願い事ひとつだけ

 やる気。やる気が起こらない。とにかくやる気が起こらない。

 ソファに寝そべって天を仰ぐ。なぜここは603号室なんだろう。どうせなら実がたわわに生る果樹園の真ん中がいい。楽園。パラダイス。ユートピア。アルカディア。や。名前はなんだっていいけれど。

 とにかく口を開ければ、勝手にバナナがホールインする世界観。もちろんバナナは皮ごと食べられる。リンゴもパイナップルも。飽きるまで貪る。飽食の限りを尽くす。

 ……いや。実際そこまでの贅沢も馬鹿らしい。そんな酒池肉林のハーレム世界は望まない、にしても、だけど物を得るために思考を巡らすという作業、もしくは肉体的なことでもなにかしら代償を払わなきゃならない社会規範が苦痛である。

「あーあ。宝くじでも当たんねっかな」

「はしたないからおやめなさい」とカレが言う。「あと、テーブルに足を乗っけない」

「だってえ」と、途方もなく間延びした長音符付きの声。ひとまず足はローテーブルから下ろした。

 なぜこうなったのか?

 理由なんてない。あるとすれば『気分屋』だからだ。なにかのスイッチが突然入って(この場合『オフになった』の方が正しいかも)、昨日までの冷静で斜に構えてちょっと機械的な態度から、明けて、急にこうなった。

 胸を切り開いて肋骨の奥にある精神を覗いてみればよくわかる、その内側が、うじゃうじゃと無気力の巣窟になっている。やる気は飲み込まれた。もう助からない。

 反対にカレはちょっぴり真剣だった。次の考課までに取得しておけば給与に響くから、ダイニングテーブルに参考書を広げ、資格試験の勉強に励んでる。といっても機会は毎年だからそこまで意気込んでるわけでもないけれど。

 だから、もしかするとこういうことが原因だったかも。ダイニングの方のテーブルを占領されてしまったから、か、ここ数日カレが普段のように相手をしてくれないから、かもしれない。

 でもそれにしたって、ここまで人間をやめなくたっていい。ひとつづきのリビング・ダイニング・キッチンのリビングのソファで、めった打ちにされたボクサーみたいに、ジェル状にだらけてる。考えることは「いかにして人生楽に過ごそうか」のシミュレーションもとい妄想。

「カレンくんカレンくん。ここほれワンワン」

「ん?」

「油田。当てて」

「湧いたとして地主の総取りでしょ」

「ここって、個人、法人?」

「知らないよ。たぶん不動産屋じゃない?」

「私、うざい?」

「うん」

 ノックアウト。ジェル状からコールタール状へ。

 じゃ、やっぱり宝くじか。でも当たんないしなあ。無駄に3千円がもぎ取られるだけだ。あれ。待って。むしろ損してる?

 埋蔵金。も、おんなじように土地の所有者のものだっていうし、本家の蔵を探してみたら葵御紋の入った桐箱が! なんてことも絶対ない。そんな由緒ある家柄じゃないし、そもそも蔵がない。先祖伝来の土地もない。

 それなら玉の輿でも狙おうか。いや。やめとこう。

 ああ、くそ、なんなんだこの圧倒的庶民感。御曹司やら箱入り娘やら、と、そこまで現実を歪曲する気もないけれど、せめて一発逆転の可能性、そういう妄想の足がかり、くらい用意してあっても良さそうなものではないか。

 ない。決定的にない。妄想ですら成功者になれない。

 じゃあやっぱり宝くじ?

「当ったんネんだよどうせヨー」

「はしたないからおやめなさい」とカレが言う。「あと足。背もたれにも乗せないの」

 下ろす。しゅんとなる。

 なんなんだろう。私は一体なにをしてるんだろう。そしてカレンくんも一体なにをしてるんだろう。

「……そんなこと、いつまで続けるつもり?」とカノが訊く。

「きりの良いところまで」

「そうじゃなくってさ」

「なんですか。僕はすこし集中したいんだけれども」

「だけど、そんなこと一生続けてくつもりなの?」とカノは言った。

 なんだかそのニュアンスがちょっぴり深刻めいていて、ノートを取るカレの手が思わず止まった。そうすると後ろの方から玉突き事故みたいにドスンと疲労がやってくる。仕方ない。一息だけコーヒーブレイクを挟むとしよう。

 一生続けてゆくつもりかどうか?

