春の、(後編)
思いがけないことは誰にだってあるしいくらだってある。
まず、鍵が見当たらないことから始まった。
バッグの中もポケットの中も、探したけれど見つからない、のに、インターホンを鳴らしても家主も不在だった。なぜ留守か? 2つ目の思いがけないことだ。
鍵の代わりにスマホを取り出す。が、電源が落ちている。バッテリー残量はここに来るまでに、というより結構前に、ゼロになってしまった。こうなってみると連絡がつかないので3つ目の思いがけないに数えられる。
だけどカノにとっては2つ目も3つ目もそれだけなら単なるケアレスミスでしかなかった。それより問題は。
問題は、この扉の奥の住人が二人揃って部屋を空けていることに(ことにだけ!)端を発してる。そのたった一つの要素が様々な事柄を『問題』という目的に収斂させている。
カノは事実を受け止めて、呆然とする。
「一体カレンくんはどこをほっつき歩いてるんだろう?」と棚に上げて思う。「というか、いつ帰ってくるんだ?」
『夕方までには戻ります』。おかしい。ちゃんと書き置きは残しておいたはずなのに。
……や。そうか。私が鍵を忘れたなんて、知るはずがない。
どうしよう。
近くの喫茶店、か、ファストフードででも時間を潰そうか、と思う、のが一瞬のことで、すぐに棄却される。
もやもやしてる。ごちゃごちゃしてる。心も。頭も。なのでこんな問題は起こるべきじゃなかった。や、それもまた収斂された要素かもしれない。なぜかアクシデントは一つの中心点に寄り集う性質を持っている。
いずれにしろ。今はどこをも放浪したくない。さっさと603号室の中に入って、冷静と内省の海に溺れたかった。のに、どうしてこのドアはこうまで決定的に私の未来を違えさせているんだろう。東京とNYほどの距離があるわけでもない、せいぜい数十センチで内外が変わるのに、そのたった一歩ほどの距離を進ませてくれない。あまりに理不尽だ。
ドアに背中を預ける。そのままずるっと腰を落としてく。
ぺたん。と地面につく。肩がけのバッグを両足の間に収めて、体育座り。コンビニで買ったスイーツが2つ、バッグの口から見えている。「こんなののせいで」とカノは思う。
だけどやめよう。
そうするくらいなら電源をオフにしてしまったほうがいい。体育座り。なにも考えない。やめよう。
エレベーターが開くと同時に視界に飛び込んできた影、を、すぐにカノだとわかったけれど、その上でカレはぎょっとした。
通路の奥には604号室も605号室もその先の番号もある。手前にも少なくとも2つの部屋があるし、中庭を隔てた向こうの棟にも無数のドアが並んでる。それなら誰かに目撃されはしなかったろうか?
もしも僕が第一発見者でなかったら、ろくでもない事態を招くに決まってる。とカレは一瞬のうちに脳裏によぎらせる。
確実に思い描ける2つの事態は、一つが誰しも関わり合いを持たないように伏し目がちにその場をやり過ごしただろうことと、もう一つは、カノがその部屋の住民でありかつ鍵を忘れただろうことまで推察した上で「なぜ管理人に相談しないのか」と疑問に感じただろうこと。
で、先々に危惧すべきことはそれよりもっと多くある。変な噂が広まる、くらいは可愛い方だ。だから実際の実際にカレが第一発見者だったことは未曾有の惨事を避ける大きな転換点だったといえる。
『君の個性は認めるけれど』とカレは思う。『それにも適切な場所がある。どこでもいいってわけじゃない。パリコレの服を着て国際宇宙ステーションには、たぶん、乗り込んじゃいけないわけで』
だけどそんなことはカノだって理解できている。それを逸脱してるからには、平常と異なる何かがあった。
『夕方までには戻ります』。
カレは例の書き置きの二行目を思い出す。
陽はまだ落ちていない。ぎりぎり山のふちにも触れてない。なら、ひとまずそこは、予告どおりといえなくもない。
食材で膨れ上がったエコバッグを右から左に持ち替えて、体育座りのカノの前まで行く。家に入れずに途方に暮れてる遊び飽きた猫。
「鍵、忘れたの?」
カノはおもむろに立ち上がる。うん、とうなずく。
その顔を見て、まあ、いいか、とカレは思う。それよりこの再会にすこし安堵もした。ポケットから部屋の鍵を取り出す。カノに渡す。
「靴箱の上にはなかったけど、場所はわかってる?」
「たぶんジャケットの中」
「なんで取り出しておかないの?」とカレは言う。「いつも言ってるでしょ」
「覚えてたらする」
「すぐする」
心と裏腹の言葉が突いて出るのは、なぜだろう。本当はその悲しそうな表情を慰めてやりたいし、何があったのか訊いてやりたいし、鍵のことも、そこまで怒ってるわけじゃない。
