12月30日に生まれて

 あけましておめでとうございます

 バレンタインデー

 ゴールデン・ウィーク

 梅雨を超えるともう半分が過ぎた、のにまだそんな気がしない。

 夏のお盆に着いても残りの方が長く感じる。

 シルバー・ウィーク、文化の日、と素通りして、やっと思う。あれ、あと二ヶ月か?

 その二ヶ月は背中に追いやった十ヶ月より当然短い。

 気付くと年の瀬。

 そうしていま、瀬も瀬。クリスマスも去ったしカレも仕事納めを迎えた。

 ここに至って彼らのやることは決まってる。

 それは毎年のこと。例年のこと。

「じゃ、一気にいくよ」

 せーの。ベランダから声がする。昼から干しっぱなしだった中掛け。脚の長いダイニングこたつ用だから二人がかりじゃないと取り込みづらい。

 例年になく、本当はこんな時間までのつもりじゃなかった。毎年と違って、午前中から始めたのに陽が沈んだ今になってやっと大詰めだ。

「途中で、セスキ切れたのがね」

「だから多めにって頼んでおいたのに」

「台ばっかりあんなに執拗にやることないんだよ」

「コーヒーの瓶なんか磨いてるからだって」

 責任のなすり合い。これは通年変わらない。でも途中で買い出しを挟んだのは痛かった。16帖のLDKと8帖と6帖の洋間からなる603号室……去年までより一室分減ったのに(しかも6帖のサービスルームは慣例にならって無視されたのに)、時間はむしろ前の年より大幅に消費した。

 間取りの適正値を測る上で掃除というランニングコストを支払えるかどうか、を、いちおう重要な基準としてるつもりではいるんだけれど、や、台だの(二人は洗面台のことを言ってる)瓶だの、そんなのにのめり込むだなんて、前もって判断つくはずない。

 静けき夜が始まる。

 昨日まで暖冬だった空に午後から寒気が流れ込む。室内の空気も窓を開け放つとぐっと萎縮する。昨夜見た気象情報の「予想される雲の動き」では十八時すぎ、つまりあと30分もしないうちに天気も崩れるとのことだ。

「とんだ大掃除の日に」

 でも毎年この日と決まってる。日中に晴れてさえいれば、意地でもやってしまう。もっと大切な行事が控えてるから、明日の予定はそのために空けておく。おきたい。

 最後に上掛けを回収して、カノは掃き出し窓に鍵をした。クレセント錠を上げる手が、もう寒さに震えてる。

 はあ。と息を当てる。

「これで最後だから」とカレはテーブルの上に投げられた上掛けを広げながら言う。「頑張って。手伝って」

「それよりも」とカノは外の暗がりを見てつぶやく。上掛けの端をつかみながら、「ご飯。どしよっか」

「ウーバー?」

「駄目だよ、明日もあるんだもん」

「だけどこんな時間じゃ、ね」

「だからカレンくんが台なんかあんなにさ」

「ずれてる」とカレはあごで上掛けを指して言う。カノは黙って直す。「僕は一向に構いませんよ」

「そりゃカレンくんは良いかもしんないけど」

「なら良いんだよ」

 カレは心からどっちに転んでもどうとでも構わなかった。それは単なる目盛りの1つに過ぎないし、その目盛りに到達した瞬間に駒が一つ前に進むわけでもない。ただちょっと自分やその周りにとって折り目の良い数字というだけだ。

 祝う方の身にもなれ、とカノはちょっとふてくされる。

 カレはそういうのは無視して、一人で勝手に天板をひょいっと持ち上げて、こたつテーブルの完成を目指す。慎重に、降ろす。載せる。上掛けと天板のあいだからふわっと空気が抜けてゆく。

