透明人間は押せない
「鍵、お願いね」
玄関のドアが静かに閉じられる。音から想像すれば脆くて薄いダンボールのような材質だ。実際は防音仕様でずっしりしてる。でも、カレは小さな音しかたてたことがない。そういう人だ。
見送って、チェーンロックをかける。サムターンを回す。
それから私はしばらく待っている。私がこうしていることを、カレは知ってるんだろうか。そんなはずはない。カレが引き返してくることはない。これまでも、きっとこれからも。
五分経って、今日も大丈夫らしい。一度くらい忘れ物をしてくれたって、良いんだけれど。
解放されたような、すこし寂しいような。私も寝室に移る。
6時45分。カレは行く。私は眠る。
夜を好む私は、よく、一日を過ごしきったあとの感傷や疲労を背負っている身で、カレと朝を迎える。
もしかするとカレの出社は世間並みより少し早いかもしれない、だけどそれが私の最も心地よいと感じるサイクルと、奇跡的に噛み合っている。カレは行く。私は眠る。私が起きる。カレが帰る……そして私は夜に思考を埋没させる。
明け方。そろそろ空が白んでくるときに(もちろん季節によるけれど、)カレが寝室から「おはよ」とやってくる。私にとってはそれが終業のベルであり、世界にとっては無機質な夜から生体的な朝に転換する息吹である。
声だけかけて再び洗面室まで引いているあいだに、私は朝食の準備をする。
(もちろん私がその時間に起きているときに限定して、だけれども。)
さっきまでキーボードの打鍵と冷蔵庫のモーター以外にはほとんど無音だった部屋に、電気ケトル、フライパン、朝の報道バラエティ、いろんな種類の音が急に溢れ出す。新聞配達のエンジン。キジバト。音が夜と朝のあいだに断層を引く。
そして沸き立つコーヒー、目玉焼き、トースト、の香り。
私はこの瞬間にこそいつも夜の無機質さを感じる。そして朝の方には「生まれた!」という感じを抱く。
カレは――いつもなに食わぬ顔で洗面室から戻ってくるカレは――この、静かに震動する朝の美しさを、十分に感じ取っているんだろか。日一日が奇跡なんだよというようなこの感覚を。
(なんて、言葉にすると、どうもちっぽけだけど。でも少しでも長く一緒に分かち合っていたい。)
6時15分。
いつも、この30分。報道バラエティが世界情勢や芸能ニュースを伝える傍らで、テレビ画面の時間表示を恨めしく感じる30分、の始まりだ。
ここにはいつもの閑話はない。会話らしい会話もない。適切な速度で義務のように朝食を片付けながら、テレビが訴える事柄になにか二言三言こっちからレスポンスする、くらいのことはあるにしても、興に乗っても絶対のタイムリミットが決められてるから、決して熱は帯びさせない。
そうしてあっという間に過ぎてゆくこの瞬間たちが愛おしい。
特別でないから愛すべく想う。
それから朝は、こんな私でも規格的な社会と触れ合えたような気に、一瞬だけさせてくれる。野放図で身勝手な私も、社会の歯車になれることの、ちょっぴりの安心感。
人間の暮らしに憧れてこっそり人里を覗き見ていた小タヌキが、実は自分も人間の子どもだったんだと知れたときのような喜び。
だけど小タヌキには、今や帰る場所がある。30分が過ぎ、サムターンを回す。私にも、もぐり込むべき場所がある。
一日が終わり、私はまた夕陽の頃に目を覚ます。
明日の朝は、どんなだろう。
何も変わり映えせずに、延々と、のびきったゴム紐みたいに、どこまでも、だらだらと、なにかにトレースされたような、少しの眠気の中で味わう、そしてカレンくんにとっては慌ただしい朝が、たゆたい、瀰漫し、続けばいい。
変化なんてなくていい。
ないほうが、いい。
***
でも変わってしまった。
それと気付いたのはある平日の朝だった。
なぜ?
。
わからない。
その日かぎりのことかもと、最初は疑った。違った。
何日が過ぎても変成したままだった。
ある日を境にトレースされた朝ではなくなってしまった。
突然。
みんな新品の方が良いとでもいうのだろうか。
***
夕食後、カノは思い切って訊いた。
「そういえば」と、自然を装って切り出す。「朝のチャンネル変えたよね」
「前のが良かった?」
「ううん」とカノは首をふる。「べつに、どこの番組だって同じだけどさ」
「そう」
「なんで変えたの?」
「え?」
カレはそれより爪切りに真剣らしかった。入浴後にやってしまおうと思ってたのが、うっかり夕食を挟んでしまって、おかげでパチンッ、と硬い。
「推しがね」とカレは言った。
「ん?」
「ほら、あの、メインキャスターだった子」
「ああ。育休だかで司会降りたんだっけ?」
「それ」
ん?
