9と球と+1
球体の動きはあらゆる形状の中で最も数理的に美しい。
適切な力で球体を地面に落下させてみる。余計な要素が排除されてれば、その球体は数式通りの場所、つまりあなたの手のひらに、何度でも戻ってくる。
立方体に同じ力を加えてみる。あるいは三角錐や正六面体に。彼らは戻ってきてくれない。接地面の都合で好き勝手の方向に飛んでゆく。こんなものの予測に物理学者もまともに取り合おうとは思わない。
だから人類は数理的に完成された球体をこそ愛した。愛して研究した。
研究の過程で新たな球体が生まれる、と、その球体にも愛が注がれ、学究の目も同時に向けられた。次にまた球体が生まれても、やっぱり同じようにした。球体が生まれるたびに球体の研究者たちは分化した。
現在では流体や運動といった多くの力学の知恵を借り、それぞれの球体にそれぞれのメソッドが確立されている。研究者はいわば、そのメソッドをどれだけ忠実に再現できるかに心血を注ぐ。どの刺激に対してどの反応が起こるかを徹底的に頭に叩き込み且つ弛まぬ反復練習によって極限まで精度を高める。
プロフェッショナルの世界ではこれらスキルの巧拙が競われる。試合とは突き詰めていえば体系化されたテクニックの品評会であり、フィールドで行われることは技能の実地試験にほかならない。
対戦相手、メンタル性、フィジカル性、これらのことを敢えて無視してみると、どの球技にもおおよそ今述べ立てたようなことが当てはまる。
とりわけ技術の粋を集めたような場では、そこに属するプレイヤーはおしなべて洗練され、彼らの一挙手一投足は美しい芸術作品に昇華する。このような高密度に結晶化された技術体系にこそ、観衆は、人々は、魅了される。
「ただし例外もある」
2010年8月30日、全米オープン初日、対B・ダブル戦での股抜きショット
2011年7月18日、右足アウトサイドからの同点弾
2016年6月19日、タイスコアからのブロックショット。通称『ザ・ブロック』
「いわゆるスーパープレーと呼ばれるもの」、「その中でも技術を拠り所としないもの」
または肉体の強靭さや卓越した連携といったこととも違うし、一瞬のうちに思惟的な判断が行われたとも考えにくいもの。明文化されたスポーツ理論とはかけ離れた、まったく分類しがたい反応の数々。
「史上最高のプレーだった」、肉眼を通して見た人々が感動と興奮を抜きにしては語ることのできないもの。
こうしたプレーになにか言葉を与えるなら、『奇跡』、『直感』、『人知を超えたなにか』。我々の理解の及ばないところに言葉を定めなければ、表現のしようがない。
「だけどね」
それなら、これらの動きは素人にも再現が可能なのか。単なる奇跡、単なる直感であるならば、トライアル・アンド・エラーの先に万に一回くらいはトレースできてしまうのか。や、そんなはずはない。そんな可能性は万に一つもありえない。
「私は素人と天才をこう差分する」とカノは言う。「まず素人は、そもそも基礎ができてない。そして天才は――」
や、その前に。
2つのあいだに、初級・中級・上級のセパレートを便宜的に挟むことにする。
どうぞ、とカレはうなずく。
「素人の次の段階となる初級。ここに至ってようやく基礎を忠実に再現できるようになる」
「ワンランク上がって中級までいくと、応用技術を獲得する」
「そして上級は、基礎と応用を融合させる。融合の先で新しい理論を構築させたりもする」
なるほど。で天才は?
「基礎も応用も無視できてしまう。それを用いなくても成立する新たな領域を彼らは『人知を超えた』能力で体現してしまう」
つまり素人は基礎が「わからない」。天才はわかってる上で「従わない」。『人知を超えた』ことも一見して直感に思えるようで何かしらの意識的な判断が働いている。
「こういうことはスポーツよりも、抽象絵画が例に挙がれば、すぐに納得できるんじゃないかな」
「たとえばピカソのような?」
「まさしく『ゲルニカ』や『泣く女』の、いわゆる『キュビズム』と呼ばれる画法のような、ね」とカノは言う。「なんだか素人にも描けそうな気がする。だけどそんなはずはない。ピカソは生涯に水彩や油彩だけで一万点以上もの作品を残した。それはいわば基礎と応用の途方もない反復練習だ。『ゲルニカ』には、その基礎と応用の、限界まで研ぎ澄まされた結晶が備わっている」
「君の意見だとそれらに従わないことが天才のよすがなのでは?」
「ある、部分的には、だよ。数理的に考証された技法に、多くの部分は裏打ちされている、けど、特定のどこかに『従わない』場所がある。従わなくてもいいと判断し、結果としてその通りになったポイントが」
「それは例えばどういうような?」
「わかってたら私は天才だ」とカノは笑った。「だから素人だけじゃなく、中級者も、まして上級者ですらも天才の模倣はできない。それは極限まで芸術と向き合った人たちにだけ贈られるギフトのようなものだから」
「つまり、なんだかエジソンの名言のようだね。99の努力と、1のひらめきと」とカレは言う。「カノンの理屈だと、99の努力を費やせば必然的に1のひらめきを授かる、というようにも解釈できそうだけど」
「エジソンがどの程度を『99の努力』と定義してたかによるけどね」とカノはそれっぽくうべなう。「カレンくんの言う通りかもしれない。98の努力は98で止まるけれど99まで到達すると自然と+1のボーナスが付与される。そしてその『正数2』の違いが決定的に結果に差を生じさせる。技術的には98の上級者と99の天才に、それほどの違いはないにも関わらず」
