SNAIL IS WATCHING YOU !

 かお〔かほ〕【顔】[名]

 1.頭部の前面。目・口・鼻などのある部分。つら。おもて。

 2.かおかたち。かおだち。

 3.表情。かおつき。


(goo国語辞書より一部抜粋)


 顔。顔が横にある。その顔は泣いている。なぜだかわからないけれども確かに泣いている。

 同じ映画を見ているはずなのに、こちらはピクリとも涙腺が刺激されない。彼女が想像を絶するほどに多感なのか。それとも僕が絶望的に不感症なのか。

 もしかするとほんのちょっとの角度の違いで僕と彼女とで見えている物が違うのかもしれない。特定の位置からしか成立しないトリックアートのように、215度の彼女の角度からは可愛いウサギに見えて、162度の僕からは老婆に見えてしまっているようなことが。

 だって、さ、僕には目の前のことがご都合主義の大団円としか思われない。隣のカノはそれこそ眼球を萎ませるくらいに、そのまま干からびてしまいそうなくらいに、わんわんと涙してるのに、僕には全然、水分をおすそ分けする余裕だってある。想像力の違いということは認めるにしても、それだけの違いでこんなにも差が生じるものなんだろか。

 クロネコヤマトから荷物が届いて、そのときもカノは喜色満面ってやつだった。なんだか妙にはしゃいでるな、と思って理由を訊ねてみたら、廃盤になった映画のDVDがオークションサイトに出品されていたんだそう。

「競りに競ったからね」と鼻息荒く興奮してた。

 ちょうどVHSとブルーレイの中間に当たる時代の作品で、コアユーザーからの評価が高くとも一般層の知名度はそこそこ、で、だから各種サブスクリプションにもレンタルショップにも陳列されてない。そういう映画。

「B級なの?」

 そう訊いたらちょっと不機嫌ぽくなった。真面目な映画だとカノは言っていた。一応もう一度言っておく、真面目な映画だとカノは言っていた。

 以前から手元に置きたいと思って、オークションや中古の出品をこまめにチェックしていたんだそうだ。そんなマメな人でないのは僕くらいになるとよく心得ているから、一体どこから情熱が湧き出してきたかにも驚いた。

 そんなわけで、必然的に鑑賞会が開かれた。でもこれは僕が悪い。少なくともカノの方から誘ってきたわけじゃなかったから。

 で。たしかに初めの説明のとおりB級映画ではなかった。カメラワークもカット割りも(僕は詳しいことはわからないけれど)ちゃんとしていて、映像の美しさや迫力も素晴らしかった。その意味では真面目な映画だ。カノは『芸術映画』とも呼んでいた。

 ただ、問題は2時間あまり観てきた最後だ。

 この映画は全般、現実路線を踏襲した、悲劇的なシナリオを採用してた。始まりから終わりに向けて徐々に悲しみが深まってゆき、誰もが絶望の結末を予想する作りになっている(少なくともさっきまでの僕はそう予感していた)。

 なのだけどクライマックスに突如として非現実的なファンタジー路線(デウス・エクス・マキナとでもいうべきか)に舵が切られて……

 いま、テレビ・モニターには大人と子どもが一緒くたに焚き火を囲む、穏やかな光景が映されている。すっかり陽の沈んだ夜に、揺らめく炎が土の地面を照らし、彼らの後ろには、背の低い一本の広葉樹だけ生えている。静寂と荒涼のなか、主人公の男がギターを手に、優しい歌を弾き語ってる。

 神秘的な、あたかも聖画みたいな演出だ。これにカノが号泣してる。

 その瞬間その瞬間だけの「意味のない刹那的なエモーショナルの連続」みたいなことをカノはよく否定する。そんなのは創作物全体を劣化させる硫酸だ、とカノは言う。

 その意見の正誤判定は、とりあえず保留しよう。だけど日頃そううそぶいている君が、なぜいま「意味のない刹那的なエモーショナル」にしか思えない映像に、目を真っ赤にしてるんだ?