「もしかして?」
「そだよ?」
「え。今まであの子目当てで見てたの?」とカノは言う。「内容云々じゃなく?」
「どこの番組だって同じだよ」とカレは皮肉にやり返す。
猜疑的な視線、を、カレの頭部に注ぐ。
カレは足の爪に集中するためにフローリングの床に直接座り込んでいた。その頭部に注ぎこむ。
パチンッ、の音がどこかしらレクイエムの重みを含む。
「朝のさ、起きたばかりの時間というのは」となんだか静かに語りだした。聞いてもいないのに。「僕にしたって、やっぱり憂鬱だったりするんだよ。望んだ業界に入って、贅沢のように思われるかもしれないけれど、そりゃ働いてるからには、嫌なことだってある。ああ、今日もまた一日が始まるのか……そう考えると何もかも投げ出したくなるようなことが」
足指の裏の、ずっと奥の方の景色を見てる。
「そういう、どんよりと暗い気分の朝には、笑顔を見るだけで癒やされる、よし今日も一日頑張ろう、って、そう思わせてくれる、いわば慈愛的な存在が、必要なんだ。それを失うと僕もときに心の平衡を保ちづらくなる」
「おい?」
カレは虚ろな顔を、すっと上げ、カノを見た。そして口元にかすかにだけど温かみある笑みを宿した。カレは続ける。
「でも大丈夫。今は新しい推しが見つかった」
「おお。そりゃ良かったな」
さて、なんなんだこれは?
私の立場。は良いとして。私が宝物と感じてた時間を君はアイドルの追っかけごっこと認識してたのか。ものすごい温度差、だな?
カレは再び足元に視線を注ぐ。パチンッ。
なにかが切れた。
***
「でも、推し?」
「推し。カノンってそういうの興味ないよね」
「ないね。というか、私が気になってるのは、その言葉だよ」
「推し?」
「それ。カレンくんも使うんだ」
「楽でいいからね。たった2音でアイドルだろうとインフルエンサーだろうと、すべての肩書を包括してくれる。多様化に適応した合理的な響きだよ」
「なるほど。そう聞くと一理ある」
「と、いうと」とカレは言った。「なにかしら思うところがあるわけだ?」
「あんまり好きな言葉とは違うかな」
「推し」
「それさ、だってさ」とカノは不思議なリズムで言った。「すごく不遜な言葉に思うんだ。現代人の無意識の増上慢の表れって感じ」
「増上慢」
「だって想像してみなよ」とカノは勢いでなにか突き出しかけた、が、「や、ちょっと待って」
ほんとにちょっと考える。
カレはどっちにしろ爪やすりの作業に傾注してる。ハープ奏者がお気に入りの曲を弾くみたいに、穏やかに、心地よさげに。
しばらくしてからカノが切り出した。
「いいかいカレンくん」
「どうぞ」
「じゃあ、例えばだよ、道を歩いていて、見知らぬおっさんに肩を叩かれた。それで振り向くと、なんだかよくわかんないアプリを紹介された。ぜひスマホにインストールしてください、って、熱弁されるわけだ。これ、どう思う?」
「事案の生じ」
「ごめんアプリのほう」
「なんだろうね。怪しいアプリなんでしょ?」
「だけど、もしカレンくんの推しが同じアプリを紹介したら、どうなるかな」
「ああ」とカレは言う。「まあ、少なくとも、怪しさはないね。使うかどうかは別として。で、それが推しという言葉とどう関係するの?」
「つまり何かを『推す』って行為には、その行為をとる当事者にも、いわゆるネームバリューと呼べるような、何かしらの社会的価値が要求されるんだよ」
「そうかな。もっと適当なノリのこともあるよ。僕の職場でも、よくわかんない役職がよくわかんない推薦で決まったりする」
「忘年会の幹事だーれだ」
「みたいなやつね。誰か担当しないと困るけど、決して給与や人事には響かないようなやつ」
「でもそれだって、一年目の新人みたいな子に推薦されたって、影響力は皆無だよね?」
と、言われると、カレにもなにか納得するところがあった。なんだかんだで最終的に上役の鶴の一声に委ねられる。ことが多い。少なくとも研修を明けてすぐの新人が誰かを推認するなんてことは、たしかに分をわきまえない行為だ。
「だから増上慢だと私は言うんだよ」とカノは続ける。「誰かから推される側は、アーティストだったりモデルだったり、自分が就いている事柄に、熱量の差はあれ、とにかく頑張ってる。表舞台に立って、しっかり自分の名前を売っている。ところで誰かを推す側はどうなんだろう。大抵はカレンくんのような一般人だ。社会的には名も無い透明人間だ。それが社会的に非透明である対象を推そうというんだよ。それって、立場が逆じゃない?」
「や、こういう流行の誤謬を追及しても、意味がないと、僕は思うよ」
