いちどきりの夏

 その夏に気付いたことがある。

 セミと温度の関係だ。

 彼らが凄絶に鳴き出すには一定の気温が必要だけれども、ある熱範囲を外気が超えるとき、彼らは瞬間的にぴたりと死滅する。

 象徴的に暑さを司るセミたちも、当たり前だけど生命体だった。だから太陽が近くに寄ってきすぎるとイカロスの翼のようにあっけなく燃え尽きる。

 というわけで最も陽射しの輝かしい時間帯にはセミたちも「お隠れ」あそばれて、朝や夕方や、日によっては深夜に、蘇生してシュプレヒコールがやかましい。

 カノは初めのうちセミと温度の関係――つまり例年とは違う時間帯に鳴くセミたちの合理的な習性――に気づかなかった。気づかない間は、セミも人類もひとしく、この暑さに頭を狂わせてんだ、としか感じなかった。そう信じ切っていた。

 とにかくその夏にはうんざりだった。

 呼吸、一呼吸のあいだに、細胞がどんどんアポトーシスしてく。枯れたミトコンドリア。灰になったゴルジ体。

 体中が壊疽し、どろどろに腐って、フローリングの表面にがはびこってゆく。私はいつかこの床の染みになる。そんなディソーダーな想像がいくらでも湧き出してくる。

 空調の冷気を毒に感じるせいで室内にいてもこんなだった。なければ耐えられないので超法規的に黙認してるとはいえ、結局、冷風があっても、なくても、苦痛に違いはない。

 外気はもっと直接的な暴力で殴りかかってきた。買い出しも容易じゃないし、24時間営業で重宝してたジムにも、つと通わなくなった。逃げ場なんてない。

 どこにいても、うんざりだった。

 ので、今年はカレの長期休暇のあいだにも(去年はそれでも、なんだかんだ出かけてみたりしたのに)お互いの実家にちょっと顔を出すくらいのことしかしなかった。

 海? 祭り? キャンプ? ビアガーデン? 勘弁してほしい。

 場所によっては603号室で過ごすより快適なところもあったろう、けれど、そこまで到達する道すがらが耐えられない。ジムとおんなじだ。

 そうやっていろんなことを諦めて、また、筋肉と同様に、いろんなことを失わせる夏だった。

「セミでさえスケジュールを調整するんだ。だったら理性的な我々はもっと高い位置から俯瞰しようじゃないか。計画は、全部来年に回せばいい」

 カレが言った。何度もいうけれどその夏のことは異常だった。

 つまり……その年の夏は、カノもカレも、いつもより苛烈にインドアを徹底させた。徹底させた結果、更に余暇が増えた。で、この場合の余暇は『余剰な閑暇』の省略形で、その見出し語には「心の休息」や「解放された時間」といった前向きな意味を含ませない。

 退屈だけ加速した。したし、あまりの暑さに閑話で茶を濁そうとする、いつもの気力も起こらなかった。

 あったとしても、そういうことはもう少し陽が傾いてからにして、炎天のいまは、モニターの向こうからやってくるブラスバンドの音色と、白球の行方を、受動的に受信するに終始した。

 揺らめく陽炎のグラウンド。むせ返る汗の湯気。

「この子たち、よく倒れないね」

「そりゃ、僕たちだったら救急搬送がオチだろうけど」

「若いんだ」

 ため息代わりのこんな会話を二三交わすくらいが限度だった。

 だけどカノは実際的にはまだ自分が青春の中にあると感じられるくらいには若かったから、球児たちの躍動にそれほどの関心を得られなかった。漫然と試合が進むのを眺めるだけで、興味といえば、環境映像よりは物語性があって面白い、程度のことだった。

 一方でカレは、カノに比べるとちょっとだけ入れ込む度合いが高かった。地方予選の準々決勝あたりから漫然と試合結果に目を通したりして、いよいよ本戦が開幕すると、ご多分に漏れず地元からの出場校を応援し始めた。

「そんなに郷土愛の人だったっけ」、氷に満たされて北極化した麦茶をだらしなく紙ストローで吸いながら、カノは言った。

「ただ見るよりは、思い入れがあったほうがね」

「でもさ、地元校ったって、私立でしょ」、テーブルに腕を投げ出して言う。首には保冷剤を当てていて、2つ合わせて、なんとなく断頭台を彷彿とする。「地元出身の子なんて、ほとんどいないっていうじゃん。スポーツ特待で全国からかき集めた子ばっかりで。そんなのでも地元っていえるん?」