「天才とその他を隔てる分水嶺に」とカレは言う。「とすると、ある種の才能、努力を用いずに天才性を発揮するタイプの人物、そういうのはこの世には存在しないわけだ?」
「いるにはいるよ、だって、実際にいるでしょ」とカノは言った。「でもそういう人たちは初めっから私たちとは異なる。彼らの多くは日常や社会性を放棄しなければならないような人たちだから。だからもしカレンくんが『僕は才能だけでやってける人間だ』と思い込んだなら、その幻想はすぐに捨てた方がいい。間違いなく言って、君は99の先に1を獲得するしかない人種だ」
「僕にそのつもりはないから大丈夫」
「でも世の中にはいるんだよ。自分では99の努力と思い込んでその実31くらいしか到達していないような人たちが。こっちの世界にはそんなのがうじゃうじゃといる。そういう中には実際に才能の片鱗を感じさせる人もいる。だからひどくもったいない。現状で満足して才能を枯れさせてしまっていることが。文化的にも人類史の遺産という意味でも、ね。そういう姿勢は大きな損失だ。あるいは本人にとっても」
「誰かが言ってたね『天才の悲劇は心地よい名声を得ること』だと」
「芥川だね。彼も努力なくして才能は得られないと考えていた種類の人だったかもしれない」
「じゃ、カノンもそう考えてるというなら、君だって努力したらいい」
「それは――」
カノは苦笑した。たしかにそうだ。だけど自分の作品が誰かに羨ましがられてる、才気あるものだと認めてもらえてる、とはちょっと想像しにくかった。だからカノは簡単に自分の才能を否定した。
そもそも私は脚光も称賛も要らない。求めるのはどうにか生きられる術、それだけだ。それ以上は私にとって身に余るものでしかない――と真実そう考える。
「ところで」とカノは言う。「芥川ではなくて、パブロ・ピカソとトーマス・エジソンについて言及したいのだけど」
「ピカソとエジソン?」
「そう。ちょうどよく天才の説明に使った、この二人」
「どうかした?」
「ピカソが天才というのはもちろんのこと、一般的にはエジソンも天才の一人として世に認められている。この点はいい?」
「異論はないね」
「だけど不思議なことに、この二人の晩年の扱われ方は、ちょっと決定的と呼べるくらい違ってる」とカノは言う。「ピカソは(――まあ若干の批判はそりゃあったけど)『キュビズム』に傾倒して以降も、その『キュビズム』タッチの作品も含めて概ね世間からは好意的に評価されたまま生涯を終えた」
「ああ、それなら僕もエジソンのことは聞いたことがあるよ。たしか彼は霊界の存在を信じて、霊的概念との交信手段を模索する……いわゆるオカルティックな方面に研究の対象を見出したんだっけ。それで世間からは頭が狂ったと評された」
「そう。面白いと思わない?」
「天才となんとかは紙一重ということが?」
「違うよ。ピカソもエジソンもやってることに違いはないんだよ。芸術という、もしくは科学というものの『基礎』に、従わない。それがなぜか一方は喝采を浴びて一方は悪罵を浴びる」
「ああ」
「私はさ、天才の定義だのよりも、こういうところがひどく気にかかるんだ。どうして99の先に1を獲得しても、アスリートはファンタジスタと呼ばれ、アーティストはジーニアスとされて、サイエンティストだけはマッドと烙印されるんだろう」
「きっとスポーツと芸術には無数に答えが用意されているからじゃないかな。だから、ある程度はなにをやっても許される。比較して科学は、論理的に考証された唯一解によって構築される分野だ。だから正解でないと許されない」
「かもしれない。けど、だとしても方程式も解も発見されてないうちから否定されうるべき事柄なの?」
「どういうこと?」とカレは聞く。「君は幽霊を信じるの?」
「わかんないよ。答えなんて出てないんだから。わかったら私は天才だ」
だけど寸暇を惜しんで99の努力に人生を注いだ先に、1の狂人と評されてしまうというのも、なんだか悲劇的な話だ。だけでなく、そこにはおそらくたった一人の理解者すらいない。なぜなら彼を理解できるのは同じ分野で同じだけの99の犠牲を払った人だけだから。そんなのが同時代に二人といるだろか。
なら、そんな孤独のために人生を99で埋め尽くすだなんて、ずいぶん馬鹿らしい。あるいはそれこそが人類の進歩、躍進、のための犠牲なんだろか?
やっぱり。私には無理だ。とカノは考える。
(一応私にも『天才』の可能性があると仮定したとしても)
それでも平凡な日常を捨てられない。
で。一体どんな流れでこんな閑話が始まったのか?
皮切りに球体が選ばれたからには、きっとそこに紐解く鍵がある。おそらく二人は食事のあいだに球体を追っていた。そのうちに閃いて、こんな話題が食卓にのぼった。
それも今や落ち着く。
箸を置く。ふう、と一息つく。
「やっぱそうめんだけだと淡白だね」
「ついでにお惣菜も買ってくればよかった」
「冷蔵庫、なんかなかったっけ」
「アイス。カレンくんは?」
「じゃあ、もらうとするかな」
「じゃ、私、チョコね」
ところで。
閑話のきっかけとなった球体の行方はどうなったのか?
それは二人の興味が離れているうちに終わってしまった。少なくとも9の歓喜があって9の涙があった。1+1の日常もある。
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