「もちろんそれはわかってる」とカノはうなずく。「でも、みんな気付いてるのかな、つまり推すっていう言葉の陰に、自分の立場を優位に見せかけようという腹積もりが含まれていることを……ううん、というよりも、既に自分が優位な立場にあると(それも砂上の楼閣なわけだけど)誇示したいための表現なんだということを」
「誰もそこまで深く考えてないと思うけど」
「だろうね。無意識だろうからね。自覚するまで自覚しない」
「いずれにしろカノンの考えでは、僕らが何かを推すのは、無意識のおためごかしのためなんだ?」
「社会的にそういう無意識が蔓延しているからのようには思う。マウント社会。論破社会。選民社会。そういう社会思想がうすーく引き伸ばされて、一見そうとは思えない現象や言葉の敷衍を、陰から下支えする。
『推す』という流行に限定していえば、実際は透明人間でしかない側が、非透明人間の非透明性を高めようとするのを建前に『いやいや、僕らは初めから色付きの不透明人間ですよ、優れたる選民なのですよ』と謳うことを本音にしているわけだから。
でも、これに誰も文句をつけたがらないのは、推す側はおためごかし、推される側は地盤の確保、で、ウィン・ウィンの関係になれるからね。当事者の誰にも実損被害が生じない」
「それなら問題ないじゃない。それをどうして気に入らない?」
「あんまり好きな響きじゃないってだけだよ。他人の褌で相撲を取ろうっていうんだもん。衛生的とは呼べない」
「不衛生が気になる」
「どうだろう。それよりも、その言葉の意味や、その言葉の後ろにある本質を、どれだけ把握してるのかなって。全部織り込み済みで、合理的だから使い続けるという選択を取るようなら構わないのだけど、闇雲に濫用しつつ自己心理に無自覚でいるさまは、傍から見ていて、結構怖いものがあるんだよ」
「僕には言葉にうるさいだけに見える。職業病の延長」
「かもね」
***
ところでうるさいついでにもう一つ足す。
「罪悪感」とカノは言う。「道徳的な文面で使われる罪悪感じゃないよ。カロリー・ボムな食べ物を修辞する方の罪悪感」
「チーズなんちゃら、ギガ盛りなんちゃら」
「それ、それ」
「一応訊いとくよ。なぜ?」
だってそれらの場面で使われる『罪悪感』は決して他者の命を奪うことに対する悔恨のためじゃない。
よりも、ただ自分のお腹に脂肪を蓄積させるのが『罪悪感』なんだ。運動もしてないのに、こんなに食べちゃっていいのかしら。いいわけない。太っちゃうわよね。太るに決まってる。やだそんなの『罪悪感』。と。
「それって単なる自己嫌悪ではないの?」とカノは言う。「なぜそれを罪悪感なんて言葉に置き換える? 『推す』の合理性を引き合いにすると、こっちは使用条件も同じなうえに発音数すら増やしてる」
ジコケンオ。ザイアクカン。とカレはそらで数える。ああ。確かに。
「思うに自己って言葉が責任の所在を断定するんだよ。もちろん意志薄弱な自分が悪いに違いはないんだけど、そういうことを言葉の上で明確に認めてしまうことを、無意識に拒否してるんだ」
「なるほど。それに対して罪悪感には主語がない」
「そ。だから主語をどこまでも広げられる。つまり責任の所在を薄められる」
「でも結果は自分に返ってくるわけだよね?」
「そこは逃れられない現実だからね。自己嫌悪を罪悪感と言い換えることによって幻想的に言い逃れしたいのだと思うんだよ」
「大丈夫。僕は悪くない。悪くない」
「という現実逃避、の表れ。悪いに決まってんだけどね」
「だけど誰もがカノンみたいに強いわけじゃない」
「私だって強いわけじゃない」とカノは言う。「でも、弱いなら弱いで、いいじゃん。弱いことは悪くない。じゃなく、弱いことを隠して強がりたいというのが、鼻につくんだ」
「違うよ、自己の責任を正面から受け入れられる人は、強い人なんだ。弱いからみんな罪悪感という言葉を使う」とカレもちょっと熱を帯びさせて言った。「その点は理解したっていいはずだ」
「かもしれない。でもそれだとしても、言葉の意味は理解しておかないと。私は弱いから罪悪感という言葉を使う。せめてそれくらいの理解は必要だよ」
カレは肩をすくめた。
「なんだか、今日はやけに攻撃的だね」
「だって八つ当たりの気分だから」
***
サムターンを回す。
6時43分。
彼は行く。5分待って、私は眠る。
同じように朝が巡る。
けれども一つとして同じ朝はない。並べてみれば無数のコピー品に見える動物細胞も、それぞれ個別のミトコンドリアを養成してる。細胞壁が境界を作り出し、一つとして同じものはない。
少しずつ変化する。横に。あるいは奥に。下に。底に。澱に。
私は眠る。
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