春の、(前編)
うぐいす鳴いた。気がした。
きっと歩行者用信号機のカッコウだ。瞳が前を映してないせいで、こんな簡単な違いもわからない。
帰りしなのことだった。もやもやする。ごちゃごちゃする。頭の中身が拭いきれない、で、すたすた歩く。もしも金属と駆動で語られるものに頼っていたら悲惨を招いてた。
春は、なにか、色々なものを刺激する。
封印されせし穴からもぞもぞと、招かれるもの、招かれざるもの、関係なく何でも這い出してくる。澎湃。だから落ち着かない。
帰ろう。とにかく家に帰ろう。
すっかり桜も散って、だけどまだ春の内。
反対に、
カレはのんびり過ごそうとした。
その曜日にはいつも平日より少し長めに睡眠を取り、目を覚ますと、まず隣にカノを確かめる。向こうも起きているらしいなら、飲み干したペットボトルより中身のない閑話でいっときを満たす。
けど今日はそもそも居なかった。
ので、スマホを手にして惰性のログイン、から、結局デイリーまで消化してしまう。そこまで済むと前回に追加されたコンテンツやイベントを、次のアップデートがくるまでにじわじわ片付ける。
あまりいい趣味だとは自分では思ってない。もうちょっと生産的な趣味や休日の朝の過ごし方があるようにも思う。だけど、まるで1の目しかでないすごろくみたいな、決まりきった様式が習慣化してしまってる。
生活全般もほとんどおんなじだ。寸分狂いない工業製の5つのマス目。そして6ターン振りの赤いマス。日曜まで休み。
そのままでいれば僕は機械と同化して秩序になるだろう、とカレは思う。人間とは呼ばれずに秩序とのみ呼ばれる存在に。想像しただけで恐ろしい。そいつには感情も意思もない。
だからカノの混沌がどれほどカレの助けになってるかわからない。さてなにをしてるんだろう、とカレは頭をぽりぽりかきながら、やっと寝室を出る。
でも、
リビングにカノの姿はなかった。
シェービングついでに洗面室を覗いてみてもなかったし、サービスルームにもない。「今日はそう」いう日「か」とカレはつぶやく。
実際この日のカノには昼から外に仕事があって、おそらくは「朝」と呼べるうちから603号室を発っていた。カレは寝入りが深くて物音に気づかない。
ヘアウォーターで直した寝癖の頭を、カレはまたぽりぽりとかく。
ふむ。
そういうスケジュールをカノは事前に誰かに伝えようとしない。伝えれば「言葉は吐いた瞬間に嘘になる」というのがカノの口癖だ。また、未来の事象に変化の加えられる恐れがあるから、過去に干渉するのはよくないことなんだそうだ。
「ジョン・タイターもそう言ってた」とカノは言う。
代わりに冷蔵庫のドアにメモ用紙が貼られてあった。セロハンテープごとべりっと引きはがす。音を出さずに読み上げる。
要約すると『お昼勝手に食べてね』、要約しないと、『夕方までには戻ります』。たった二行の書き置き。
仕事なのかプライベートなのか? 行き先はどこなのか? 相手はいるのかいないのか? カレの立場じゃ何一つわからない。わからないし詳しいことも訊けない。
なぜか、は要するに僕が混沌の生き方を選べないように、カノンも秩序だった生き方に耐えられないからだ。続けさせてみせてもいずれ限界がくる。代用はきいても代用でしかないことが世の中には無数にあるように。フォークとスプーンの関係のように。だから僕はフォークの在り方も尊重しなければと思う。訊いても返信がないことにはぐっと堪えなければと思う。
のだけど。いや……まあ、いいか。
遊び飽きた猫だって、いずれは帰ってくる。
さて。
それよりさしあたっては食事だった。時間的に朝と昼のブランチになるだろう。
メモ用紙の剥がされた冷蔵庫の中で、ラップしたご飯と、それから半分だけ残った玉ねぎに目がいった。
ちゃちゃっとバターライスを炒め、溶き卵2つ分のオムレツを載せる。ソースを市販のデミグラス缶で済ませる、と、工程のチープな割に映えるオムライスに調った。
ダイニングテーブルまで運んでテレビをザッピング、しても、週末の番組にはとことん食指が動かされない。スマホで適当に動画を流しとく。
『夕方までには戻ります』。
食器を片付けて歯磨きを終えても、やっと昼になったばかりだった。平日の朝が早いから、いつもよりのんびりしたと思ってもまだこんな時間。一体カノンはいつ出ていったんだ?
