていた時代のことだ。その頃から比べると私も長い人生を歩んだ。仮に1日を1年に換算してみると、私のこれまでの半生はゆうに西暦を超える。神話の登場人物もびっくりの寿命だし屋久島にある縄文杉だって私より歳下だ。
それだけの長い時間を過ごしてみてようやくわかった。確かに記憶というのは心もとない存在だ。思い出という名の☆の数が増えるほど、コルクボードが夜空みたいにごちゃごちゃとしてくる。北極星さえわからなければ方角も知り得ない。いずれそうなる。
だから……言い訳にしても長かったようだけど……ともかく、今から語る思い出話については、私は本当に多くのことを忘れてしまってる。大切な思い出であったはずなのに重要な部分を残してほとんど歯抜けの状態だ。
私がいくつのときだ? どういう流れでそうなった? 情けないくらいわからない。◎の◯が劣化して周辺情報が散ってった。
なので仕方ない。仮定の話をする。残された●を紙の上に置いて、脇に恣意的に色んな要素を書き込む。それから新品の◯で蓋をする。リペアというよりもリビルド。これから話すのはそういう類のお話だ。なにか矛盾があってもそんなもんだろうくらいに飲み込んでもらいたい。
だからそれは大学時代の話だ。
当時気の合う友人たちと一軒家をルームシェアしていた。ルームメイトは私を含めて四人いた。家賃も四等分だとずいぶん楽だった。
もちろんそういう設定だ。実際のところはどんなシチュエーションだったかも覚えてない。あとで五人に増えるかも。
とにかく。
私たちはその暮らしを共同生活と呼んでいた。まだテレビや雑誌やインターネットがルームシェアという言葉を吐き散らかす前のことだった、か、あるいはそうなったばかりの、走りの時期だ。流行に乗っかったのかもしれない。急ごしらえのプロットだから断定と曖昧まで混在してる。そこんところも大目に見てほしい。
そしてどうせ捏造だから女子四人の生活も上手くいっていた。ケンカもヒガみもワガママもない、誰々が洗濯機に下着を入れっぱなしだとかキッチンの順番を守らないだとか夜中に何かしらの声がうるさいだとか、なかった。ただただ日常系アニメみたいにキャッキャウフフしながらティータイムを満喫する理想郷がそこにはあった。どうせ捏造だから。
一点残念なことに、どうしてもカースト制だけは拭えなかった。暗黙のうちに私たち四人はそれぞれをランク付けして、その順位もやっぱり暗黙のうちに合意がとられてた……というより世間の評価を私たちはそのまま受け入れた。トップに君臨する子はルックスも性格もハイエンドな、男子の夢を詰め込み放題詰め込んだ蝶よ花よのお嬢様だった。同性の視点からも見目麗しい。
そしてヒエラルキーの第二位にあたるのが……いや、その子が一強でほかは三者横並び、ということにしておこう。でないと私の順位を巡って色々と厄介なことが起こされる。
で。この共同生活は周囲にもちょっとした名物になっていた。別の友人と喫茶店でくつろいでいても話題に上ったりしたし、同じようにルームシェアをしたいから中を見学させてくれという子たちまであった。または単に興味本位で覗きにくるような部類も。
こういう人たちが訪ねてくるたび何度でも家にあげてやった。共有スペースまでならどれほど招いても構わなかった。むしろ小さなイベントが定期的にやってくる感覚で、よかった。四人ともそういう賑やかさを厭わない開放的な性格だったからだ。私を含め。
(それでここからがようやく本題なのだけど)
そういう訪問者の中にカレンくんがいた。カレンくんは男友達だけで構成された仲良しグループの一人として、ちょくちょく私たちのシェアハウスを訪れた。彼らは愛嬌もあったし話題もそれなりに豊富だったしで私たちの気に入った。距離感も適切だったし金離れも悪くなかった。当然下心は見えていたけれどソフトに付き合う異性として都合はよかった。
だから私たちも彼らのことは特別歓待した。アポ無しでふらっとやってきても追い返さなかったし彼らとの同伴に限りアルコールの入場も許可した。
もちろん寝泊まりだけは絶対に認めなかったから、すべては終電までに帰るという条件の下でのことだ。でも注意しなくても彼らは自然にそうした。やんちゃな年頃にしては色んなことをよく弁えてたと思う。
だけどそうはいっても血気盛んな年頃のことだ。たまには無茶もするし無理もする。それでも決して道を踏み外すことがなかったのは奇跡といえたけど、逆にいえば道を踏み外さない程度のことなら大抵やった。
それでいうと、その日のことは、まあ、まだ可愛い方だった。つまりその日も酔った勢いで茶番が始まった。悲しいことに人間とは酒に溺れると非常の言動を取らずにはいられない生物だ。
男の子たちが女子の誰かに告白する――これも一種のごっこ遊びなんだろか――とにかくそういう余興が提案された。
単に告白の演技をするだけなんだ。そして相手がそれをお断りする。男の子は順繰りにその行動を繰り返す。本当にただそれだけのことだった。それを私は始まりの瞬間から冷めた目で見ていた。あまりにもバカバカしかったから、ではなくて、あまりにも裏の狙いが透けて見えてたからだ。