だけど結局いつもの僕になる。君の帰りを喜んでるのも嘘じゃない、のだけど、君に表す態度は結果的に嘘になる。感情も起こる出来事も、瞬間々々を切り取っても必ずしも一つだけとは限らないせいだ。あらゆる対応のうちから選びやすいのを選ぶしかなくなってしまう。そういう結果の先にあることを、ちょっと申し訳なくも思う。
シリンダーが回される。603号室が解放される。
「買い出し済ませちゃったよ」
「うん」
「寒くなかった?」
「そんなに居なかった」
カレはもたつく振りをして、そのままカノに先に入らせた。
カノはバッグを肩にかけ直しながら敷居をまたいだ。一歩。NYより近い距離。そして慣れないパンプスを窮屈そうに脱ぐ。
と。
そのとき靴箱の上の封筒に目が行った。
老管理人が置いてった、茶色の長4封筒だ。薄いぺらぺらの封筒の表面には、弱粘性のマスキングテープに留められた擬似的な色の羽根が、ひとひら、ついていた。
封筒に視線を釘付けにしたまま立ち止まるカノに、後ろから、
「募金だってさ」
とカレが言った。カノはぼんやり、ああ、とうなずいた。そのあとふっと正気に戻ったように、
「見たらわかるよ」とつぶやいた。
カレは肩をすくめた。
その茶封筒をカノはなぜかダイニングテーブルまで運んで、触るでもなく、所定の金額を収めるでもなく、ぼんやりと、剥がすでもなく留められたままの羽根に視線を注ぎ続けた。擬似的で人工的な単一色の羽根。
エコバッグの中身を整理して(ついでにカノが買ってきたスイーツも冷蔵庫にいれて)夕食前の最後のコーヒータイムを挟む。カレも茶封筒を眺める。
で。忘れないうちに小銭入れから五百円硬貨を一枚取り出した。
弱粘性のマスキングテープを剥がして天板の端に貼る。羽根が移動する。封筒の口に息を吹きかける。穴が広がる。取り出した硬貨をその穴に、落とす、直前にカレはカノを見た。
虚ろな視線はずっと羽根じゃなく封筒の方へ注いでいたらしい。目が合って、またふっと正気に戻ったようになる。
「五百円?」とカノはご体裁っぽく聞いた。
「毎年どこでもそうじゃない」
「ああ、ね」
すとん、と五百円硬貨が落ちる。
「羽根、いる?」
「いらない」
「返って困るんだよね」
「捨てるしかないよ」とカノは言う。
どこか悲しそうに。
(なにか思うところがあるわけか。)
それでカレは思い切ってその先を訊いた。けどすぐにはカノは答えなかった。
ようやく夕食の終わりに(甘いものをついばみながら)教えてくれたのは、まったくカレが予想してたのとは別の方向の、簡単にいえば「フェアじゃない」というような事柄だ。
というのは春の風物詩の羽根募金というやつは、けばけばしい色に塗布されたあの羽根を、あくまで「募金の返礼」としているはずで、それなら封筒と一緒に羽根を渡すんじゃ理屈が噛み合わない。
そうなるともはやそいつは善意の品ではなくて、セールスマンが強引に置いてった商品の売掛金をあとから要求される、押し売りや詐欺の手口そのものだ。
「私たちは毎年こんな色の羽根を無理やり購入させられている」
「そこんとこの建前は、みんな承知の上だと思うけれど」
「建前だとしても」
とカノは控えめに(控えめに!)言った。
物事にはどんなものにも正しい順序というものがある。だけどたちの悪いのは、機械や電子は手順を守らないと正常に動作しないのが、形而上ではすぐには不具合を起こさずに、見かけは上手くいってるようにしてバグを蓄積させてゆく。
「あくまで感謝の意を込めた『返礼』だから角が立たなかったのを、羽根の方を先にしてしまったら、『徴収』という本音を隠せきれなくなってしまう。そういう正しくない順番には、みんな無意識の不満を募らせてゆく」
「どっちにしろ使い道のない羽根だとしても?」
「捨てるしかないとしても」とカノはうなずいた。「本質は物じゃなくて順序や手順の方にある。形而上においても。だから順番がとても大事。羽根は募金のあと。前でも先でもないし、なんだっていいわけでもない」
「そういうことを軽視しだすと世の中がおかしくなる」
「そこまで主語を大きくするつもりはないけれど」
だけど正しい作法とされることは、たとえ形骸化していようとも、順序を狂わされるよりは意味がある、とカノは説く。一応は本質が守られているわけだから。
蓋を開ければ、たったこんな程度の閑話だった。
それをカノが鍵を持ち出し忘れたおかげで……いや、あるいはカレがカノの帰りを待たずに夕食の買い出しに出てしまったおかげで……聞き出すのにもずいぶん手間が要った。
余計なワンクッションが『複雑』を招いてる。
だって玄関先で待ちぼうけを食ってる間に蓄積された負い目は、元々カノの中にはなかったし、最初から抱えてた「もやもや」と「ごちゃごちゃ」も(冷静と内省のあいだに)結局は誰かに愚痴って発散できる類の鬱憤だったから。
で。じゃあ単純な一つの問題、カノの心の晴れやかならざる、の根本の方の問題は、何が原因だったのか?
