あなたに逢えるなら
窓を閉めなよと、きっとあの人は言う。吹き付けるから。
風が肌寒い。だから私もそうしたい。でもここから起き出せない。まどろみが逃げていってしまう。
睡眠剤入りの梅雨の冷気だ。
ついでに換気をと思って開け放した掃き出し窓が、こうも災いしてる。開けたのは空模様を確認するためだった。だから洗濯ができないとわかった時点で閉めてしまうべきだった。
体が綿のように重い。感覚はふわふわと宙に浮かんでいくようでありながら肉体はずしんとソファの底に沈んでく。
いみじくも綿のように、繊維の一本、指の一つくらいなら、どうにか動かせそうに思う。けれども全体となると無理そうだ。つまり繊維と繊維のあいだの空洞には物理的に干渉できない。しかも空洞は無数に存在してるし密度からいえばそちらの方が本体だ。体が綿のように重い。
まったく、良くできている。ちょっと前まで不眠に悩まされてたのに、それから少し経って、今度は揺り戻しだ。睡眠は貯蓄できないと言うけれどマイナスをゼロに持っていく寝溜めならできるらしい。
一体この3日間で何度寝ただろう。平均何時間だろう。寝ても寝ても眠気が拭われない。どれだけ負債を抱え込んでんだ?
起き抜けに快調かと思えばまたすぐに睡魔に肩を叩かれる。6Pチーズの5つ分くらい横たわっている気がする。とすると残りの1ピースに生活が凝縮されているわけだ。ちょっと恐ろしい。
でも、せめて作業が手につくなら、それもいい。凝縮された1ピースの生活に、悲しいかな『仕事』の項目は含まれてない。含もうと思っても脳に弾かれる。
不眠のときは処理がハングして、いまみたいな過眠のときには、そもそもブートしない、から、こうしてる間にどんどん残務が嵩んでく。納期も迫ってく。
いいや焦っても仕方ない。
どうあがいたところでどうにもならない。何しろこの肉体は思考に関する一切の機能を停止させている。(あくまでこれらはカノが感じていることの代弁のようなものだ。)
さて。もう本当に寝てしまおう。
目を、閉じる。
(今まではなんとなくもったいない気がして、カノは何もしない内にも眠気に抗っていた。悪い癖なのは自覚してる、ものの、それもどうにもならない。夢が現実に寄与することはないからだ。)
次また醒めて、睡魔はそれからも幾度となく私の肩を叩くだろう。とカノは思う。
『生活が私に何かを要求しなければ、そんなことも心地良い』
要求を思い返せばこそ焦りに変わってしまう。
やめよう。
すべて後回しでいいのだ。尻拭いは未来に託す。どうせ託される人も私であるに違いないんだから。
どこかで鳥がさえずってる。雨は、あがったんだろか。
……いや、まだ少しあるらしい。
サラウンドに小鳥が鳴いている。その奥でぱらぱらと小雨が叩く。私の小さな寝息をそこに加えれば、なにかの三重奏にはなるかもしれない。
相変わらず、まだ眠気が残ってる。
ううん、そうではなくて、この眠気は拭われてほしくない。
夢の多様的な性質をいつもなら残念に感じる。なぜサスペンスドラマの途中から近未来のSFに場面転換してしまうのか。これの脚本家が無意識の私だというから情けない。しかもそれでいて夢のさなかには違和感を覚えない。
だけどそれも今なら許せる。相変わらずどうしてそんな流れになったのかわからなかったけど、これでいい。
美しい夢だった。
そう感じるのは夢から醒める直前の完成された物語のためだった。
いいや、完成……それには語弊があるかもしれない。夢は、ミステリーの『解決編』のような、ロジカルな完成には決して到達しない。いつだって文脈の途中で終わる。
でも、だからこそ今の夢は美しかった。完成されていた。余韻がピリオドだった。
「まるで『スケアクロウ』のようだ」とカノは思う。
あの映画のラストシーンも、ちょうど複雑な余韻と考察の余地を、残してた。エンドロールのあとの空白にどんなエピソードを書き足したっていい。