『夕方までには戻ります』。
なら、もう少し食後を過ごしたら、僕もぼちぼち準備をしよう、とカレは考える。カレはジョギングを日課としてた。それは出社日でも休日でも、晴れてさえいれば変わらずに。
一時近くになってスポーツウェアに着替えだす。ほかは腕時計、小銭入れ、スポーツタオル、部屋の鍵だけが準備のうちだ。スマホはある時期まで携帯してたけど、どのポケットにしまっておいても揺れが気になって、そのうち持っていかないことに決めてしまった。
「途中できれいな花に出会ったらどうするの?」
「僕にはそれをカメラに収める美的感覚が欠如してるので」
「一期一会か」
「たかが一時間の走り込みだよ」とカレは言った。
二人の文明の利器への向き合い方は、いつかのその会話に集約されていた。どこまでいってもそれはツールでしかなくて、インフラというほどまではいかないし、だから一時的に身を離しても処し方がある。
『夕方までには戻ります』。
少なくともその人よりは、離れていても気に障らない。たった二行の書き置きの二行目がさっきからどうしようもなく脳裏にリフレインしてしまう。そわそわ。
靴箱の上の鍵を手にすると、さっさと運動に気を紛らそうとした。
のが、
いまノブに手をかけようとした玄関ドアの向こうで、瞬間、インターホンが鳴らされた。
開けてみると管理人だった。
管理人室とドア一枚で通じてる居室に、老夫妻で暮らす、今日は夫の方だ。こんな街のこんな賃貸に住み込みの管理人がいるのも珍しいけれど、ここは町内会のことも夫妻が一手に引き受けてくれている、ので、会報や区費の徴収なんかで顔を合わせる機会が多い。
いまも「毎年の春のこと」といって、カレには一通の封筒が渡された。「三日後に取りにあがるから」、「もしくは管理人室まで届けてくれれば」、物腰柔らかそうにそれだけ言うと老管理人は隣室に向かっていった。
すこし待ってカレも部屋を出た。
エレベーターで一階まで降り、エントランスを出ると、腕時計の表記を確認する。靴をトントン、と足になじませて(靴紐は603号室の玄関で結び直しておいた)、それからスタートを切った。
引っ越しの多いカレの生活で、最も困るのがこの習慣だ。たとえば皇居外苑みたいな、わかりやすい誘蛾灯でもあれば楽でいい、けれど、そういうのはどこの街にもあるわけではないし、あったとしても初めのうちはわからない。基本的にはかつての西部開拓民みたいに「自分で切り拓く」ことがジョギングコースの設定には要求される。
物事を副次的な方面からも堪能しよう、という感性には乏しいから、一つ固定のルートが決まれば後はその規則にのっとるだけでいい、のだけど、そのたった一つがなかなか難しい。道幅と交通量の関係や風の影響や曲がる角の少なさや舗装路の整備状況や、そしてもちろん全体の距離や……何度も試行を重ねながら、最もフィットする正解の道筋を選び抜く。
で、結局この街では、一旦土手まで上がったあとで、603号室の眼下に見える商店街の端、まで大回りに引き返してくるルートが採択された。カレの体力でちょうど一時間の距離。ゴールがコンビニだから帰りに飲み物を買ってもいいし、小銭入れはそのために用意されている。
最近は、レジ横コーヒーを片手に商店街を603号室に向かって散策するのが、整理運動の観点からも良さそうに感じてる。
(商店街はシャッターをちらほら目立たせてるけれど、それでもこの街の銀座は頑張ってる方だ。おかげで目に飽きない)
帰宅して、すぐ洗濯カゴにスポーツウェアを放り込む。シャワーを浴びる。
『夕方までには戻ります』。浴びてる最中にふっと思い出す。
着替えて時間を確認すると、まだ2時半、前だ。
「ついでに洗濯」とカレはつぶやく。返事はない。
カゴには数日分が溜まってた。彼らは毎日とか決まった日にちに、ということを知らない。カゴが満杯になったら洗う。だからドラム式洗濯機の前には木製のスツールが常設されている。カノなら読書か映画、カレならニューストピックでも追っかけて時間を潰す。
16帖のLDKを南向きに配した間取りは、大量の洗濯物を受け入れる態勢がベランダに整えられて、こういう習慣には大いに役立った。
洗濯が終わると、リビングに掃除機も、かけた。ダイニングテーブルの白い天板も磨き上げることにした。いつもは鬱陶しがられるから、どちらもカノが不在のときじゃないと楽にはやれない。
最後に新品のキッチンクロスでテーブルの上を乾拭きする。古い方はシンク内を軽くこすって、それから捨てた。
『夕方までには戻ります』。
やっと十五時になった。
夕方といえば夕方だ。いつ帰ってくるのだろう?