 いわれてみれば、たしかに。通勤。試験。出向。学生時代を終えて今の業種に飛び込んでから、ずっとそんなことの繰り返しだし、これがいつ終わるともわからない。というよりも、そんな先のことなんて今まで想像もしてみなかった。

 だけどもう一度問われれば答えは決まった。

『当たり前だよ』

 だってそうして生きてゆくしかない。というのはこの世界には魔法や奇跡に保護されている人もいれば悲しいかなそうでない人もいる。僕はどうやら(今までの経験則からいって)後者の部類のようだし、もっと悲しいことにはそんな平凡な人間を救ってくれる神さまも仏さまもこの世にはいない。

「なら、私は悪魔に魂を売ってもいいよ」

「残念ながら悪魔もいない」

 カノは泣き出しそうな顔をした。本当の本当に納得できないらしい。

「おとぎ話の世界に生まれたかった」とカノは言う。「昔話には神さまも仏さまも悪魔もいて、なんだって願いを叶えてくれるのに」

「それは昔話だからだよ」

「わかってるよ。ファンタジーなことくらい」

 天井を仰ぐ。だけどカノはその耳に意外な返事を受けた。

「違うよ、可能だったんだ。というのは神さまも仏さまも悪魔も、はるか昔には実在したんだ。だけど人類の進化が彼らの仕事を奪って、この世界にいられないようにした」

 カノは途中までぼんやり聞いていた、いや、聞き終わってからもまだ仰向けに天井を見つめてた、けれど、カレの発した言葉が持つ意味を理解すると(要するにそれまで聞くともなく聞き流してた)、その発言の意味不明さに、半身をむっくり起き上がらせた。

「私たちがメフィストフェレスを殺した?」

「メフィストフェレス」とカレは丁寧に復唱する。「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』に登場する悪魔だね?」

「そういうハルキっぽい切り返しはいいから」

 カレは肩をすくめた。

「ま、メフィストフェレスはともかく。願いごと叶える系の悪魔はどれも僕たちが殺したといって過言じゃないだろうね」とカレは何事もなかったように話を一歩先に進ませる。「叶えようにも叶えられない願いばかりにしてしまったから」

「金! 若さ! 全知!」

「ま、最後のは問題なさそうだけれども」

「金と若さは」

「まず後者からだけど、若返るのはいいとして、その後どうするの」

「若さを堪能するよ。決まってんじゃん」

「僕が訊いてるのはってこと」とカレは言った。「戸籍や保険証や個人番号によって僕たちは社会から情報的に識別されている。おかげで履歴書に嘘を書けない。なら実際の生年月日として16世紀の日付を書いても、それはそれで嘘としか思われない。じゃあそのときだけ本当の嘘を通せばいい、けど、厚生年金の手続きに結局、保険証が必要になる。その保険証は400歳を超えた人の物だ。君自身のデータではあるけれど、世間は信じない。遅かれ早かれ大問題になる。こんなわけだから真っ当な表の社会に働き口なんて見つからない」

「じゃ、悪魔さん、保険証の改ざんもお願いします」

「というより他人になりすますしかないね。そして不正がバレないように、なりすましに使ったの息の根は止めとくしかない。でも死体は絶対に見つかってはいけない。今の警察組織はそこまでぬるくない」

「ほんじゃ悪魔さん、他人になりすますついでに完全犯罪も達成させて」

「何年更改で契約します? といっても願いごとの回数は有限ですけれど」

 カノはさっきまでとは別の位置の天井に、じっと目をやった。カレの言い分を考える。考えた末に、うん、とうなずいた。『たしかに若さを願うだけにしたら代償がとんでもないな』。実際的に他人の生き血を啜ってやがる。

 カレの方に視線を戻して、にっと笑った。

 面白そうじゃん。

「お金の方は、もっと難しい?」

「ほとんど無理といっていい」

 ソファの上にあぐらをかいて、さっきよりずっと聞く姿勢になる。

「それじゃあ君の願いは」とメフィストフェレスが言った。「お金持ちにしてくれということでいいのかい?」

「そだね。神さま仏さま悪魔さまどうか億万長者に」

「そのお金はなにで用意すればいい? 現金?」

「んじゃ、うん。札束で」

「まあ無理なんだけどね」とメフィストフェレスは笑う。

 なぜかといえば簡単だ。札束――つまり紙幣にはどのにも製造番号が割り振られてる。ぱっと見には同じシブサワに思えても実はすべてシリアルナンバーの異なる赤の他人だ。そしてこの世のルールとして決して同じシブサワは存在してはならない、し、同様に理財局に控えのない架空のシブサワを存在させてもならない。もちろんツダもキタサトも。

 存在したとしたらそれは贋札だ。魔法で生み出した完全なる『本物』だとしても法的には偽造として処理される。

「ずるい悪魔なら、君が社会的に信用を失墜させても『そこまでは契約外だから』と嘲笑って終わりにしてしまう。けど僕はどちらかというと律儀で親切な方だから、顧客のニーズには最大限応えてやりたいし、アフター・サービスもしっかり対応したい。だから『僕の能力的に可能であろうこと』でも『現実的に不可能であろうこと』には、前もってしっかりノーと突きつける。紙幣での提供は、これはハッキリ言って諦めてもらうしかない」