 やっと感情が引いて、カノは答えた。

「物語は元々かくあるべきなんだよ」

「僕には違いがわからない」

 カノは口元に微笑みをたたえた。

 彼女の考えでは、人類最古の作り話……つまりフィクションの物語とは、母親が幼子に聴かせる子守唄を起源としてるんだそうだ。

(言い忘れてたけど、僕たちが見た映画もそういう筋のお話だった。大人から子どもへ、なにかを受け渡してゆく物語。それが途中までは悲劇的に失敗してゆく物語。)

 それで、それらの子守唄的物語は、簡単にいえば夜の闇に怯える幼子を落ち着かせるため、母親たちがそれぞれに考案したもの、らしい。

 たとえば木々のざわめきは精霊の小夜曲、獣の遠吠えは勇敢な守護者の雄叫び、夜鳥の羽ばたきは悪魔を払う扇の音。そうやって子どもの恐怖を何かに転換してやる物語。幼子の柔らかなお腹を優しくさすりがなら聞かせる心温かな物語。

 そのうちに幼子は安心して寝てしまう。

 あまりに古い時代のことだから、文献にも口伝にも、そして壁画にも、残されていない。あくまでカノの言だ。

「その物語には母親の愛がある」とカノは確信をもって言う。「愛しか、含まれてない」

 だからこそ、物語とはすべからくハッピーエンドであるべきなのだ、と。

 まるで『不思議の国のアリス』みたいな設定だ。

「この映画はね、そういう原始の記憶を思い出させてくれるんだ」

 翌朝になってもカノの目の腫れは引いていなかった。


 それから何日か経って帰宅すると今度は食器を洗ってた。

 昼にずいぶんな量を出したみたいで鼻歌まじりだった。何をここまで気合を入れて作ったんだろう?

 や。それよりも僕には聞き覚えのあるメロディの方が気になった。彼女の顔を見るとなんだかうっとりしていた。どこか寂しそうで、慈しみも帯びていた。

 僕たちの青春時代にリリースされたバラードだ。そこまでヒットした曲でもないから思い出すのに時間が要った。

 いわゆる失恋ソングだった。食器洗いというのはそんなにも悲しいものなんだろか。僕にはなんとなく状況にそぐわないように感じられた。

 偶然耳にして頭から離れなくなったらしい。

「昔聴いたときはそれほどでもなかったんだけどね」

 改めて嗜んでみるとメロディが味わい深かったんだそうだ。

 でもその顔は明らかに歌詞にまで言及してた。バラードだけどいくらか暖色の効いた曲調だ、単にそれだけが気に入ったなら過去を愛して回るような表情にはならない。

 歌い終わると表情は歌詞から離れ、元々の彼女自身の内面を反映させた。上機嫌の笑顔。

 でも僕は不吉が尾を引いているようで嫌だった。失恋ソングなんてのは、ね。


 次には眠れない夜だった。眠れないというのは僕の方だ。ベッドの中で工夫をしてみたけれど、どうにも落ちていけなかった。

 なにか優しいものでも飲んで神経を静めたい、けど、その時間はダイニングがカノの職場に変じてる。でもなければリビングの方のソファで寝息を立てている。どっちにしても邪魔をしてしまいそうだから、どうしようか迷ってた。

 でも僕にも明日があって背に腹は代えられない。

 モニターの光にあてられて真剣な眼差しの彼女がいた。ダイニングに明かりはそれっきりで、闇とモニターの明かりとの強烈なコントラストが彼女の表情を際立たせてた。

 僕がやってきたことにも興味を示さないほど集中していた。暗がりの中で険しい眉が特徴的だったし、いつもだらしない口が気密性を高めているところにも目を引いた。

 話しかけてはならない雰囲気だった。といって話しかけないわけにもいかない状況だったから、僕は僕で用事を済ませながら、適当に二つ三つ言葉を交わすだけ、した。

「がんばって」と去り際に贈った返事の、

「ありがと」の冷徹な感じが、しばらく耳にこびりついた。


 ひどい顔だ。頬がやつれ気味なのはともかく、くまが凄まじい。3日眠れないだけでこんなことになるのか。リビングに姿見は、楽でいいけれど、危険かもしれない。ふとした拍子にこんな私を見るなんて。これは本当に私か?