今日3杯目のコーヒー。夕食後にも、と思えば、すこし飲み過ぎかもしれない。妙に気持ちがそわそわするのとなんだか動悸が変に感じられるのは、そのせいだろか。
違うことはわかってる。人間は本筋以外のところに理由を求める生き物だ。
「僕は人間だ」と心のなかでつぶやく。「こんなにも感情がある」
だけどその強がりはちょっと情けない。
ただ、かといってカノの不貞だとか裏切りだとか、そんなことは全然想像していない。まずありえないと信じ切っている。そうじゃなくて居るはずの、居て当たり前の、そういう蓋然性の再現されてない状況に、落ち着かない。
もしくは――このままカノが消えてしまったら?
いや。カレははそういう想像力にも欠いてる。だからカノは必ず遊び飽きた猫みたいに帰ってくることを前提にしてる。なのにそわそわしてる。なんだかずっといらいらしてる。
「人はみんな本質的には甘えたなんだよ」とあるときカノが言った。「それを表に出すか出さないか、か、どういうときに甘えたくなるのか、くらいの違いでしかない」
「君がそうだっていうのは理解できるけど」
「カレンくんだって、そう。本心ではみんな愛を欲してる」
――なるほど。今なら半分くらいは理解できそうだ。
だけどやっぱり無理だ。僕は自分をそんな風には認められない。認めて、帰宅したカノに、思わず抱きついてしまうようなのは。そんないっときの撹乱みたいなのは一生の後悔を生む。
『夕方までには戻ります』。
リフレイン。
なにかで気を紛らしておくしかない。でも、無い。もうやるべきことはあらかた終えてしまった。
こんなもんだ。僕たちの日常は。
仮になにか没頭できるほどの趣味でもあるのなら、僕たちは普段、閑話で時をやり過ごすなんて手段は取ってない。
春の空気。この穏やかで間延びした雰囲気が、そういう心の空疎を刺激する。夏の強烈な青のもとでなら、きっとここまで動揺しなかったろうし、秋や冬の寒さの中でなら、もっと強がることもできた。
ちょうどよく踏ん張りがきかない。
なんだか神経毒みたいだ。意識ははっきりしてるのに麻痺して動けない。そして痛みもない。感覚もない。ただ感情だけが揺れ動いてるうちに、捕食者の胃袋まで飲み込まれ、じわじわ、酸に溶かされる。
僕は春の中で死ぬ。
首を振った。時計を見た。
さっきからまだ十分しか経ってない。誰かを待つ時間は、こんなにも長い。あるいは一人で過ごす時間というものは。
カノン?
振り返っても誰もいない。そりゃ、そうなんだけれども。
……でも、遠い遠い未来には、いつか、そんなことが当たり前になるのかもしれない。
そう思うとなんだか急に老けた気がした。老けて、青春も大切な人もずっと遠くに去ってしまった人になった気がした。焦燥とか不機嫌さとか、そういうのの本質に触れた気が、した。(錯覚や思い込みかもしれないけれど)。
もう一度かぶりを振った。
『こんな感覚を背負って生きるには、僕はまだ若い』
そしてカレはおもむろに椅子から腰を浮かせた。
カレには、たったあと一つだけ、気を紛らす手段が残されてた。夕食の買い出しだ。でも入れ違いにカノが帰宅したら悪いと(なぜか悪いと)思って、今まで候補から外してた。それに勝手にメニューを決めてしまうのも、不満がられそうだった。
でも仕方ない。平穏なる余生の過ごし方は僕には無理だ。今の僕には。
603号室のドアを閉める。鍵をかける。
カレは再びエレベーターに乗っているあいだに、さっき管理人から渡された封筒のことを思い出した。靴箱の上に置いたまま忘れた封筒。
まあ、後でいいか。
(えびす顔の老管理人に会釈して管理人室の前を行き過ぎる。)
それよりも。
土手で浴びたときには気にならなかった風が、ひどく痛い。洗濯物を干してる最中のベランダよりも、やっぱり痛い。
駐車場へ向かうあいだに何回か柔らかく吹いた。
暖かい中にほんのり肌寒さが混じる春の風。春の空気。春の間延び。君たちはぜんぶ残酷だ、とカレは思う。
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