書き足すために、この余韻にずっと浸っていたい。
とカノは思う。
目は閉じられたまま、まどろみと現実の半々の、あるいはその2つの中間地点に、カノは居た。だから意識的に夢の続きを描けたし、まぶたの裏にある映像も物語に沿って動いてた。
(ちょっとした明晰夢の感覚だ。)
余韻を余韻として味わいながらずっとその余韻を夢に引き伸ばしてく。何もない。シナリオもない。世界だけがある。余韻の世界だけがある。まどろみの中でカノの意識がずっとそういう余韻を採択し続ける。
けれども夢は現実に寄与しない、から、夢はどんな種類でも悪夢の側面を持ち合わせてる。甘ければ甘いほど残酷だしそこに縋るのは現実逃避でしかない。
『わかってる』。
なにもかもわかってる。
夢の終わりに後悔が待っていようとも、そしてその後悔が大きく悲運を響もしたとしても、いま瞬間、この憧れに没入する干渉を、止められるはずがない。
自堕落だなんてことは、はっきりわかってる。
わかっていて溺れていたい。
『放っといてよ』とカノは思う。
カノはこの数日に普段よりずっと精神を幼くしてた。あまりにも眠気の制御がきかないせいだ。眠気そのものよりも『抵抗』とか『忍耐』とかを諦めたことに原因があるようには思う、けど、とにかく幼かった。
少女カノンが夢とは違う夢で泣き腫らす。「放っといてよ!」と何度もリフレインする。夢と夢が融合する。分離する。そのあいだに無数の言葉たちがやってくる。
「ああするべきだ」
「こうするべきだ」
「それはだめ」
「これもだめ」
「なぜできない」
「みんなやっている」
「やれないはずがない」
「あまえてる」
「おなじにんげんだ」
甘い夢とは対称的な、鋭利な呪詛の言葉たち。この世のルールに従えないカノを詰責する、言葉たち。
次から次にどんどんと降り注いでくる、し、降り注ぐたびに色が濃くなってゆく。どす黒い憎悪の驟雨。またはこの世界にひしめいているレッテル貼りのスラングの数々。
他者に完璧を強いるそれら言葉たちが遥か何万光年の速度をもって流星のようにカノの頭に降り注ぐ。
流星がいくつもクレーターを生む。地表のあらゆる場所が陥没し隆起する。
山になり谷になり川になり海になり点在する島嶼になってゆく。地球になぞらえていえば、一つ一つがマッキンリーでありメコン川でありクック諸島といえる。ピレネーでありチグリスでありカリブ諸島であってもいい。
それはそれぞれに固有の性質を持つ美しい起伏たちだ。
だけど誰かが言う。
「サガルマータは突出しすぎている」
「異常なマリアナ海溝の深さをなぜ放置するのか」
「計算された流路と水域をこそナイル川に如くべきだ」
ありのまま生み出されたそうしたことに文句をつけたがる人種が、世の中には一定数、いる。
彼らは世界を0と1で埋めたがってる。流星が不確定要素に引き寄せられたことにより生まれた雄大なジオパークを排除しようというのだから、つまりはxとyの直線を無数に交差させるだけの機械的で平面的な景色をこそ人世に広げたがっている。
黄金律と幾何に整えられて、自分たちこそは瑕疵のないスクリプトだと信じ切っている。おそらくは。
だけど、それならそれでいい、とカノは思う。
彼らは彼らで自由に完璧を求めて邁進してくれればいい。きっと彼らは強いのだ。過去に振り返ることも立ち止まることも決してしない。「強い」という起伏を有してる。そして私はそれほど強くない。「弱い」というレッテルが貼られてる。海は山と同じにはなれない。
現実は、強いと豪語する人たちに、ぜんぶ任せておけばいい。
『私はね、弱くて構わないから』。
いいや、それすらどうでもいい。
今は夢。
だって、本当に素敵な夢だった。くだらない思考で汚してしまいたくはない。
今は。これだけあればいい。
なぜ他のものがあるのだろう?