 だけどふっと見て、カノが気がついた。カノは2つの人差し指で見えないハンドルを回しながら、

「逆だよそれ」と言った。「天板逆になってる。茶色が表」

「逆? ああ。いいんだよ」とカレは天板の位置を調整しながら言った。「リバーシブルなんだし、活用してやらないと」

「でも、白だと汚れ目立たない?」

「目立っても目立たなくても汚れるのはいっしょ」

 おお、とカノは思わず感心する。それなら臭いものに蓋よりも、清潔を保持しやすい方が衛生的というわけか。

「箴言だね」とカノが言う。

「警句、警句」とカレは一応同意しておいてやる。「曲がってない?」

「だいじょぶ」と離れた位置から、言う。

 ならオッケー。やっとこれで片付いた。遠赤の電熱ヒーターがぶおん、と稼働する。電気ケトルもちょうどよく合図する。ひとまずの、ブレイクタイム。

 コーヒーの苦味と渋みが心地良い。お気に入りの銘柄にホッとする。

「午後から一気にやっちゃったのは、正解だったけど」

 やっぱり落ち着くと、どっと疲労に襲われた。

「ツケは必ず支払わされる」とカレは言う。

「カレンくんもかい?」

「まあね。さすがに疲れたよ」

「ふむ」

 じゃ、夕食は結局出来合いか。せめてデリカテッセンで安価に、くらいの妥協点を狙ってたけど、こうなってみると私の方でも動き出すのが億劫だ。

 ネット注文で簡単解決。

 マルゲリータとジェノベーゼ、ということにした。

「台だな。台」とカノは言う。「途中のダイソー・タイムがなあ」

「瓶だね。瓶」とカレも言う。「明日は普通のメニューでいいから」

「明日は明日でちゃんと祝います」

 カレは肩をすくめた。

 届くまで、湯気と苦味で毒を抜いておこう。こたつも温まってきた。

 しどけなく。数分前の緊張が嘘みたいに。

「でもさ、こんな年の暮れに生まれるなんて、よっぽどだよね」

「ね。生まれたときは相当慌ただしかったらしいよ」

「瀬も瀬だもんねえ」とカノは言う。「ただし私はカレンくん当人について言及してるつもりなんだけどね」

「僕のことはいいんだよ。変に気を遣われるより、忘れられてるくらいの方が楽なんだから」

「悲観的」

「子どもの頃は、せめて誰かさんの生誕祭さえなければな、なんて思ったりもしたけれど」

「有り難いのは近くのカレンくんより遠くのイエス様」

「そんなもん」

 はあ、とため息をつく。天板の上にぐでっとなる。

 やっと石英管の熱が足の芯まで届いて、ふくらはぎの疲労がじんわり煮える。食事の準備がなくなったと思えば心地よいむくみだ。

 ぼんやり。カノは顔を横にして、90度に倒れた室内を眺める。

 掃除のついでにちょっとした模様替えもした。だから、こたつテーブルから見える景色は朝とはちょっぴり異なっている。

 カラーボックスがあっちからこっちに。代わりにツツジのフェイクグリーンがこっちからそっちに。でそっちの姿見が押し出されてあっちに。結局降霊術の『スクエア』みたいに角を入れ替えただけだけど、なんとなく今の方が具合が良さそうには見える。

 けど、どっちにしても慣れるには時間がかかりそうだ。

 慣れる。そういえば603号室には、慣れたんだろか。きっと慣れたんだろう。それならいつ慣れたのか。カノはぼんやり瞳を開いたままぼんやり考えた。

 思い出せない。気づけば慣れていた。どんなでも、そういうものだ。

 だけど慣れるということは同時に忘れるということでもある。

 以前まで住んでいた部屋のことが、ふっとフラッシュバックする。寝室。サービスルーム。リビング。603号室と違ってダイニング・キッチンはリビングとは切り離されていた。そのダイニング・キッチンを通らないと浴室まで行けない間取りなのが少し不便でもあった。

 不便だったけど退居時には感じるところもあった。そのとき捨ててきたスタンドライト、それより少し前に天寿をまっとうしたラップトップ……。

 あー。

 思わず喉の奥から呪詛の声が出る。頭の向きを逆にする。窓を見る。

「もうちょっとで届くから」

「うん」と適当にはぐらかす。開けっ放しのカーテンが窓の向こうの暗がりをよく透かしてる。

 なんでカーテン閉じてないんだろう。とカノは思う。(いつもなら開けっ放しにしてると叱られるのに)。カレンくんも疲れてるんかな。

 もうすっかり世界は暗黒だ。手すりに遮られて、上半分だけ覗く夜景。それでも遠く遠くには街並みの明かりが見える。日本の文学になぞらえていえば、夜の底が星屑を散らしてる。

 反対に空には月もないし星もない。ぜんぶ底に墜ちてしまった。

 ひっそりと寒い冬。

「僕はさ」とカレが小さく柔らかく言う。見ると、カレも頬杖をつきながら窓の奥に視線を送ってた。「僕はさ、ある時期まで、自分が地球で最後に生まれた人類だと思い込んでたんだよね」

「なに、それ?」とカノは思わず舌っ足らずに笑う。

「誕生日って先着順でさ、早くに生まれた人から若い番号が当てられてると思ってた」

「この世に最初に生まれた人が1月1日生まれ?」

「そう。ネパールあたりに住む140歳くらいの苦行僧を想像してた」

「アダムやイブではなく」

「だって彼らは既に生きてなかったから」とカレは言った。「あくまで存命中の人の中で、年功序列に割り振られてたんだ。要するに、子どもの頃って、生き死にとかもあんまりわかってないし、自分を軸に、世界を見てしまうから」