「ま、いいじゃない。どんな詭弁でも拠り所になれば、それで」

「イワシノアタマか」

「信心がね」

 ところで信心の源たる地元校は緒戦で当たった古豪の公立校にあっさりと敗れてしまった。一応健闘はしたけれど、勝ちか負かの結果でいえば一回戦止まりの、あっさりだ。

 その結果は例年通りの、いわゆる「出ると負け」だから良いとして、カノの目に面白かったのは、カレが二回戦から、地元校を破ったその古豪チームを応援し始めたことだった。

「なんでそっち応援してるの?」とカノは言った。「負かされた相手なんだから、憎いのと違うの?」

「僕は形而上より実利を取るんだ」

「ああ?」

「彼らが優勝すれば僕らの地元は実質2位だからね」

「なんだその理屈」

「要するにくじ運のせいだったって言い訳がきく」

「ああね」

 やりあうのも馬鹿らしかった。

 それでその古豪も三回戦で負けた。カノは不憫に思ってなんにも言ってやらなかった。それよりもその瞬間のカノはかき氷を何色のシロップで映えさせようかに興味を寄せていた。色の違いで味が変わらないことが未だに信じられない。

 またそれから数日経つと、カレは地元校とも古豪とも違う新しい学校を応援し始めた。というよりもそこまで至ると過去の出場回数や試合展開などによって立場を決める、判官びいきのようだった。

 要するにカレは肩入れするチームを定めないとスポーツを楽しめないたちだった。


 ――日程はもう三回戦の終わりの方まで進んでる。

 普段ならこのあたりの試合はどれも強豪校同士の、円熟味を増してくるのが、今年はどうしてか駒が進むに連れて試合展開の一方的な感じが目立った。カレはなにごとも大味より細部のディテールを好む方だったから、どちらかといえば1点を競う守備対決を求めた。

 ひきかえカノはどちらでも良かったしどちらでも悪かった。

 たとえるなら独特の波長の揺れとリズムを備えるレゲエダンスのような映像を求め、適切な不確実性と適切な予定調和から成っていればそれでよかった。あんまり早くに終わってもつまらない、し、互いに大量得点の乱打戦、みたいなのも長引いてだれてくる。

 ま、そこそこのとこで終わってくれればいい。とカノは思う。

 だけどどっちにしたってカノはスポーツ全般熱中するたちじゃなかった。夏がカノからモチベーションを奪わなかったとしても。

(だって彼らが頑張って優勝したって私が頑張ったわけじゃない。私自身がなにも懸命になれてないことに、感動は、覚えられない)

 どこまでいっても客観の視線から、ただ漫然と観戦してるだけだった。のでカノからすると、試合そのものを観るのも試合を観戦するカレを観察するのも、実際的にはそれほど違いがなかった、から、自然とその2つを見比べるような過ごし方をした。

 それでふと気付かされたことには、どうもカレは系列校が嫌いらしい。対戦カードの片側に附属とか何とかの文字があると、カレは必ず逆側の学校を応援していた。

 前試合・前々試合の延長ゲームにどんどん先送りにされた、その日最後の四戦目。5回の裏が終わった頃には、もう17時30分を回ってた。

 その対戦カードもやっぱり片側が系列校で、カレは相手側となった四国の商業高校を応援してた。

「なんでなん?」とカノは訊いた。

「附属が嫌いってわけでもないんだけれど」とカレは遠回しに言う。

 試合はいま、その夏導入されたクーリングタイムに突入して、映像に緩急が乏しかった。夕方になって外気温もやっとほんの少し(といっても本当にわずかちょっぴりだ)落ち着いて来たのも、閑話のきっかけの1ミリくらいの一助になった。

「なんというか、絨毯爆撃とかさ、無差別破壊兵器のイメージなんだよ」

「なにが?」とカノは聞き返す。「野球の話だよね?」

「野球というか附属校。系列校」とカレは言う。「あくまでイメージだけど、莫大な資本に物言わせて、あらゆる土地にコピー校を乱立して、そこを中継拠点に各地の地方大会を総ナメにしてく、ってのが、なにか僕には一方的な攻勢に思われて」

 はあ。なるほど?

 カノは首を傾げる。

「でも私立はイワシノアタマなんでしょ?」と追う。「有力な選手を囲ってるという点では、やってることは変わんないように思うけど」

「まあそうなんだけど。ただ、なんか、違うんだよ」

「程度問題?」

「なのかな。突き詰めてくと『じゃあ、もう君たちだけで勝ち負けを競ったらいいじゃない』ってなってしまいそうで。だけどクローン同士の対決なんて、つまらない」

 はあ。なるほど?

 カノは、今度は首を傾げるまではしなかったけど、納得とまでもいかなかった。第一……『それじゃカレンくんだってじゅーぶん形而上の側の人なんだよな』と思う。『(ま、そんなことわかってるし、実利の人だというのも否定する気はないけれど)』。