「架空の製造番号の紙幣をまず作って、後から照合可能な状態にしちゃうのではどう?」とカノは言う。「べつに、順番は逆でもいいけれど」

「それを一枚一枚やれっていうの?」とメフィストフェレスの呆れ笑い。「僕は顧客のニーズには最大限応えたいよ、だけどそのために自社を倒産させるつもりはない。つまり資本には限度があるし、その願いは僕の限度を遥かに超えている。それでもっていうなら、1つの製造番号につき1つの願いごととして聞き入れはするけれど」

「聞き忘れてたけど願いごとは何回まで可能なの」

「相場は3回だろうね。なので3万円」

「学生のバイト代かよ」とカノは口をすぼめた。「じゃ。札束はいいや。えっと。じゃあ。次はなんだ。硬貨? コインなら製造番号もないからいけるよね?」

「そうだね。硬貨ならまだいくらか現実的だ」

 注意すべきは製造年の刻印だけれども、これは何パターンか用意しておけば大丈夫。これくらいの差分なら1つの願いということでサービスしておくよ。

 ただ、ちょっと確認しておきたいんだけど、君はどれくらいの『お金持ち』を想定してる? たとえば500円玉換算だとして、たった1億円でも20万枚もの数が必要になる。一枚の重さがおよそ7グラムだから、これだけでも全体で1トンを超えてしまう。だけどこのご時世で1億円程度じゃ、ちょっと、ねえ。せめてその十倍はあったほうがいい。とすると……。

「で。君、これ、どこに保管しよう。下手な場所じゃ床も抜けるしさ。というか持ち運びはどうするつもりなの?」

「わかった。分かったから。黙って銀行持ってって」

 さて窓口ではどう説明しよう。それまで社会的にまったくの無名だった人物が突然出どころ不明の大金を預けたいと申し込むわけだ。

「魔法で製造したから預金してください」、それはあまりにも愚かだ。といって筋の通った説明も難しい。「500円玉貯金の結果で」が通用する額でもない。そしてここで身の振り方を間違えると破滅コースへの転落が決まる。法と秩序の側に属する様々な機関によってあらゆる帳簿が徹底的に調べ上げられ、法的に存在しない貨幣と特定されるや、首吊り台まで一気に連行される。

 ――それなら初めから当座預金に振り込んでおく、というのも無理だ。

「今や君たちの貯蓄はデジタルの情報として管理されている。僕が魔力を用いて口座のビット数を跳ね上がらせても、ただエラーとして検知され、情報がロールバックされて終わりだ。僕が魔力を注いだ成果はになる」

 何度やってもこれの繰り返し。例外はない。

「いや、一気に巨大な額面を操作するから悪いんだ、ときっと君はいう。でも少しずつ少しずつ、やってやったところで、そもそもこのデジタル情報はどこから生まれたんだ? 正当な金であると保証する『取引履歴』を有さない金が、君の口座から湧き続けてる。それはクラッキングで不正にデータを書き換えることと、どう違うんだろう?

 こういう理屈はクリプト・カレンシーの場合でも同じだよ。(まあ本当に少額ずつ『入金』という形を取るなら、どうにか合法的に収まりそうだけど、そんな親の仕送りみたいなことをいつまでも僕にやらせるつもりかい?)

 ま、そういうわけで、情報化社会と呼ばれる現代で通貨を増やそうというのは、若さを願うより危険な考えだ。

 だから、まあ、せいぜいダイヤモンドやゴールドや絵画といった先物で我慢した方がいい。といっても素人の君がその筋の人たちに真っ当に相手をしてもらえるかどうかは、僕は責任を持たないけれど(つまり善意の助言としては、そんなこともやめておいた方がいい)」

 初めにいったように、僕は悪魔ではあるけれど、君たちに寄り添って、その最大幸福の実現に、まさしく最大限助力したかった。だけど、そうできなくなったのは、君たちの方に責任があるんだよ。だって君たち現代人こそが、願い事ひとつだけすら叶えられない秩序と統制の幾何世界を愛したんだから。

「ファンタジーを失わせたのは、僕たちの方ではないからね」と最後にメフィストフェレスは言った。

 ちょっとのブレイクタイム。のつもりが案外長引いた。コーヒーもすっかり飲み干した。カレはどうしようかなと迷いながら、空になったカップを小刻みに揺さぶった。結局二杯目を淹れることにした。

 椅子から腰を浮かしかけたとき、カノの叫び声が聞こえた。

 カレンくんひらめいた!

抽選番号が当たるように頼めば良いんだよ!」

 悪魔さま悪魔さま、カノンが夢から覚めますように。っと。

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