巡り巡って忘れ忘る

 窓に花が咲いている。あれはいつのことだったろう。

 確実にいえるのは603号室に越してくる以前のことだ。もしくはこの603号室がキリマンジャロの頂上やマッターホルンの峻厳な坂の中腹に建っていたならそういうこともあったかもしれない。

 それよりも今はありえる話をしよう。

 その花は現実に窓に咲く花で、決して触れることはできないし、もし触れようと思うなら、窓にボーダーされたコチラからアチラへと、世界をまたがなければならない花だった。だから眺めるだけの花だった。けど実在する花だった。

 カノが初めて花に気付いたのは、ある凍てつく朝のことだった。室内にいても息が見える極寒の早朝だった。

 何気なしに開けたカーテンの先に花は咲いていた。

 夜通しの作業の果てに見た、白い花。フローリングの床が痛い。足の熱が急速に奪われてゆく。のに、動けなかった。そこに立ったまま、花にうっとり魅せられていた。

 初めて訪れた、凍える街での体験だ。

 それから三ヶ月後には二人はまた新しい土地を目指した。だからたった一回しか凍える街での冬は経験しなかった。その冬に数えられるだけの花を見た。でも次の転居先では花は咲かなかった。

 あの白い花はいつのことだったろう。

 寒さが最も厳しくなる時間に、窓一面に咲き誇る、白い花。なんだか遠い遠い出来事のようにも思えるし、せいぜい二年か三年くらい前のことだったようにも感じられる。時間感覚が本当に曖昧だ。

 そう考えると面白い。時間は常に等速に流れる(とされてる)のに、過去を振り返ったときにだけ、時間はいつも圧縮されている。もし取り出すことができるとしたら、zipファイルみたいに原サイズまで展開できたりするんだろか。

 ああ、ほんとうに、あの白い花はいつのことだったろう。

 いつも窓ガラスにしか咲かないで、そして精霊のように、陽がさしてくると消えてしまった。すうっと幽世に退いてった。

 幻想的だったしずっと酔いしれていたかった。

 凍える街では冬の唯一の楽しみでもあった。白いあの子がいなければ突き刺す寒さにはとても耐えられなかった。だからカレの異動が決まったときは寂しくもあったし嬉しくもあった。いまはもちろん寂しさだけが残ってる。

 そういう寂しさを重ねることもカノの人生の一部だった。なぜなら仕方ない。そういう相手を選んでしまって、しかもアマルガムな運命共同体とまで感じてしまってる。

 それに、寂しいばかりでもない。カレとの生活をすっかり楽しんで、異動命令を「風が吹く」なんて呼んでた時期もあった。

 風は何度も吹いたしそのたびに綿毛のように簡単に飛ばされて、おかげで二人はこの島国のあらゆる場所で芽を萌した。遠い遠い島嶼以外ならどこまでも流されたし、どの土地にもあまり深いとこまでは根を伸ばさなかった。そうなる前にまた「風に吹か」れた。

 凍える街もそのうちの一つだ。白い花のおかげで特別な感傷に彩られているけれど、そうでもなければ無数の「風が吹く」記憶とともに圧縮されて、あっけなく忘れ去られるような土地だった。現に白い花と寒かったこと以外、カノはなんにも覚えてない。

 ただ白い花。うっとりと。

 いま同じ季節がやってきて、同じ時間がやってきて、だから強烈に思い出していた。

 カレはまだ安らかに寝息を立てている。カノはそっと寝室を抜け出した。リビングまでくると、掃き出し窓を覆う遮光カーテン(と、外側のレースのカーテン)を左右に押し開けた。

 外はマリアナ海溝の底みたいに濃密な青に支配されていた。どぷん、と街が沈んでる。そして窓には……惜しむらく白い花は咲いていなかった。カノは起きぬけの頭で冷静に事実を認める。

『仕方ない。あれには絶対零度の温度が必要だ』

 ひとまず地続きのキッチンまで下がって、陶製の大きなカップにコーヒーを淹れた。カウンターの上にあるサイフォンは、ここより一つ前の土地で買ったものだけど、最近はめったに使わない。味よりも結局インスタントおてがるさの方に傾いてしまってる。インテリアとしては優れたシルエットだけれども、どうだろう、次の転居先には置いてやれないかもしれない。

 ぺたぺた。相変わらずの、フローリングに素足。

 片手に湯気を支えながら空いてる方の手で掃き出し窓のフックをあげる。お湯を沸かしているあいだにさっきよりもほんのちょっぴり青の濃度が薄まった外世界、に、カノは飛び出す。

 海底に沈んだ街。まだ眠ったままの街。

 603号室は知人づてに紹介された部屋だった。他にも候補はあって、それまではここより一段家賃の低い物件になびいてた。けど一回の内見でカノの方では腹が決まってしまった。ベランダからの展望に、それくらい感じるところがあった。