 長い長いクーリングタイムが続く。

 閑話は案外不発に終わった。

「夕食、どする?」

「今日もそうめんかな」

「だよね」とカレが言う。この時間にまだメニューが決まってなかった。

「でも麺つゆ飽きた。あれにしよ、ごまと、味噌の、なんだっけ。冷や汁?」

「それだとキュウリ買ってこないと。無くてもいいなら良いけれど」

「肝だよなあ。どしよ。……どしよかな」

 近くに生鮮を扱ってるコンビニは、ある。スーパーマーケットよりは近いけれど、とは言い条。

 室外機。室外機。室外機。アスファルト。アスファルト。アスファルト。膨張する空気。空気。熱気。外には大量の悪魔どもが蠢いてる。

 たかが薬味一つのために……

「行くの?」とカレは驚いた。

「どうせお風呂入るし。の前に汗かいてきちゃう」

「素晴らしい」とカレは言う。根性ではなく食い気が。

 カノは皮肉とわかってて適当に受け流した。

 それから言った。

「試合も飽きちゃったし」

「ああ」

 飽きたというより続きが再開されない。長い休憩時間だ。

「それに、結果も見えちゃったし」

「ああ」とカレは繰り返す。

 ヒットの多い試合、ではあるけれど、今のところ点差は一つも開いてなかった。クーリングタイム明けにどう転ぶかは、だから誰にも予想がつかなかった。はず。

 なのだけど、カノがたまにそういう直感を働かすことをカレは知っていた。今の口調にもそんなニュアンスが含まれてたから、『いつものだ』と察して簡単に相槌を打った。

 でもカノは、

「カレンくんの応援してる方、多分負けるよ」とわざわざ言った。

 試合運びは最終的にその通りになった。


「思うのだけど」

 煎り胡麻の風味を鼻に抜けさせながらカノは言う。

「カレンくんはさっき、附属校の在り方がフランチャイズ的だと言った」

「言ってないけどね?」

 と、は反射的に否定してみたものの、表現が違ってるだけで同じことを指してるのかもしれない。大手チェーン店が地元の小売店を駆逐してゆく感じ。街並みがどこも一元化されてゆく感じ。

「まあいいよ、それで?」とカレは言った。

「大したことじゃないんだけどね。や、仮に学校っていう母体は分裂細胞的でも、そこに所属する選手一人ひとりは、一人ひとりなんじゃない?」

「そうだね。同じ人間は一人としていない」

「そのことは附属校だろうと地元校だろうと、他の地域の学校だろうと、等しくおんなじのはず。当たり前だけどそこに属する選手一人ひとりには一人ひとりの青春がある」

 箸を止めてカレは言う。

「すべての勝負事に双方の青春を考慮してたら、大変だよ」

 気を悪くした様子はなくて、冷静な口ぶりだった。

 カノも、うん、とうなずく。

「だけど、最初からどちらかに肩入れするような態度でなくてもいいと思う。せめて彼らの情熱だけでも受け止めてあげられれば」

「それは僕らに足りない事柄として?」

「相手の熱量に対する生体的な反応として」

「生体的な反応ね」とカレは言う。「それは世間一般に『感動』って呼ばれる概念だと思う」

「そうなんだけど、それより一歩奥に踏み込んでさ。つまり彼らが試合に臨むまでに一体なにをしてきたのか、この試合の最中にもどれだけの苦しさと戦ってるのか、というようなこと。言葉にしちゃえば簡単なそういう『一人ひとりの背景』みたいなことを、真剣に想像してみる、と、勝ちとか負けとか、そんなの、無い方が良いとさえ思えてくる」

「それは僕はやりすぎだと思う」とカレは言った。「わからなくはないけれど」

 そうめんの束を掴む。けど、その箸をまたぴたっと止める。

「第一、それを言ったら」と相手の目を見てカレは言う。「カノンのさっきの態度にも、問題があるようだよ。君はああやって、ときおり予言めいたことを言っては、その的中に悦に入るようなとこがある。安易な一言でゲームの支配者になろうとする。とすると、どちらかといえばカノンの方が『選手一人ひとりの青春』を考慮していない」

「だね」

 カノはあっさり認めた。カレに言われる前に、自分でも思うところがあった。

「つまり君の意見は理想論ともいえる。そしてそんなことは、本心ではみんなわかってる。『誰の青春だって軽視されていいはずがない』。だけどあまねくすべての青春に折り目正しく応じようだなんて不可能だ。それよりも、もっと器用に、打算的に生きないと、僕たちの方が疲れ切って摩滅してしまう」

「だあね」とカノは言った。「断頭台の態度は正しいのか、悪いのか」

「断頭台?」

「こっちの話」

 カレは肩をすくめた。やっとそうめんをつゆにつける。

 カノが続ける。

「や。べつにね、私だって本気で言ったわけじゃないんだよ」

「わかってるけどね」

「だってこんなにさ」

「わかってるよ」、ずずっとすすりながら、言う。

 クーリングタイム、から一時間と少しほど経って、試合はまだ継続中だった。すっかりナイターに移行した球場内で、笑顔や泣き出しそうな顔や、選手の様々な表情がカメラに捉えられる。

「こんだけ人生に本気だと、色々思わされるね」

 そうめんを味わいながら、静かに同意した。

 試合は9回裏、1アウト、ランナー無し6点差。最終的な勝敗は決まってるけど今はまだ只中だ。照明のコントラストが熱意を描く。

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