追憶。
出先で仕事を終えたとき、カノはまだ快活だった。それほど空腹を感じてなかったからこじんまりした個人喫茶の軽食でランチを済ませ、せっかく中心街まできたんだからと、その足で何軒か古書堂も見て回った。ちょうどカレがジョギングを始めて終わるまでのあいだのことだ。
帰りは駅前からのバスに乗り、予定でいえば15時少し過ぎには603号室に着くはずだった。スマホのバッテリーは車内の暇つぶしの際に枯渇した。
と、窓の外を眺めていると、ふっとその景色に降りたくなった。
何か『特別』目につくものがあったわけじゃない。なんとなく全体の雰囲気に『春の、桜を過ぎた頃』という印象を受けて、心が躍った。駅の周辺が季節感に乏しい街並みだったのも原因としてあるかもしれない。とにかくカノは降車ブザーを押した。
最寄りのバスストップよりずいぶん手前だった。躊躇はなかった。
「ためらうよ。普通は」
「春のせい。ぜんぶ春のせい」
降りてすぐは目に新鮮だった。だけどどこにでもある匿名性の高い町並みのことだから、段々とその景色にも飽きてきた(当たり前だ。そんなこともわからなかったのか? ――わからなかったのだ)。
それで気分転換に目についたコンビニに立ち寄った。
「気分転換?」
「なんとなく甘いのが欲しくなって」とカノは言って、いまテーブルに広げているものに指をさす。「つまり、これ」
カレンくんの分も忘れなかったのは、褒めてほしい、とカノは言う。
「でさ、思ってたより小銭が溜まってて」
「いつ見ても君の小銭入れはパンパンだけど」
「整理面倒だからね」
「電子化しなよ」
「だけどお釣りまで小銭だらけでさ」とカノは取り合わずに言った。
なら、なぜ払うときに端数を揃えなかったのか? だって後ろにも客が並んでたから、らしい。細かいのを出すのが面倒になった。
けどキャッシュトレイに載ったお釣りの群れにはもっと面倒を強くした。そもそも小銭入れのキャパだって限界に近い。ので比較的大きめの硬貨だけ抜き取って残りはぜんぶ募金箱に流し込んだ。
「またやったの?」
「またやったの」と復唱する。
レジカウンターの隅っこにぽつんと置かれてるアクリルの小さな箱を、カノは硬貨専用のシュレッダーだと(半分くらい本気で)思い込んでいる。
最寄りの慣れた店でなら、カノがそうすることにも反応が示されない。常連特有の暗黙の空気感を店員の方で察してくれるからだ。今日の不幸はたまさか立ち寄った店だったのと、レジ打ちのバイトにしても、そこまでの大胆な行動を今まで目にしたことがなかったため、起こされた。
平然と去ってゆこうとするカノに、見た目大学生ほどの若いアルバイト店員は、熱のこもった声で、ありがとうございます、と贈った。
カノは驚いて店員を見返した。思わず睨みそうになった、のを、すんでに耐えて、会釈で店を後にした。
店の外に出ると、ほんのちょっぴり肌寒い春の風に吹かれた。その瞬間になんだか尋常じゃない深度で嫌気が差した。
「君さ、そんなの、初めての店員にはわかんないって」
「別にあの子が悪いとは言ってない」とカノは言う。「ただ、私は募金を手段として利用しただけなの。お礼を言われる筋合いなんてなかった」
と、いうのが、変調の原因。
それからは財布を取り出すのが一切嫌になって、バスもタクシーも使わずに603号室を目指した。そのあいだにカレは夕食の買い出しのため、部屋を留守にした。
「誰かの勝手が誰かの助けになったって、悪いことじゃないよ」
「良いけど褒められたくない」
「偽善的だから?」
「そんなことどうでもいいの。根本的に褒められることをしていない」
「だけど結果として利他には繋がる」
「私にそんな意図はない」とカノは言う。「買ってもない宝くじに当たりたくなんかない」
一先ずコーヒーを食道に流して、短くため息をつく。
なんだろう。これは。いわゆる蛙化現象の一種なんだろか? や、それも違う気がする、けれどいずれにしろ、また厄介な性質を抱え込んでるものだ。
世の中に二種類ある『素直』の、困ったほうだ。いわんや対外的に素直であることと自分の内面に素直であることの、後者のほう。
カレはとりあえず嫌気の理由について訊いた。
「ポジティブな反応が起こされると対極のネガティブな面まで浮き彫りにされるのが嫌? それとも反応に見合う姿勢を要求されてる気がして圧を感じる? か、単にこちらが無意識に要求している反応を相手が再現してくれないところに苛立ちを覚えるということもある? つまり自己愛性の――」
「知らないし考えたくもない」とカノはきっぱり言った。「春のせいなの。ぜんぶ春の」
春の、ね。それならカレも同意できそうな気がした。
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