告白する相手は誰でもいい、というニュアンスがそのゲームのルールには盛り込まれてた。誰もそんなことをはっきりとは口にしなかったけど、一応のそういう空気感は生み出されてた。
ところが実際には告白相手に選ばれるのは一人に限定されていた。いわずもがな蝶よ花よのお嬢様だ。要するにそこにいる男の子たちは(や、彼らに限らず私たちに絡んでくる男子の93%はそうだった)はじめっからそのお嬢様に気があって、きっと付き合えることはないだろうと踏んでいたみたいだけど、そのときはお酒のチカラで少し大胆さを増していた。
それはごっこ遊びじゃなくて彼らにしてみると真剣な駆け引きだった。断られる際の仕草や表情から、一体我々の勝機は幾ばくかを見定めようとしたわけだ。なんてシンプルで無価値なゲームだろう。だって受け手がその企みに気づかないことを前提に色んなことを成立させている。
まあいい。まあ、いい、し、お嬢様はそこんところの演技もずば抜けて上手かった。誰に対してもスコア58くらいの『気がある偏差値』を設定したし、その対応にも相手の性格や出方によって適宜変更を加えた。一つとして同じレパートリーはなかったし迷うところも見られなかった。
男の子たちはみんな密かな手応えと鋭意努力の念を覚え、傍観者に据えられた我々エキストラ女子三人組も、お嬢様を性悪には感じない。つまりこんな馬鹿げたゲームにも、その場にいる誰をも不幸にさせないし気分を害させない配慮を働かせてた。そんな完全に精緻な八方美人が可能なのか? でもできた。ぎりぎりの細い線には違いなかったけど、お嬢様はその道をすんなり通り抜けてみせた。どこまでが計算でどこまでが自然なのか、今もって彼女は謎の存在だ。
さて、それでカレンくんの順番が回ってきた。それまでに男の子たちはみんなお嬢様の前に玉砕し、カレンくんは満を持しての最後の刺客だった。彼が夜空に四発目の花火を散らせばそれでオチがつく。
それは結構責任重大だ。もしも最後の一人が恥ずかしがって遊びを拒否すれば、その瞬間に場は凍りついてしまう。白けて解散、次の会はなし。まったく単なる余興には違いない、だけどこんな茶番にも人生を分岐させるスイッチレバーが実は隠されている。
そして私がそれまでにカレンくんを観察したところ、彼は常に世界を寒冷化させる危険性を帯びさせていた。いつも同じグループ内にいて、そこの3バカとも気の置けない仲のようではあったけど、人間性というか種類というかについては明らかに一人だけ浮いていた。カレンくんはもうちょっと人生に大人なことを望んでいるようだったし、こういう余興もいつも差し障りない程度に避けていた。
だから、さあ見ものだった。この男の子はこんな小さな村社会のルールにも和を以て貴しとなせるのか、それとも自尊心を守るために我を貫いてしまうのか。
私はできるだけ興味のないふりをしながら……つまりできるだけカレンくんとは視線を合わせないようにして、彼の肩やそれよりは胸に近い辺りを凝視して、行方を見守った。
でもね、そのときだった。思わずカレンくんと目が合ってしまった。彼の方からこっちに視線を送ってきた。
それは一瞬のことだったしカレンくんにしても不慮の事故のようだったけど、その一瞬の視線と視線の交差のあいだに、高密度の情報が流れ込んできた。私はそれを瞬間的に読み取った。
つまりこれは現状そうなっていることだから自意識過剰でも思い上がりでもましてや錯覚でもないけれど、その時にはカレンくんは私に想いを寄せていた。
「なぜ私に?」ということはやめておこう。事実そうだったんだから。
ただ、だからといって魚心あればというような気持ちは芽生えなかった。カレンくんの気持ちを知っても「ああ、そうなんだ」としか感じなかった。もしくは、少しはカレンくんに同情したかもしれない。
だって『誰に告白しても良い』というニュアンスの遊びだけど、その相手は明らかにお嬢様に限定されてたわけだから。それをカースト2位以下の私に目標が向けられたら、やっぱり場が白けてしまう。
カレンくんはそのとき二重に自我を滅するしかなかったのだ。
だけどカレンくんは、そのとき自分が求められている役割を、少しの逸脱も、少しの不足も、なく、完璧に務め上げてみせた。そしてお嬢様も実に見事に対応した。あとから知ったことだけどお嬢様もカレンくんのそれが(前三人と違って)完全なる演技であることを見抜いてた。つまり演技者と演技者による、高度な村社会の保全活動がその場では行われてた。
お嬢様の最後の社交辞令にカレンくんは微かにだけど困った表情で応えた。
それは自分の気持ちも、成せない現実も、すべて穏やかに飲み込む、困ってるには違いないんだけど優しさをも感じさせる、そんな表情だった。あまりに複雑で何かに気づいている人にしか真意が伝わらない表情でもあった。
だからこそ私の目に、焼き付いた。
カレンくんはそのあと何事もなかったように村社会に溶け込んだ。私とは目を合わせようとしなかった。
そして私は……無意識に前髪を直してた。
「あなたに恋をした瞬間だった」
カレはネクタイを少し緩めて、
「おはよう」と頭を撫でた。
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