 あの白い花にも匹敵する美しさかもしれない。

(だけど注釈しておくとカレの方ではどんなインプレッションも覚えなかった。まあ街を一望できるのが良いかなというくらいだ。カノの感性はちょっと人並みとは違ってる。)

 この街は山脈に囲われてる。少なくとも603号室のベランダから見る景色は、どの方角にも山がある。その山々たちは圧倒的な色使いによって、ここがあらゆる意味での境界なのだ、と特定の部分に強烈な線を引く。

 いわば、その線の手前側、山脈よりこちら側、のベゼルの内側だけが『世界』だと、断定しにかかってる。その『世界』には、科学と数学と電子の象徴たるコンクリートの集積回路が、稠密に敷き詰められている。

 計算された直角の数々、と、極めてゼロに近い自然。

 それはカノに人々の活動の『結晶』と『罪業』を同時に思わせた。でその2つがアマルガムしてるこの風景に、そういう意味で、美しさを感じた。玉石混交、とでもいうような。

 だけど今ここに立ってみるまで、カノは想像もしてみなかった。

 濃厚な自然美の青が強烈なコントラストとなって『世界』を包む、冬の深い朝の、まさに刹那のこの瞬間に、結晶と罪業のアマルガムな美、が、最も際立たせられるんだ、ということを。

 凍える街よりは暖かい海底の街、とはいっても、ベランダに留まり続けるのにルームウェアと素足の格好は、ちょっと無謀でもあった、けど、もうそんなこと気にしてる場合じゃない。

 良く乾いた冬の朝だ。

 雲ひとつない濃紺の空に、ちらっ、ちらっ、と星が残されてる。月もまだそこにある。ほとんど新月に近い形なのが、明かりの慎ましさといい控えめな態度といい、悪くない。

 元々カノは冬でいえばこの時間帯が好きだった。冬の静寂を最も強調する、深い朝。

 人間は光を獲得してからというもの、常に夜の闇を駆逐し続けてる、のに、なぜかこの時間帯の暗がりには誰も手を下そうとしない。

 それがどういう理屈によるかは知らないけれど、おかげで人の気配を排除して人の痕跡だけ保存した、なんていうか、ポストアポカリプス的な、静的な芸術が、完成されている。

 冬の張り詰めた空気がそういう感覚を一層強めてくれる。

 もちろん実際には動きもある、明かりもある、音もある。だけどそういうのはどれも二重になったフィルタの向こう側の世界って感じがする。それもやっぱり冬の空気感がもたらしてくれる錯覚みたいだ。

 コーヒーを一口すする。安らかなため息を空気中に散布する。白く濁った花。すうっと大気に溶けてゆく。カノはちょっとぎこちなく笑う。情緒はあるけどあんまり芸術的じゃない。

『やっぱり、あの白い花の方がきれいだ。美しく誇る窓霜の花』

 あれはいつのことだったろう。


 そうして気づけば本当の花が咲く。白い花は窓を離れ、土手や、公園や、名も無い小高い丘の上に、色づいて、咲く。

「最初に梅が咲く」

「次に桃だね」

「最後に、桜?」

「そう。春の花はだんだん色が淡くなってゆく」とカレが言う。「最初に真っ赤な梅が出迎えるわけだ。冬のイメージカラーを白だとすると、極端から極端に飛翔する」

「で、意気込みやよし。徐々に尻すぼみ、と」

「見目麗しく春を開かせて、静かに後を引き取ってゆくんだよ。捉え方ひとつでこんなに美しくなるのに」

 わかってないなあ、とカノは笑う。

「下世話だから美しいんだよ、カレンくん」

 カレは肩をすくめる。だけどカノは本当にそう思ってる。

 だってみんな春には浮かれる。冬の巣ごもりから解放されて、なんでもできそうな気になって、全力でなにかに打ち込もうと意気込む。だけど冬のあいだに体がなまってるから、実は全力なんて無理だったって早晩気づく。それで徐々に尻すぼみ。人の行動と花の色の移ろいがこんなにも一致してる。自然との諧和。融合。その点から見たって十分美しい。それが飾り気のない態度だってのも、また美しいわけだ。

「まさに啓蟄なんだね」とカノは続ける。「暖かな陽気に刺激されて虫たちもモゾモゾ土の中から這い出してくる、けど、彼らだってまだ本気じゃない。これから全力に向かってく。春はいわばリハビリテーションの季節だよ」

 ひらひらと蝶が舞う。

 指を立てるとそこに止まる。春眠の蝶。まどろみの蝶。まぶたがおろされてゆく。

 そういう季節がこれより先にあることを思って、ベランダのカノはまた白い息を吐く。視線を引いて、敷地内に生える一本の巨木に目をやる。603号室にまで届きそうで届かない広葉樹。いま枝はほとんどむき出しで寒々しい(まだちょっと黄色い葉っぱが残ってる)。春には何色に染まるんだろか。