ソファも、ローテーブルも、ブランケットも、フローリングも、イミテーションのツツジも、カラーボックスも、揺れるカーテンも、姿見も、それから、天井も、壁も……硬さも、なぜあるのだろう?
私にはいらない。
それらを認識してしまったら、二度とこの淡い気持ちを戻せない気がする。
懐かしい、あの頃の気持ち。かつての気持ち。忘れていた気持ち。
夢が思い出させてくれた。そういう夢だった。
余韻の中にそういう気持ちがたくさんたゆたっていた。それだけあればいい。
だけど、
今度は夢のオーナーが言う。「もう閉店ですよ」と。
目が開く。
ちかちかと眩しい。さまざまな物質が視界に飛び込んでくる。
自発的に目を見開いた、というよりも、なにかに強いられたような感覚だった。どん、と背中を押されたような。
硬い床に足を触れて、むっくりと半身を起き上がらせる。一つあくびが出た。水気のない両手で顔を洗う。すこし伸びをする。
息を吐く。長く。
脳の覚醒が凄まじい。あまりにもクリアな頭が返ってどんな考えをも浮かばせない。色を認識するために必要な光も、強すぎれば一切を真っ白に包んでしまう。
放心状態で世界を眺める。受け入れる。
しばらくして、夢が終わったことを、やっと理解した。それまでは夢が隣に寄り添ってると思ってた。そんなはずはない。何もかも終わってしまったことだ。
横にある空白。カノは急な寂しさに襲われた。
雨はいつの間にか上がって雲間から光が差している。世界を酸化させる琥珀色の夕陽だ。見渡す部屋にはまだ私一つしかない。
涙がつうっとこぼれた。ような気がした。
十年ぶりにカレと再会した。そういう設定だった。私たちはまだ若かった。それもそういう設定だった。夢だから何でもありだ。
二人とも暖かい格好をしていた。厚手のコートにニットの帽子と手袋、それからマフラーもそれぞれにしていた。きっと冬だ。
アーク灯が点々と煌めく古いレンガ造りの街並みに私たちはいた。ショーケースの奥にドレスやぬいぐるみやロッキングチェアや様々な物を飾る店がどこまでも続く街並みだった。広場の中央には噴水もあった。そんな場所には一度も訪れたことがないけれど何しろ夢だ。夜だったし大きな街だった。多くの人が行き交う中に私たち二人の影がある街だった。
私たちはその場所で再会した。再会はそれより前から約束されていたことらしかった。どういう流れかはわからない。約束されていたんだからそういうことなんだろう。
私たちはその再会を喜び合ったりしなかった。分かち合いもしなかった。十年も離れ離れだったのに。それよりも胸を高鳴らせてた。この幸福を、相手の瞳から目一杯に確かめあっていた。そこに言葉は要らなかった。
レンガ造りの街並みを手を繋いで歩き、それから路地裏のアンティークショップに立ち寄った。手を繋いでるあいだのミトンの厚い感触まで再現されてる夢だった。
立ち寄ったのは色の濃い木材で構成された小さくて古い店だった。等身大の人形みたいに圧のある物からミニチュアのコーヒーミルみたいに細々したものまで所狭しと雑多に並ぶ店だった。天井にも色々ぶら下がってた。その店にカレの欲しがるものがあった。
できれば贈ってあげたかった、けど、私たちは値札を見て苦笑しあうだけだった。若い私たちにはちょっと手が出なかった。そのときのカレの困った表情が、どうしようもなく目に焼き付いた。
私の気持ちも、成せない現実も、ぜんぶ包み込んでくれる、優しい表情だった。
そこで夢が終わった。
「あなたに恋をした瞬間だった」
カノは言う。カレはネクタイを少し緩めて、
「おはよう」と頭を撫でた。
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