「ネパールのおじいさんにも1歳の頃があったことを想像できなかった」とカノは言う。「そしておじいさんが1歳のときには別の140歳のおじいさんが存在していたことも」

「そういうこと。僕は僕自身の成長は自覚してたのに世界はある一定の枠内に固定されてると思いこんでいた」

「可愛いとこあったんだね」とカノは懐かしさを込めて言う。「にしても、カレンくんが地球最後の人なら、あと1人分の余地はどうするの。31日はおまけだった?」

「かもしれない。控えの番号と思っていたのかも。いずれにしろ」とカレは言う。「僕は年齢と生まれた日にちに関連性があると信じてた」

 その錯覚を保証するように、カレの兄弟は最も誕生日が近いので11月の末から、最も遠いので9月の中旬だった。母親は8月の生まれでそれより年上の父親は7月生まれだった。祖父母は(カレは母方の二人の誕生日しか知らなかったけど)どちらも冬が春に移行する時季だった。

 ほかの周辺人物でもカレの思い込みに反証を持ち込む人はいなかった。偶然にもカレの周りには「年下」という存在も現れなかったし、カレは幼稚園に通うのを一年遅らせたから、集団生活の中でそういうことを知る機会もなかった。

 法則はそのようにして、ある時期まで保護されてきた。

 途中入園した幼稚園でも、初めのうちは「年中さん」や「年少さん」の違いすらよくわかっていなかった。『この子たちはみんな僕と同い年で、みんな僕と同じ日に生まれたんだ』、と、だけどそう考えていたわけでもない。2つの事柄はカレの頭の中で完全に切り離されていた。クラスで「お誕生日会」が開かれたときに、ようやく2つの事柄が結び合わされた。

「年齢と誕生日の関係は単なる偶然だった。何しろ僕と同い年の子が5月生まれだったんだからね」とカレは言う。「間違いに気づいたとき、世界の構造がガラッと変わった気がしたよ。まさしく音を立てて、ガラッとね」

「そして二度と戻らない」とカノはつい言った。

「こちらの世界の方がまともだとしてもね」とカレは残念そうに言う。「だけどその経験のおかげで僕は、ある関係と関係を、すぐに相関性に結びつけるような思考の取り方は危険だと知った。あるいは年齢と誕生日の関係は、僕には明確な原因と結果――つまり因果で繋留されていたんだけれど、それも偶然か誤認の類でしかなかった。つまり参考のデータが足りていなかったために。

 だから似たようなことが僕の目の前で起こされるたび、僕は『お誕生日会の真実』という言葉を頭に浮かばせて、注意深く、慎重に、それらの事柄を扱うようにしてきた」

「少年カレンくんの物語」とカノは言う。「君は実に色んな体験を幼少期にしてしまってるねえ」

「カノンには、ないの、そういうの?」

「忘れちゃった」

「そう」

 でも一つだけ、とカノはちょっと眠たそうに言う。

「有名人は絶対に死なないものだと思ってた」

「死なないというのは?」

「字義通りだよ。病気でも事故でも、寿命でも、どんな災いが降りかかっても、彼らは不思議なチカラで守られてる、と思ってた」

「それはどんな有名人でも」とカレはどこかしら愉快そうに言う。

「そう。でも、あるとき『大御所』って呼ばれる俳優の告別式が、テレビに映し出された。私でも知ってる俳優さん。それで、ガラッと」

「世界の構造が変わった」

「ああいうパラダイム・シフトの感覚も、懐かしいといえば懐かしいけれど」

 とカノは言って、今までよりもうちょっと意識的な視線を窓の外に注いだ。

 横から、そっとカレが言う。

「見識を増やすと夢が褪せる」

「ね。一つ歳を取るごとに薄いガラスが割れていくようなんだ」

 そうしてガラスが割れるたびに私たちと現実との境い目が減ってゆく。すっかりガラスがなくなったとき世間は私たちを大人として扱う。

 でも可能であれば何枚かは残しておきたい、とカノは想う。少なくとも一枚。部屋の内外を分けるこの掃き出し窓のように。

「雨」

 とカノは言う。

 ぽつぽつと当たってきた。ベランダの手すりの上に、一つ弾ける。

 雪より冷たい冬の雨。

「間に合わなかったか」

「本降りにならなきゃいいけど」

「悪いことしたね」

「ご苦労さまです」とカノがほんのちょっぴり誠意を込めて言う。

 しばらくしてインターホンが鳴った。

 雨は徐々に勢いを増している。

 ゆらゆらとダイニングをたち、テーブルに忘れた財布をカレに投げてもらう。

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