 白ければいい。透明なほど白ければ。


 それより夏にはどんな鳥がとまるんだろう。

 青々とした葉っぱを想像して、そこに大小いくつかの鳥を配置してみる。

 カラス。は困る。不吉という意味で。

 ハト。もどうだろう。駐車場の車が大惨事。

 ムクドリやスズメ、はそれより電線のが似合う。ツバメも木に止まるって感じじゃない。

 ツルやサギやタンチョウ、はサイズ感。

 ウグイス、それからメジロ、も葉っぱより花の方が相応しい。

 ……と、そうしてみる、と、広葉樹に調和する鳥は思ったより少ない。カッコウ、それからキジバト、この2つくらいが落とし所だろか。

 でも。

 カノは集積回路の箱庭に意識を向ける。

 この街に合う鳥は、もっと少ないだろう。そして街並みがより強固に『街並み』であろうとする場所では、きっと鳥はどんな種類であれ排斥されるだろう。「信号機に声を貸すあいつ以外は」。

「というのは機械化(近代化といったほうがいいのかな?)が進むほど人はそこから生命的なものを排除しようとするからね。それでもリードに繋がれた犬みたいに飼い主の管制下にあるのならいいけれど、これが野良だと、すぐに街からは追い出される。街に林立する『直角』たちは『自然』という不確定要素を嫌うんだ。だから浜離宮では存在が許されるカルガモもスクランブル交差点じゃ決して容認されない」

「そう。それで?」とカレは綿棒で耳を洗いながら言った。

「街は生命を迫害する。このことは冬に街がイルミネーションで彩られることにも裏打ちされてる」

「わかんない。理論が飛躍してる」

夏は生命が最も躍動する季節なの。啓蟄の春からリハビリを終えた虫、獣、草花たちが、いちばん美しく輝く時季。冬はこれの反対で、原始的にも冬は非・生命的だったり非・存在的な季節として捉えられてた。農耕に軸を置いたロムルス暦が、まるっきり冬の二ヶ月間を無視してたのも、ソレの特徴的な例だよ。このロムルス歴が、現代だと冬のイルミネーションに代表されてるという話」

「まだちょっと飛躍してるようだけどね」とカレは一旦耳掃除を中断して言う。「冬の街を光のアートで飾り立てるのが、非・自然的な行為なの?」

「だって光は制御可能だもん。電飾は非・自然的の象徴であり、是・人工的な概念だよ。それが非・生命的な冬を彩るのは、是・必然的コトワリなのよ」

「なるほどね。ところで君、クリスマスって知ってる?」

「それはただ現象に理由を後付けしただけのように思うけどな」とカノは言った。

「つまりカノンの意見では、クリスマスがなくても冬は人工芸術の試験場になっていた?」

「そのときはきっと、別の理由が用意されてたよ」

「なるほど」と言ってカレは今度は逆の耳に綿棒を突き刺す。元より興味に乏しかったのに、なぜ夏のいま、話が冬の方面に発展する?

 それに夏は生命の躍動を表現する、とカノは言うけれど、これだけの猛暑だと今年はまだセミの声さえ聞いてない。非・生命的な夏。エアコンによって是・人工的な夏。

 たしかに遠くの山は青々として、冬より雄大に見えるけど。


 そこに風が吹き付ける。

 カノは身をこごめて、口元にカップを傾ける。だけどだいぶ熱が冷まされている。保温タンブラーにすればよかった。

 せめてショールでも羽織ろうか、考えたけど、それも今更だ。

「今朝の朝明、秋風寒し」

 と、代わりに万葉集の一句を諳誦してみた。

 春が花。夏は鳥。そして秋は風なんだな、とカノは思う。(いっとくけど今は冬だ)。

 花鳥風月

 春夏秋冬

 つまり2つの四字熟語は連動してる。四季それぞれに「花と鳥と風と月」のそれぞれの美しさがある、というよりも、花の可憐は春に最も強烈で、鳥も夏にこそ最も姿を美しくする、と表してる。ような。

 黄色い葉っぱが風に煽られて宙を舞う。

 一葉だけ枝から離れ、ひらひらと。徐々に高度を下げて……見下ろすと、広葉樹の足元には黄色の絨毯が敷かれてた。

 どれだけの風が吹けば、そうなるんだろ。というよりも、そうなるまでに何段階の変化があったんだろう。きっと数えきれない、し、風がそういう変化を作り上げた。はずだ。

 そして冬の澄んだ空に浮かぶ月。まあ『悪くない』月だ。花鳥風月。春夏秋冬。やっぱりね。そういうことらしい。

 だけど私はもう一つ知っている。

 冬にも花だ。 花鳥風、白。


 あれはいつのことだったろう。思い出せない。巡り、忘れる。

「おはよう」

 と声がする。

「おはよ」と、にっこり振り返る。

 巡り巡る季節と忘れ忘る記憶を背中に、それでも良いかと思う。

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