 舌を出したら舌を出し返された。どうも私らしい。殴ってやりたい。


 ソファに仰向けのカノが、聞こえるように、つぶやく。

「人間はカタツムリじゃなくて良かったなって、つくづく思う」

「まあ、待とうか」

「なに?」

「何かの前提をすっ飛ばして本題に入るのはやめよう」

「顔の話だよ」

「顔?」

「カタツムリはさ、あの目玉だか槍だか角だかで、自分の顔が認識できるわけでしょ、鏡とか使わなくっても」

「まあ……どこまでを顔とするかによるけれど」とカレはカタツムリの姿を思い浮かべながら言った。

 それよりもなんの話だ?

 カノは続ける。

「単に、人間はそうじゃなくてよかったよね、って話」

「自分の顔を認識できないことが幸せ?」

 だって。

「みんな自分の顔のことは知ってるはずだけど、常に意識しているわけじゃないもの。顔が見えないことで私たちは普段自分の顔のことを忘れられている」とカノはいくらか平坦な、機械的な調子で言う。「もしも自分の顔を四六時中見つめることになったら、大変だよ。改まった場所での社交辞令だとか、背伸びしたお堅い文章だとか、あと、寂しい時の甘えた調子だとか、そんなの、きっとできるはずがない」

 お前、その顔で?

 そういう恥ずかしさ、があらゆることを、きっと制限してしまう。自制してしまう。顔という生まれ持った特徴によってあらゆる言動が先天的に規定されてしまう。

「それはカノンが自意識過剰なだけでは」

「かもね。だけどカタツムリの目には、常に自意識が宿されているんだよ。私たちの顔の前に、除けない鏡があることを、想像できる?」

 カレは……ちょっと想像してみて、苦笑した。

「カタツムリだって常に自分の外貌を認識してるわけじゃないさ」

「喩えだよ。たとえ」とカノは言った。「つまり場合によって人は、いかに自意識を剥離させるかによっても、能力や感情に高低差を生じさせる」

「才能を十分に活かすには、自分という存在を一旦忘れた方が良い?」

「特に社会的な地位を獲得したい場合には」

「じゃ、想像力を欠く僕は周りからの評価も高いのかもしれない」

 カノは笑って何も答えなかった。代わりに、

「だけどさ、そうすると面白いのは」と続ける。「私たちは私たち自身の視線を『私』を司る主観的なものだと思い込んでるけど、その『私』が私を直接的には認識できない点からすると、実はこの視線は客観的なものなんだ」

「ん?」

「たとえば『主体的な意見』には自分の感情なり論調なりが含まれているけれど、『主体の視線』、つまり主観だけれども、これには自分の姿が含まれていないでしょ」

「鏡やカメラで確認しない限りは?」

「そう。だから他人の視線のほうがよっぽど主観的だといえる」

「僕がカノンの表情を、カノン自身より、よりよく捉えているように?」

「私がカレンくんの表情を、カレンくん自身より、よりよく捉えているようにね」とカノは言う。「そうするとカレンくんの視線の方がよっぽどワタシ的(つまり主観的という意味で)ともいえる」

 なるほど。

 相変わらず変な発想を持ち込んでくる。

 だけど今日はカレも一つ思いつく。

「でもさ、その理屈でいうと、縄文人はよっぽど客体的だったというか、機械的な人たちだったという結論になりそうだけど」

「なんで?」

「だって鏡もカメラもない」

 今度はカノがなるほどと面白がった。

「古代人より現代人のがよっぽど主観的というのは、興味深い考察だね」とカノは言う。「で、そっか、主観の排除が客体化を誘致するなら、

 カノはなにか思いついたらしく出し抜けにソファから起き上がる。

 ぺたぺた。

「どこいくの?」

 五分ほどしてサービスルームから戻ってくると、手に一冊の文庫本が握られていた。著、ジョージ・オーウェル、『1984年』。

 管理社会における鏡の役割もしくは重要性をそこに確認するのだと、息巻いている。オーウェルは作中でどのようにそれを扱っていたか?

 ま。それはいいけどさ。

 おかげで引っ越し以来そのままにしてあった梱包用のダンボールの一つに、また手垢がつけられてしまった。またしても、だ。

 こんなことのたびに部屋が物で溢れてくんだよな、とカレはため息をつく。

 カノはまるで童話でも読むみたいに目を輝かせてる。

 その顔に一言くれた。

「君はしっかり主観的だよ」

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